15: record 管理棟


 宇多川うたがわほたるは、降車した群れの中にあさひを見つけた。あまり言葉を交わさず、他人のような温度を保って、これから山に登らなければならない。

 少し距離を置いてサブウェーの駅を出ると、一面に濃淡のある紺の靄が広がっていた。

 昼頃に学院から再び着信があり、単身で登山に向かったまま行方不明になっている杉谷すぎたにについて何か知らないかと訊かれた。あのことは全く根に持っていないけれど、課外授業でホースの水をかけてきたのが彼女だったと思う。同じグループだった小兼こがねの飛び降りは未だ、遺棄された多くの謎が死の足跡を覆い隠している。

 教員の話によると、杉谷が飛田ひだと密談していたという目撃情報が複数の生徒から寄せられたが、件の猟奇犯はボランティアで家を空けており、現在は海外の子どもたちと隣市のパークで遊んでいるため、明後日までは聴取に応じられないらしい。

 杉谷の失踪に関与していても、飛田が今夜この山に現れることはないだろう。けれど奴の手先を警戒して、旭とは他人同士のふりをする。

 周囲は星空登山ブームのせいかカップルや学生が多く、想像以上に賑やかな雰囲気だ。

 飛田に唆されて自死を躊躇っているのなら、杉谷はまだ生きているかもしれない。そう思うと行動を起こさずにはいられなかった。

 景色を眺める風を装って振り返ると、アウトドア系の衣服を身に着けた旭が斜め後ろを歩いていた。彼は視線が合った後、ほんの僅かに唇の端を上げ、睫毛を伏せる。

 緩い登山道を散策しながら、休憩地点のベンチなどをつぶさに確認したものの、杉谷の姿も、夜を越せるような小屋もなく、この辺りで再会できる可能性は極めて低いと感じた。


 やがて頂上の到達記念スポットに辿り着き、囲いの手摺から真っ黒な森を見渡す。風もだいぶ冷たくなってきた。写真撮影をしている集団を避け、帽子を深く被り直す。

 発作的な捜索に限界を感じ始めていたとき、ふと樹木の間に不自然な色を捉えた。ピンクか、それに近い小さなシルエットで、人のようには見えない。

 さりげなく旭の側を通り、「ふたりきりになるまで待って」と告げる。

 少しずつ登山客が疎らになり、自分たちの他には誰もいなくなった。

「この時間好きなの。外にいると癒される。……それより来て。何かある」旭を手摺に呼び寄せ、不審物を指さす。「よければ行ってみない? そんなに遠くないはず」

 彼の同意を得て持参したライトを点け、コースから草叢に逸れてしばらく進むと、鮮やかなピンク色の正体が見えてきた。

「リュック……」駆け寄ってファスナーに取りつけられたチャームを確かめる。「『T』と『W』。杉谷さんのじゃないと思う。廊下で『なつみ』って呼ばれてるの聞いたから」

 表面は綺麗で、この場にそっと置かれた印象だ。持ち主が近くに蹲っているかもしれないと思い、幹の裏を覗いている途中、乱暴に腕を掴まれてはっとする。

「崖だ。気をつけろ」

 一歩先が地面のない闇だった。抱き寄せられた胸の奥で、旭の方が深刻な恐怖を感じていることがわかって可笑しくなる。

「心配する必要ないと思うけど。まだ落ちてないでしょ」

 他人のリュックサックを開けたりはせず、戻らない誰かの行先は詮索しないことにした。おそらく今はもう苦しんでいない。

 足元を常時照らすよう指導があり、進行方向に光を当てた。「これでいいの?」と彼の顔を一瞥して踏み出した直後、太い根に躓いて雑草の上に横転する。

 すぐに助け起こされたが、足首と膝が痛すぎて立っていられない。受難続きで最悪だ。


「旭。目線が高くて怖いから少し屈んで」重い草の軋みが暗がりに響いている。

「無理だ。諦めろ」

「帰れないならマンガ持ってくればよかった。旭はどういう選び方してるの? 本とか」

「人物の心情が気に入ったやつは手元に置いて何回も読む。たぶん作者で決めてる」

 普段は退屈そうに傾いている割に、繊細で衷情的な絵描き系美大生に背負われて森を彷徨っていると、奇跡的に古びた山小屋を見つけた。帰路の半ばで最終のサブウェーに乗り遅れたことに気づき、一夜を明かせる場所を探していたので安堵する。

 近づいてみると扉はやはり施錠されていて、やむを得ず旭が窓を割って侵入を試みた。

「俺が中から開ける。待ってろ」

 迎えられてドアを潜ると、屋内には事務室を兼ねたリビングの他に寝室やキッチンが備わっていた。つまらない怪我をした自分の責任なので、硝子だけでも弁償しなければ。

 ベッドの上に降ろされ、部屋を出ていく旭の後ろ姿をぼんやりと見送った。背負われていたときの不思議な安心感と、喪失を憂う微かな痛みが胸の奥で揺れている。傷つくのが怖いのなら、簡単に死を受け入れそうな人を好きになってはいけない。


 薬の鎮痛効果に守られて浅く眠ったけれど、さほど経たないうちに目が覚めてしまった。

 そっと覗いたリビングのソファで旭が熱心に絵を描いている。退屈なので話をしたかったが、ひとりになりたそうな気配を察してベッドに戻った。

 そのまま寝つけず、朝方に様子を見に行くと、彼は保健室で怠けている生徒っぽくソファに身を横たえていた。描き上がったと思われる作品が床に置いてある。鉛筆で再現された山頂からの眺めには、気高く美しい夜空の戦果が散りばめられていた。彼が何を願って描いたのかはわからないけれど、傲慢な加害主義者が裁きを躱して微笑んでいる世界で、清潔なやさしさを持ち続けている人たちの救いになる絵だと思う。

 目を閉じた旭の、生きることが辛そうな横顔が、誰も映らない廃墟の鏡を連想させる。労りを込めて肩の辺りを何度か撫でた後、はみ出した大きな手を毛布の中に仕舞った。

 首に触れられる距離にいても、相手の心をほどけない人間の無能さが、からの砂時計のようで可愛くて切ない。

「さっきはありがとう。見捨てられてたら今頃星になってたかも」

 暗い夢を描く旭の指先と、あたたかい背中に、やわらかく澄んだ夜の青を重ね合わせる。



                               record:15 end.

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