14:artbook ペンシル


 久遠くどおあさひは公園のブランコでフォンの画面を確認した。

 美大での接触以降、ほたるとの音信が途絶えている。

 昼過ぎにフィデルから、あの『痙笑MAN』がコミック誌の付録として配信されると連絡があり、そのことを彼女にも伝えたかった。

 絵をやめたいと思っているわけではないし、唯一の特技を守ろうとしてくれた蛍の気持ちは有り難かったが、事件や事故を怖れて防壁の内側で朽ちていくくらいなら、車に轢かれても、飛田ひだに刺されても末路は同じだ。描くことに寄りかかって生きているのに、何かが矛盾しているけれど。

 再び届いたフィデルからの文には、『従順になるための成分が足りていなかったみたいです。』と意味深な言葉が添えられていた。先を読むと、漫画を仕事にはせず、趣味として続けながら、学芸員の資格が取れるアート系の大学へ進むことを考え始めたらしい。

 いい選択だと思う、と返事を送った。自由であるべき架空の物語にまで、批判を避けるための理解不能な規律を押しつけようとする風潮が悪趣味だ。こちらは堅苦しい枠から解放された人物と、容赦のないシナリオにしか惹かれなくなっている。

『助手が必要になったら連絡してくれ。課題の締切と被らなければ無償で手伝う。』

『ありがとうございます。改めてお礼をしたいので、ぜひまた村にいらしてください。長期休暇の数日以外は、あの屋根裏部屋に引きこもって原稿を描いています。』


 帰宅すると見慣れた封筒が届いていた。手記の複製と、一度も欠かすことなく同封されている小切手。サインは奇妙な筆記体で書かれていて、この紙切れから真相に辿り着くのは難しそうだ。創作か否かに加え、未だ執筆者の生死さえ黒い布に覆われている。

 内容は相変わらず大学院生たちの陰鬱な三角関係で、幸せな結末に向かう気配が微塵も感じられない。第三者に読まれることを意識していたらしく、ときおり出くわす『外から眺めている君はどう思うだろうか?』などの問いかけが不気味すぎてぞっとする。今回も文中に、改新されて久しい大学の旧名や、自分が生まれる前に取り壊された建物の略称が含まれていた。日付が入っていないので、それ以上のことはわからない。

『私』と、親しい友人であるのぼる、好意を抱いているさくらという女性。3人とも大学時代からの親密な関係で、揃って院に進んだ。『私』は、昇も同じく桜を特別に想っていることに気づきながらも、簡単には捨てられない相愛の夢に苛まれていた。

 時に自身の死を考え、恋敵の死を願い、彼女との情死に憧れる真っ黒な空模様。

 初めは後ろ暗い熱っぽさを斜めに見ていたが、今はなぜか、感情に翻弄されて密度の濃い毎日を生きていた『私』を羨ましく思う。憂鬱を授かった自分とは大違いだ。


 挿絵を完成させ、サイトを更新した。青春の記録を保持する目的で口の堅そうな学生に依頼してきたのだろうが、いろいろと面倒なので秘匿事項は伏せたままで構わない。

 ひと区切りついたところでフォンの通知を確かめた。

 蛍は、会うのをやめると切り出さない限り沈黙を貫くようだ。今現在も彼女からの連絡はなく、塞いだ気分を抱えることに疲れてしまった。ベッドに寝転がり、出す予定のないコンクールの絵を考える。そして、無心になれるまで何枚でも描く。自業自得と言えなくもない中途半端な生傷。それでも蛍と出会わなければよかったとは思えそうにない。会者定離は人のさだめであり、壊れていく関係に抗えないとしても。

 やがて目が覚めたときには身を起こす気力すらなくなっていた。

 どこかに転がっていった鉛筆を指先で探す。硬い軸に爪の縁が触れたけれど握るのをやめ、もう一度寝るという魔法を見つける。

 緩く死を受け入れていると想定外の声に驚愕死させられかけた。

「旭、生きてる?」

 衝撃で乱れきった胸に手を遣る。

 誰もいないはずの部屋で、険しい顔をした制服姿の蛍がこちらを覗き込んでいた。

「……何でいるんだよ」

「公園に来て、って送ったのに応答ないから。直接話した方がいいでしょ」

 フォンの充電が切れていたようで気づけなかった。ドアの鍵は掛け忘れたらしい。

「突然だけどカレー嫌い?」

 おそらく今、萎れた花に水を遣るような慈悲の心を向けられている。

「最後に食べたの中等科の調理実習だ。味憶えてない」

「大丈夫。待ってて。……エプロン持ってきてないからこの間の着替え借りてもいい? 失敗したら制服カレーまみれになりそう」

「今着てる。他のでよければ」

「旭が別の服にして。わたしが食材と一緒に帰ってくるまでに脱いでおいて」


 適当なTシャツとスエットに着替えてベッドに横たわり、仮死状態を楽しんでいたはずが、うっかり意識を消灯してしまった。

 いきなり口にスプーンを突っ込まれ、驚いて起き上がる。

「びっくりした? いつもより美味しくできたと思う」

 手作りのカレーは穏やかに甘く、先ほどまで着ていた服が蛍の薄い身体を包んでいた。部屋にあたたかい空気が流れていて、素直に心を委ねれば、幸せに似た灯りの熱にさわれそうだ。

「さっき学院から連絡があって、小兼こがねさんの友人が登山に行ったまま行方不明になってるみたい。無事に見つかるといいけど」

 不可解な事件が包囲を狭めてくる。油断していたら自分たちも廃路になるだろう。

「たくさんあるからもっと食べて。……どうかした? 寂しかったの?」

 からかうように髪をかき混ぜてきた蛍の手をやんわりと躱す。

 何ひとつ思い通りにはさせてくれない世界だ。

 今をとどめておきたい静かな祈りとは裏腹に、時の砂が胸の隙間から零れ落ちていく。



                              artbook:14 end.

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