13: record アトリエ


 雲行きが最悪だ。宇多川うたがわほたるはスコールの予兆を察知してサブウェーの駅へ走った。高等科の全クラスが当面のあいだ通学休止になり、先日の噴水広場で落ち合う予定だったが、集合時刻よりだいぶ早く着いてしまったのであさひはまだ講義に出ているはずだ。

 場所の変更をフォンで遣り取りした結果、距離を優先して彼のキャンパスに決まった。


 即断が幸いし、少し濡れた程度で済んだけれど、駆け込んだエミスフェール美術大学のエントランスで正門を振り返ると、白く煙って何も見えなくなっていた。

 素性を伏せるためにフードを被り、渡り廊下から事前に指示のあった図書棟へ向かう。

 ハンカチで水気を拭いつつ窓の外を眺めていると、殺人的な雨に包囲されているこの街のすべてが、大きくて不器用な何かに守られている気がした。

 沈黙の隙間に繰り返し考えてしまうけれど、これまでに命を絶った生徒のふたりともが飛田ひだと関わっている。たとえ殺害現場を目撃され、証拠を掴まれても、選出した第二の加野かのを人柱にすれば逃げられると鷹揚に構えているのだろう。

 殺伐とした気分で書架の縁に凭れた2秒後に旭が現れた。

「いいのか? 俺といるとこ見られたら中傷されるぞ」

「慣れてるから大丈夫。それより、キャンパス広くて素敵。案内して」

 始めに学内のカフェテリアへ移動し、好きなものを食べさせてくれるというのでホットサンドと紅茶を頼んだ。彼は同じメニューに珈琲を注文している。

 テーブルに着いた途端、陰湿な囁き声と視線に晒されてフードを深く被り直す。「研究員に変装した方がよかった?」

「放っておけ」

「あの人たちが愉快系惨殺魔に追われてても助けないつもりでしょ」

 彼は頬杖をついて冗談ぽく苦い顔をする。

「地獄で群れの仲間と再会できるように祈ってやるよ」

「自分の命にだけは無駄に執着するから簡単には死なないかも」

 おそらく、旭を攻撃している周りの学生は、彼の強固な防壁の奥に透けている荒野に協調と相容れることのない独立の意思を感じ取り、敵と見做して排除したがっている。

 そして今、忘れられた腕時計のせいで、旭の左手首に残る古い傷跡に気がついた。それは暗に、他者を痛めつけるくらいなら自分を虐げて終わらせようとする犠牲的回路の持ち主であることを示している。ここは、潔い歯車のままでは幸せに生きられない世界だ。


 館内を巡った末に到達したアトリエ棟は、3階から上が保管庫を兼ねた鍵つきの作業場になっているらしい。

 広い廊下の左右に同じ扉が並んでいて、旭がその中のひとつを学生証で開けた。

「入っていいの?」

 周囲に密偵がいないことを確認してから彼は頷く。

 隠れ家風のアトリエは平均的な子ども部屋よりゆとりがあり、巨大な作品に対応するためなのか、天井がとても高かった。

 続いてイーゼルに載っていた灰色の街を鑑賞させて貰ったが、下描きの段階でも魔力を秘めた静かな憂いが横たわっていて、胸が痛むほどに美しかった。絵の前に立つと、久遠くどお旭という描き手の孤独な情景が浮かび上がり、透き通った水の流れに指先の血を浸してみたくなる。

「腕、怪我させられたら困るでしょ? 飛田の件から離脱して。解雇ってこと」

「は? 雇われてたのかよ」と旭が笑う。「飽きるほど描いたから気にするな」

 けれど人の宿命として、与えられた素質と情熱を簡単に捨てられるはずはない。

 飛田は容易く旭の絵を奪い、迸る狂気を振り翳して内側から叩きのめすだろう。

 その先にはきっと、黒い夜に溺れるような永遠の闇が待っている。


 スコールとの遭遇で存在を失念していたが、持参した課題表を彼に渡した。

「美術、家庭教師に習っても問題ないでしょ」

「無理だ。教えた経験がない」

「わたしの課題は手伝ってくれないの? フィデルのあれには真剣に参加してたのに」

「俺が描けばいいのか?」と悠長に問いかけられたけれど、協力の度合いが極端すぎる。

「それはだめ。ばれて単位貰えなかったら困る」

 消えた授業の代わりに花の絵を提出しろとのことだが、死んだ生徒への餞のつもりだとしたら微温的な取り組み方はできない。小兼こがねは、本当に自殺だったのだろうか。

 旭と図書棟に戻って植物の写真集を借り、青いデルフィニウムをモデルに採用した。

「俺はこれに取りかかるから何かあったら訊いてくれ」

 そう言ったきり彼は自分の世界に行ってしまった。

 しばらく美大生になりきって集中してみたが、花弁の質感が難しくて上手く描けない。

「お願い。旭、来て。下手すぎて放課後呼び出されそう」

「そんなに酷いのかよ」彼は身を屈めて真新しいスケッチブックを覗き込んだ。

「わたしの気持ちとしてはもっと可愛く描きたいんだけど」

 揶揄する素振りもなく、旭は向かいから「まず縁の線を消して」、と繊細な手つきで修正を加えていく。「次に薄く輪郭を」

 約束された事故のように、4Bの鉛筆に引き寄せられた指が衝突する。

 はっとして顔を上げると、淡く緑色を帯びた旭の瞳もこちらを見ていた。変わり者でなければ恋愛沙汰で忙しく、崩れかけた日々の中で偶然出会うことはなかっただろう。

 このまま彫像になるわけにはいかないので、寒空に囚われた彼の頬にそっと触れてみた。微かな熱を添えた肌が陶器のようになめらかで、傷を隠した平たい胸がすぐ側まで迫っている。偏屈そうな長めの前髪と、緩い襟から覗く首の線が、絵の印象と相俟ってとても綺麗だ。飛田との攻防で失うには惜しい描き手だと思う。

「もうわたしに会わないって決めたら言って。旭がひとりでも頑張って生きられるように一度だけ抱き締めてあげる」



                               record:13 end.

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