22:artbook イレイザー


 久遠くどおあさひは通路を歩く人の声で目を覚ました。退屈な白っぽい天井に監視されていて、ここが大学の保健室であることが察せられた。

 深夜から早朝にかけて自宅のベッドでデッサンに明け暮れていたが、美大生の分際で実技の睡眠学習はまずいと思い、期限を確かめずに古い薬を飲んだところまでは憶えている。間を置かず、異様な吐き気と浮遊感で意識が朦朧とし始め、試行錯誤を繰り返した嘔吐計画は悉く失敗。大学には無事に辿り着いたらしいが、午前中に何を描いたのかさえ朧げで、この保健室に転送されてきた経緯もわからない。劣化した睡眠薬2錠で安らかに死ねるはずはなく、不注意の報復として猛烈な具合の悪さに襲われている。

 芸術への意欲も、肉体的なダメージの前ではあまりに無力だ。今の自分は群れから指弾の対象にされるだけの異物であり、右手にも左手にも誇れるものは何もない。

 様子を見に来た白衣の女性に迎えを呼ぶよう言われたけれど、ふさわしい大人を召喚できなくて胸が痛んだ。唯一まともな平間ひらま医師もこの街にいない。

 仕方がないのでほたるに連絡し、家族のふりをしてくれないかと頼んでみた。数分後に返事が届き、面白そうなので来てくれるという。その言葉に安堵したせいか、変装の目的で女学院のセーラー服を着ていた彼女の姿が脳裏を過った。地味なようで品のあるシルエットと、ブランコの囲いに軽く腰かけていたときの大人びた佇まいが、清らかな温度を保ちながら頭の中で揺れている。彼女は初めて出会った高潔な精神であり、この関係を閉じてしまったら二度と交わることはないだろう。

 しばらく簡素なベッドで待っていると、紺のショートパンツに淡いピンク色のパーカを着た蛍が現れたので、息苦しい美大のテリトリーから速やかに脱出した。

「旭。死にかけてるけど、わたしに無断で自殺しようとしてたの? 許可制なのに」

 どうせ理由つけて拒否るだろ、と苦笑しかけて口を噤んだ。「そういうつもりじゃなかった。……面倒なこと頼んで悪かった。死ぬときは許可取るようにする」

 ときおり壁やガードレールに凭れて休みつつ歩いている途中、予報より早いスコールに見舞われて蛍が傘を広げた。銃弾のような雨音にかき消されて会話が成り立たない。まるで無声映画だ。街が水没する前に避難しなければ。

 数歩の距離に偶然バスが停まり、行き先を確かめずにふたりで乗り込んだ。地図を持たずに走り出した、あてのない逃避行のようだ。


 やがて辿り着いたビル街のターミナルでバスを降りたが、そのうち治るだろうという希望的観測を踏みにじるレベルの眩暈と寒気で構内の通路に膝を着いた。

「大丈夫? 家に帰りたいなら頑張って連れてくけど」泣きそうな蛍がこちらを覗き込んでいる。口調は冷静だが、無感情な人間になるための素質がなさすぎて可哀想だ。「心配しないで。飛田ひだが近づいてきたらわたしが戦う。……制服の方がよかった?」

 駅の職員にレスQを呼ばれそうになり、焦って立ち上がった直後、暗くなる視界とともに周囲の音が霞んだ。意識が途切れる瞬間、名前を呼ぶ蛍の声から、あなたを失いたくないという感情が悲しいほど伝わってきて、その温もりに囚われた気がした。


 あの、漫画で親しんできた『ドサッ』は回避できたと確信しているけれど、目を開けると見知らぬ病室で無防備に寝ていた自分に引いてしまった。側に蛍の気配はなく、右手に握らされていた小さなメモに『すぐ戻る』と素っ気ない一文が綴られている。

 医療の力なのか、先ほどよりは明らかに身体が軽くなっていた。静かにベッドを離れ、点滴台を押して扉を開けてみる。誰もいない、平坦な色合いの通路が左右に延びていた。

 帰りが遅いけれど、蛍は無事だろうか。飛田がこの近辺に現れるとは思えないが、僅かにでも隙を見せれば彼女も容易く殺される。血の通った人間を、物よりも惨く扱える冷酷さ。悲鳴。恐怖。絶望。感情のない生命体には興味がないらしい。奴は、人々が身を寄せる避難場所に笑顔で爆薬を仕掛けるような猟奇性をいつまで隠しきれるのか。

 一秒でも早く飛田を仕留めることが蛍を守る手立てになるはずだ。シティ・グランの無能な警察は頼りにならず、安全な拠点から罠に嵌めるのも難しい。自分のすべてをなげうてば奴を殺すことも不可能ではないが、蛍がそれを望んでいないのは明らかだ。

 飛田が次に計画している殺人遊戯を、事前に知る方法があればと思わずにはいられなかった。

「具合どう?」病室のドアを開けた蛍が書店の大きな袋を提げている。「明日には帰れるみたい。気難しいけど人間の描き方が生々しい作者のマンガ選んだから旭も読んで」

 微妙に透けている破天荒な表紙に彼女の熱意とセンスが漲っていて最高だ。


 嫌がらせのように早い消灯で明かりが消えた後、簡素な長椅子で就寝してしまった蛍を抱き上げてベッドに移した。肌が白く儚げで、彼女が代わりに入院しているみたいだ。

 通学鞄からスケッチブックを取り出し、側のパイプ椅子に座って構想に取りかかった。

 まっさらな紙に立ち向かうとき、指先を巡る血の熱さで目が覚める。せっかくなので、窓の外にひしめくビル群が派手に破壊される様を漫画用の背景として描くことにした。そろそろフィデルの新作原稿が送られてくるはずだ。

 長くカーテンの隙間から無口な夜を眺めていると、精神を支配する青の暗さがどこから滲んでくるのかを知りたくなる。力の限りに抗い続けても結局は、生まれ持ったものを抱えていく以外に道はなく、濃淡の激しい苦しみと痛みは永遠に自分の一部だ。覗くと描いた絵に嫌いな内面が映りすぎていて、紙の鏡を滅茶苦茶に壊したくなるときがある。

「それ、完成したら見せて」いつの間にか覚醒していた蛍が闇の中で微笑んでいる。

「起きてたなら先に何か言えよ」自滅する前に手を差し伸べられてしまった。

「感傷的な気分に触られたくないってこと? 寂しくないならいいけど」

 ベッドから降りた蛍に毛布で包まれた刹那、彼女のやさしい言葉と慰めのもとに存在しない涙を拭われ、華奢な肩に額を預けてしまった。やわらかく背に回された両腕の、慈愛に満ちた温もりに傾倒し、その熱に縋って目を閉じる。

「……生きるのが辛くても、また新しい絵を描いて」

 左手首の古傷に巻かれた包帯が、『死ななくてよかっただろ? 全力で戦え』と嘲笑いながらほどけていくのは、崩壊した薬が見せる幻かもしれない。



                              artbook:22 end.

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