23: record 実験室


 宇多川うたがわほたるあさひと待ち合わせた公園へ向かう途中、ぞっとする声に呼び止められた。仕方なく学院前の歩道で振り返ると、流行りのプリントTシャツに原色のパーカをお召しの飛田ひだが駆け寄ってきた。

「宇多川さんにお願いがあるんです」額に汗を滲ませた罪人が困り顔で通学鞄を開き、蓋のついた箱を取り出す。「これ、少しのあいだ持っててくれませんか? フォンが行方不明で……。教科書に挟まってるかもしれないので探したいんです」

「何が入ってるの?」中身を訝ると飛田が唇を尖らせた。安易なイエスは死に直結する。

「ハムです。ハムスター。元気がないのでこっそり連れてきました。可愛いですよ」と蓋を浮かせ、淡いベージュの毛に覆われた小さな生命体を確認させる。

 罠だと察して強く断ったが、胸元に押しつけられた箱を咄嗟に受け取ってしまった。

「ありがとうございます。あ、地面に置かないでくださいね。野良猫に襲われそうなので」

 手の中で微かに動いていた箱が突然静かになり、嫌な予感がしてそっと蓋を開けてみた。

 不自然に横たわるハム。底には濡れたコットンが貼りついている。状況が呑み込めず思考が停止した直後、薬品の甘い匂いとともに突き刺さる過酷な眠気で歩道にくずおれてしまった。油断するなと警告してきた旭の声が頭の中で回転している。

「大丈夫……、じゃないですね」勝ち誇った面持ちの飛田が無遠慮に距離を詰めてくる。「戻って休みましょう。ボクが運んであげますから」

 今ならまだ自分のフォンに触れそうだ。けれど旭をここに呼び寄せてはいけない。


 泥水に引きずり込まれるような眠りから覚めると、テーブルらしき硬い台に寝かされていた。次第に意識が鮮明になり、途端に激しい焦燥と身の危険を感じたが、何かに縛られていて起き上がれない。視線を巡らせて情報を集めた結果、ここはあまり使われていない学院別館の実験室で、自分を拘束した狂人は隣のデスクに座っていた。

 グラウンドの辺りから薄く笛の音が聴こえる。偶然通りかかった人が助けようとしてくれたとしても、その親切な誰かが殺されるだけで何も解決しないことは予測できた。

「おはようございます。寝すぎですよ」女子から貰ったと思われる手鏡でピアスを直していた飛田が微笑みかけてくる。服、顔、切りたての短髪、それぞれに流行が主張していて不気味なほど素が見えない。「なぜボクを避けるんですか? 理由を教えてください」

「異常だからに決まってるでしょ。こんなことするなんて……」

「些細な悪戯ですよ。ふたりきりで話し合えば孤立しがちな宇多川さんを説得できると思ったので。優れた協調性は武器にもなります。意地を張らず柔軟に生きましょう」

 口を開きかけた刹那、渾身の反論をフォンの振動に遮られた。音の間隔で自分のものだと確信したが、すでにポケットから抜かれている。

「『A』って誰ですか? 番号出てないんですけど」

「あなたに関係ない。返して」

 聞こえないふりをして飛田が通話ボタンを押した。長い沈黙の後、卑屈に唇を曲げる。

 おそらく旭は声を発していない。『A』は正体不明のままだ。

 飛田の方も喋らず、狡猾な目をして出方を窺っている。

 しばらくすると刺激を求め始めたようで、「何か言ってください」とこちらへ指示をしてきたけれど、ふざけた依頼に応じる謂れはなく、咄嗟の閃きで脱げかけたローファーを窓際のビーカーに向けて飛ばした。運よく命中し、耳障りな音を立てて硝子が砕け散る。

 飛田が瞬時に通話を切った。「やめてください。乱暴な作品に影響されてますね?」

「うるさい」非常事態であることと居場所の手がかりは伝わったはずだが、旭も軽はずみな行動は取らないだろう。姿を晒さずに助け出してくれるなら有り難いけれど。


 10分ほど経過した頃、廊下から真っ白な煙が流れ込んできて、戦慄するより早く視界が霞んだ。ほぼ同時に火災報知器が絶叫する。この建物が燃えているのだろうか。

「宇多川さん!」顔を背け、飛田が腕で口元を覆った。「本当にごめんなさい。逃げ遅れたくないので置いて行きます。ボクが欠けるとショックで退学する女子が大勢いるんです。こんなところで死ぬわけにはいきません」

「どうぞ。好きにして」一緒に逃げるくらいなら悪運を受け入れた方がましだ。

 飛田が部屋を抜け出した数秒後、壁に重いものを叩きつけるような衝撃があり、実験室の扉が開いた。聴き覚えのある足音が駆け寄ってきてロープが断ち切られる。

「遅くなって悪かった。靴探してくる」マスクとメガネで変装中の旭は前に侵入したときのアイテムを保管していたらしく、この学院の制服によく似た格好をしている。高等科の頃の彼は、抑圧と喧騒にまみれた時間の苦痛をどのように遣り過ごしていたのだろう。

 繋縛の残骸を振りほどき、腕を引かれて廊下に出ると、飛田が俯せに倒れていた。

「死んでるの? 自業自得だと思うけど」

「いや、ここで殺人沙汰はまずいだろ」

 飛田の右脚が変な方向に折れ曲がっている気がしたが、近づいて確認するのが面倒だ。

 こちらへ突撃してくる教員たちの声が迫り、旭の手首を掴んで1階を目指す。

「『次は助けないからしっかりしろ』って言って」

「無駄に自立するなよ」

 屋外の切ない風に吹かれ、狡く生きられない人々が命を絶たれていく訳を知りたくなる。

 理不尽で、憂鬱で、悲しいことばかりだ。未来に希望など持てるはずがない。

 帰路の途中、溢れる想いを抑えきれなくなり、駅前広場の入口で足を止めた旭の背中に身を寄せてしまった。

「わたしが飛田を殺すから」

 突然抱きつかれて戸惑ったのか一度だけ振り返ったけれど、彼は暗くあたたかい熱を保ちながら沈黙している。目を閉じた闇の中でも、シャツ越しに伝わってくる景色ですぐに、あの美しい絵を描いた本人だとわかる。容易に攻め落とせない守備の険しさが硬質でとても綺麗だ。尊いものを授かったのに、荒野を彷徨う生き方を宿命づけられている。

「放せって言わないの? ……返事はしなくていい」

 教室の孤独から逃れるために自分を捨てなくてよかった。今感じている桜色の夢が、寂しく凪いだ海に浮かぶ、ひとひらの花弁にすぎないとしても。



                               record:23 end.

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