19: record 講堂


 他の生徒に混ざってボール遊戯に参加するつもりがなく、別館の巨大な空き部屋でテキストとノートを広げた。窓の陽が眩しいけれど、不規則に起こる歓声の脅威から逃れられただけでも有り難い。

 宇多川うたがわほたるは占拠した横長のデスクに頬杖をつき、大人っぽく荒んだ声の裏側であさひが飲まされてきた無数の針を想像する。ブランケットに置かれた寡黙な手は、何かを酷く怖れていた。

 目の前で寂しそうにされると抑えきれない感傷と愛情が、地下の画牢から彼を救いなさいと命じているのに、悩ましく、険しく、難しくて辿り着けない。

 けれど旭はこちらの胸中を見透かしていて、気まぐれに濃度を変える献身的な言動を、無口なやさしさで受け入れてくれている。

 この先、自分たちはどうなるのだろう。何が起きても、彼が忌むべきもののように自らの命を投げ出すところを見たくなかった。右腕との絆を破壊してほしくもない。

 頭の中を切り替える目的で落書きをした鳥のイラストが下手すぎて引いてしまった。

 何度教わっても身につかない、絵の密やかな奥深さ。

 旭の指に支えられた鉛筆が線を重ね、それがやがて世界の一部になる。

 たとえば彼の細胞を譲渡されたとしても、青い闇を湛えた清冽な陰影をえがき出すことはできないとわかっているけれど。

 もしも旭が同じ学院の生徒だったら、ふたりでこのホールの静けさを尊んでいたかもしれない。

「誰……?」空想を裂くように迫る足音。続いて扉が開いたが無関心なふりをした。

「宇多川さん。何してるんですか? こんなところで」

 演技じみた声の抑揚。初めからここにいることを知っていたみたいだ。

 現れた飛田ひだは妙に涼しげで、着ているジャージに汗の跡は一切なく、ピアスなどの装飾品も外していなかった。

「勉強だけど。集中できないから帰る。ここ使うならどうぞ」

 席を立ち、デスクのものを鞄に仕舞っていた数秒の隙に飛田が距離を詰めてきた。『活躍できるのに、なぜ試合に参加しないの?』と問いかけてほしそうだ。

「みんなとボール遊びしてきたら? そういうキャラでしょ?」

「足首が痛いんです。今日は大人しく見学します」と怪我を訴えてくる。

 それが嘘でも本当でも、快活に歩いている異様さに違和感を覚えない構造が理解不能だ。

「抜け出して、捕まるようなことをする予定なの?」

「まさか。辛辣モード全開ですね、宇多川さん」飛田は軽やかに受け流し、目の奥で黒い鞭を振り上げた。「まだボクに関心が持てないんですか? 不誠実な奴だと思われて警戒されてるのかな。誤解ですよ。全部」

 返事をするのが面倒なので飛田を残して帰ろうと扉へ向かう途中、背後から追い越してきた狂気が行く手を阻むように立ちはだかる。

「待ってください。本当に好きな人がいるんですか?」

「あなたと私的な話をするつもりはない」

「秘密主義続行ということですね。そこが宇多川さんの唯一の長所だと思ってますよ」

 飛田が恭しい態度で通路脇にけたため道が空いたが、突然の閃きに足を止める。

「暇みたいだからお願いしたいんだけど。……次に自殺しそうな女子に、『課外授業での出来事は気にしないで』って伝えてくれない? 責任感じて死ぬ必要ないでしょ。あなたが言って」

 手札を見抜かれたように、飛田が片方の眉を引き攣らせた。けれど忽ち善人の塗装が修復される。

「いいですよ。その代わり宇多川さんの連絡先を教えてください。クラブ行きませんか?」

「無理。でも伝言はお願い」

 咄嗟の思いつきだったが、今の遣り取りであの女子を殺しにくくなったはずだ。

 会話は終わり、落ち着いた表情の猟奇犯から「事件と事故に気をつけてください」と注意を促されて帰途に就いた。

 飛田の命を潰す役を、旭にやらせてはいけない。それがおそらく唯一の生存ルートだ。


 追跡されていないことを確認し、信号待ちの間に『今日会える?』と旭のフォンへ連絡したが、しばらく経っても返事がなかった。

 ひとりになりたい気分なのかもしれない。

 迷った末、いつもの公園を訪ねてみる。やはりブランコにも彼の姿はない。

 囲いの鉄柵に寄りかかり、自分の足元をぼんやりと見つめた。

 避けられるような奇行をした覚えがなかったので、集中して作品を仕上げているのだろうと潔く片づけたかったが、先日の疲れ果てた様子が青空に不安の翳を落とす。

 人間の裏を覗きすぎた旭の暗い眼差しと、美しい絵のコントラストが残酷なほど鮮やかだ。芸術性を与えられた彼が、他とは違う列車に乗るよう宿命づけられた結果であり、手にした切符が平凡で朗らかな路線のそれではなかった。

 だからといって旭から、何も授からなかった者を見下す気配を感じたことは一度もない。

 小さな望みが罅割れていく世界だ。多くを選べず、家の外は社交悪の坩堝るつぼ。人々の本性を乗せて回る真っ黒なターンテーブル。敵意と罠の歪んだチェスボード。

 旭はきっと、自分以外の他者に理解されない苦しみを紛らわせるために絵を描いている。

 助けられるのならそうしたいけれど、耳を寄せても彼の内側で傾いている回路の軋みを聴くことができない。

 心が近づいた地点から、また少し遠ざかっていく。

 隣にいるブランコの左と右が決して交わらないように、旭がすべてを晒さない距離感を大切にしているのなら、何もかもを知ってはいけないとわかっている。

 なのに夢の中でさえ、彼の擦り切れそうな感情と、傷んだ服に包まれた胸の温もりを思い出してしまう。

 悲しい湖畔を彷徨っていた、白くあたたかい手の輪郭も。



                               record:19 end.

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