20:artbook 水
学内で起きた不愉快な出来事の処理が追いつかず、
講義の前に女子学生が落とした気味の悪い化粧品が足元に転がってきて、それを仕方なく拾って渡したことが悪夢の始まりだ。その女が馴れ馴れしく服の裾を掴んだので振り払った結果、酷い最低などと罵りながら派手に泣かれた。親密に交流しているような空気を出して、君づけのファーストネームで呼んできたのも気に入らない。講義の後、そいつの取り巻きと思われる他科の男に絡まれ、衆人環視の下で行われた謝罪の強要と、炭酸に似た微弱な暴力。こちらは応戦しただけにも関わらず、停学沙汰になりかけて気分が荒廃している。
胸の裡を曝け出せば和らぐ怒りかもしれないが、このふざけた話を蛍にしたくなかった。
口を閉じて絵を描くことですべてを浄化する。自分には他に何もない。
相手の挑発に乗るつもりはないけれど、油画の学生に彩色が下手だと侮辱され、このままでは終われない。
立ち寄った画材店のビルに嵌っている液晶TVから、クラブで起きた刺傷事件のニュースが流れてくる。被害者は3名。今のところ全員が生存している。犯人は曲の途中にフロアが暗転した隙を狙い、背後から次々とナイフを突き立てたようだ。混雑していたクラブの店内には加害者に繋がる痕跡が残っておらず、居合わせた客に呼びかけて目撃情報を募っている。「……またかよ。物騒な街だな」
疲れていたのでこの事件に
彼女はここに来ると言う。絶滅間際の最後の人類に会いたがっているような口調だ。
「明日でいいだろ。遅い時間に出歩くな」
『護衛が必要? 童話のお姫さまでさえひとりで遊びに行ってるのに?』と本人は冗談ぽく笑っている。『危ないのは昼も夜も同じでしょ。大丈夫。誘拐されたりしないから』
迎えに行くと伝える前に通話が切れた。
少し不安になり、サブウェーの駅で待っているとメッセージを送る。
すぐに返事が届き、出入口付近の街灯に凭れていたところへ制服姿の蛍が駆け寄ってきた。夜のミッションで気分が上がる体質なのか、笑顔も明るく溌溂としている。
「海を描きに来たの?」
「ああ、そうだけど」
再び砂浜に戻ってスケッチブックを開く。遠くから流れ着いた波が順に役目を終え、スニーカーの先で力尽きていった。
「クラブの事件、犯人は飛田だと思う。講堂で誘われた」
「証言募集してるくらいだから捕まる確率は低い。刺した後、客に混ざって逃げたはずだ」
「加害者と目撃者の2役? 無駄に演技上手そうで最悪」
続いて蛍は、水族館で見かけた女子生徒はたぶん殺されないと言った。
対話の中で牽制したのだろうか。飛田はきっと、彼女の鋭利な冷静さに困惑している。
自分の感覚で見ると声や仕草で、社会の人間が何を思っているのかは察せられるけれど。他者の機嫌。本心。愛憎。平穏に生きるためには知らない方がいいことばかりだ。
会話らしい遣り取りもせずに下絵を描いたが、色をのせる段階でパレットの失踪に気がついた。
諦めて袖を捲り、左腕の肌を代わりに使う。何度か海水で筆を洗った。
仕上げに取り組んでいる最中、不意に男の手記の内容が甦ってきてうんざりする。口を挟む立場にないが、主要人物をそれぞれ別のシティに飛ばして、殺意漲る三角関係に物理的な距離を贈りたい。本文を書き写して挿絵を添え、ウェブサイトに載せる仕事の報酬としては多すぎる小切手が秘密の鍵の複雑さを仄めかしている。男が刑務所にいるとしたら納得の着地だ。
視線の先で蛍が、夜風に乱された襟元を押さえてこちらを向く。首の真ん中で切り揃えた艶やかな黒髪が月明かりを反射していて、安易に近づいてはいけない聖属を感じた。
「旭。人間やめたいとか思ってる?」
ストレートすぎる問いかけに撃ち抜かれ、曖昧に笑って回答をぼかしてしまった。
苦痛の根源を棄ててしまえば楽しく素直に生きられるかもしれないけれど、おそらくもう二度と描いた絵に黒い血を注ぐことはできない。どれを選び、何を切り離してもどこかに穴があき、失ったものを濃い影が照らすのはなぜなのか。
やがて完成した海岸の風景を蛍に差し出すと、紺碧の空に散る白銀の光と波の描き方を称えられ、日中の苛つく出来事が薄らいでいった。
「疲れたでしょ。休憩したら?」彼女は砂浜の大きな岩を背にして座り、切なげな表紙の漫画を読み始めようとしている。「旭、早く来て。寒くて死にそう」
依命通りに側へ行って彼女の脚に頭を載せた。制服のスカートの、想像より硬い布地が夜風で少し冷えている。頬にプリーツの跡がつくかもしれないが、正常との些細な不一致には拘らないことにした。
「……ごめん、昼間。無視しようとしてたわけじゃないけど」
「どうして謝るの? 説明もいらないし、そんなことに気を遣わなくていいでしょ」
大人びた口調で言われると、密かに悩んでいた自分が幼く思えて嫌になる。
「社交の枷に囚われてた? 毎日わたしを避けたら治るかも」
「暴露療法かよ」
見上げると蛍が笑っていて、その振動が清潔な脚から伝わってくる。
「旭の髪、木の幹みたいな色できれい。……目が覚めたらまた海の絵を描いて」
か細い手に守られ、満たされた心のまま、海辺の砂を注射して死ぬのも悪くない。
大切にしていたひとりの時間を切り開いたとき、決して傷つくことはなく、水に溶けたインクのように淡く儚い痛みが生まれる。
artbook:20 end.
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