24:artbook クレパス


 久遠くどおあさひはテキストとノートを鞄に突っ込んで講義室を後にした。

 昨日から繰り返し刺さり込んでくる難題が胸の中をかき乱す。

 孤独に生きたがっているほたるを、ありのまま受け止めていいのか。

 自分がこの世界から欠けたとき、彼女がひとりきりで冷たい街路を彷徨うことは絶対に避けたい。面倒な対人関係が言葉にできないほど苦痛なのは、充分に理解しているつもりだけれど。

 あの日、不意に回された蛍の腕が切ないあたたかさに溢れていて、深く傷ついた者にしか与えられない悲しみを内包していた。誠実さを塗装した裏側で彼女との出会いに感謝しているのならそれは、人間にさえ生まれなければと俯きながらも、人間に生まれた喜びを享受しているのと変わらない。仄暗い螺旋が追いかけてくる毎日に疲弊している。

 蛍はまた新しい漫画を読んでいたらしく、『孤立してた女の子に友だちができたから応援してたけど展開が不穏で心配』と言っていたのを思い出して閲覧してみた。

 強さと情味を抱えた人物の意思をリスペクトするけれど、建物も滅茶苦茶で命懸けの学生ライフだ。熱く研ぎ澄まされた血に触れたくて、つまらない現実に在籍しながら魅力的な世界と繋がることを楽しんでいる蛍の純粋さを、僅かな隙間だけ貸与してほしくなる。


 フィデルに送る絵のために洋館風のレストランを探している途中、彼本人からフォンに連絡が入り、参考にしたい画集があって街の書店まで来ているというので会う約束をした。

 研究員の萌葱モエギをどこまで貫けるかはわからないが、信頼できる相手なら秘密を放棄した方が健全に暮らせる。

 店の前で待っている間、飛田ひだと背格好の似た青年が通り過ぎて不愉快な感触が甦ってきた。実験室から出てきたところを捕えて余りあるダメージを与えておいたので、しばらくは直接的な加害行為を控えるはずだ。猶予は作れたけれど、あのとき事故に見せかけて葬らなかったことを近い未来に酷く後悔するような気がしている。どうすれば蛍と自分が収監されず、互いに生存している状態で飛田を無力化できるのか。

「モエギさん。お待たせしてすみません」

「久しぶりだな。画集はあったのか?」

「はい。この中に」と彼は美大生っぽい布の鞄を指差す。「水着の資料も5冊ほど」

 勤勉なフィデルとともに窓際の半端な個室へ導かれたが、隣席や通路に会話が漏れる危険性は低いと判断し、店内のスケッチをしながら漫画についての打ち合わせを始めた。

 彼は村で見た紅茶色の髪のまま、緩いTシャツに黒のキャップを被っている。

「読者のかたから、モエギさんの絵で架空の街を旅するのが最近の趣味ですってコメントいただきました。……本当にいいんですか? こんなに手伝わせてしまって」

「いや、全然。あの程度でよければいつでも」

「ありがとうございます。今後は双子に生まれた悪夢もストーリーの中で表現していきます。自分を殺したくなるくらい嫌だったのでもう我慢できません。すべてを解放します」

 仕事にしていても、していなくても、漫画家は尊さを併せ持った才気煥発な生命体だ。薬物などでは癒せない隅々まで、人の心を熱く満たせることが最高の希望だと思う。


 そろそろ解散という頃合いにウェイターが顔を出し、「今すぐにお店を閉めるので、よろしければ後日またいらしてください。申し訳ありません」と慌てた様子で告げてきた。

「何かあったんですか?」フィデルが驚いた面持ちで問いかける。

「実は、隣接区のビュッフェで先ほど毒物混入事件が起きたようで、シェフが念のため本日は閉店すると申しております」

 こちらには届いていない情報だ。詳細はわからないが、発作的に飛田の犯行を疑ってしまう。事件を警戒して以後の営業をやめるということは、現段階ではおそらく誰も逮捕されていない。怪我人の飛田が何らかの手段で使い捨ての駒に命じたとしたら充分に可能だ。

 暗い嫌疑を抱きながら最寄り駅でフィデルと別れ、噴水広場からビル壁面の大型液晶で報道を確認する。

 場所はホテル内のビュッフェで、多くの客が来店しており非常に混雑していた。毒物がどの料理に入れられていたかは捜査中。レジ付近にしか監視カメラが設置されておらず、テーブル周辺の映像はない。残念だが、14名が搬送され、旅行者を含む4人が犠牲になったようだ。化学的な物質か、それとも自然界の草花か。どちらにせよ、誰がどのタイミングで何を口にしたかを調べにくいビュッフェの特性を最大限に利用していてぞっとする。客の入れ替わりが激しく、毒物が仕込まれていた品目を突き止めたとしても犯人を見つけ出すのは難しそうだ。こちらの憶測通り、怪我の恨みを晴らすための報復だったとしたら、わざと負傷させた自分にも責任がある。

 罪の意識に苛まれている最中に蛍から着信があり、彼女も同じニュースを観て飛田の手によるものではないかと疑惑を強めていたらしい。奴は欠席しているようだ。

 これから会うことになったけれど、制服のまま来るというので都合の悪い人目を避けるため、学院から遠いプラネタリウムでの待ち合わせを提案した。

 やがて時間ちょうどに駆けてきた蛍は、間接的にビュッフェの客を殺害したかもしれない自分にも隔てのない親しさを向けてくる。少しだけ柔軟になれば、どうでもいい群集と適度に上手くやっていけそうだ。それを告げても、黙っていても、きっと失うものがある。

「眠そうだけど最後まで観られる?」と彼女が冗談めかしてプラネタリウムの入口に視線を遣った。「わたしは夜空の色が好きだから楽しみ」

 まったく賑わっていないので貸し切りになればいいと思う。誰もいないシアターの通路で肩を寄せ合うような孤独が自分たちの中に存在していることを静かに祈りたかった。

「ランチ休憩のとき、『また飛田君に纏わりついて彼の運気下げてるんでしょ!? 教室に来るな害虫!』って罵倒されたから言い返してみた。次は殴り合いになるかも」

「全部俺のせいだ。これが終わったら食事も提供する。戦力上げて敵を制圧しろ」

 醜い中傷魔や隠れた罪人ばかりが血を流さずに白日の下を歩いていける理由を知りたい。ここは、発狂した濁流共の笑顔が輝く素晴らしい社会だ。

 学生服の蛍が隣にいるせいか、高等科の頃に胸の奥で殺し続けた侮蔑と嗤笑ししょうを、偽りの星空にリスポーンされそうで嬉しくなる。



                              artbook:24 end.

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