10:artbook カルトン


 久遠くどおあさひは、旧ヒラマこどもクリニック2階の部屋で手記に添える挿絵を描いていた。相変わらずの、大人の男を連想させる硬い筆跡。書き手の『私』が静かに狂い、そう遠くない未来に一線を越える気がして怖ろしくなる。

 偶然にも午前に休講の連鎖が起きてしまい、午後から大学へ行くか否かの選択を迫られているが、疲れていて眠いのでそれすら考えたくない。

 下の階に移動し、吸い寄せられるように待合室のTVを点けた。やはり昨日の水難事故が取り上げられている。内容もほぼ予測した通りだ。

 底が破れてボートが沈み、乗っていた6人全員が死体で見つかっている。日頃から、暗くなるまでモールや公園を徘徊していた幼児と児童であり、事故当時も保護者の監視下になかったことが報じられていた。

 元凶となったボートは子どもたちの所有品ではなく、エアポンプと一緒に捨てられていたものを拾ったか、何者かに譲渡された可能性が高いらしい。かなり前に製造が終了した古い型で、ユーズドショップも含め近隣の店には並んでいないという。

 犯人が存在しているとしたら、今のところ計画は完璧だ。雑草だらけの地面に靴跡は残らず、ボートとポンプにも直接触れてはいないだろう。選ばれた生贄はすでに絶命しているので、全員に顔や声を憶えられていても問題ない。

 事件説を採るなら、加害者はどこで子どもたちに接触したのか。死の池に誘導した手口と、立入禁止のフェンスを突破した方法も謎のままだ。専門家は立地等の状況から、幼児と児童だけで決行するのは困難との見解を示しているが、現時点では6人が溺死に至るまでの動きがわからず、警察も事件か事故かを断定できていない。

 タクシーで児童施設へ向かわせた放置子が何か知っているかもしれないけれど、これが飛田ひだの犯行だった場合、話をしたことで幼いふたりも命を狙われる危険がある。

「……誰だよ」

 鳴り響くコール音を避けられずに応答した。いつからか、クリニックがクローズしましたという音声が流れなくなったらしい。パジャマ代わりのくたびれたTシャツとスエット、その上にブランケットを巻きつけた廃人風の姿ではあるが、心証の微妙な『は?』、『嘘だろ』を封印し、医師の長期不在で診療を行っていない旨を丁寧に謝罪した。


 ニュースの悲愴的な装飾に嫌悪感が増してきたので、着替えて公園へ向かう。

 事件や事故の結末を嘆くのは自由だが、犠牲になった子どもたちが生還していたとして、その先に心満たされる毎日が待っていたとは思えない。

「どうせ家庭の不要物に戻るだけだろ」

 予期せぬ死について本人の意向を確かめられない状態にも関わらず、犠牲者は絶対に救われるべきだったと決めつける強迫的な考えが口に合わない。

 ここは、生きているだけで幸せを感じられる世界なのか。

 笑顔溢れる真っ黒な人間関係、容赦のない無視と排除、見下げた中傷活動を愛している者たちにとっては、離れがたい楽園かもしれないけれど。


 ブランコで目を閉じると呪いをかけられ、幼少期の記憶が欠けている原因を探し始めた。もしもジョークで人を殺したりしていたら、笑いながら死んで償うしかない。唇の端から色っぽく血を流すと漫画の1シーンのようであり、飛田を道連れにすれば続編なしのハッピーエンドだ。

「誰が読むんだよ、そんな話……」

 会うと余計な心配をさせてしまいそうなので、今日はほたるが現れなければいいと思った。ボートの沈没が飛田の殺人計画であることを濃厚に疑っていた彼女は、確証を得る目的であいつを罠に嵌めようとしているかもしれない。

 あの意味不明な冷静さとは対極の、蛍という穏やかな名前。ポーカーフェイスの駆け引きに自信があるのは構わないが、露骨に狙った可愛い服で映画デートの待ち合わせに登場したり、美しく孤独な力の闇で他人を支配したりはしないでほしい。

 これからも永遠に彼女と出会った理由を知る術はなく、埋まらない空欄に奇蹟や運命などの綴りを滲ませるとロマンティックだ。

 わたしの絵を描いて、と言われたときがさよならの合図で、それがきっと蛍との最後になる。


 結局、午後の講義に行くのをやめた。

 このまま夜を待って、自分に纏わるすべてを投げ出してみるのも悪くない。

 長い間、悲観的な本体にしたたかな色を塗り重ね、氷の針を無効化しているような錯覚に囚われていた。

 唐突に蛍から着信があり、彼女は急いた口調で『飛田がやったと思う』と言った。

「何かわかったのか」

『授業の合間に近づいてきて、「これいらない? 貰ったんだけど」って……。小さい女の子が持ってる飾りつきのペン。遺品かも。……わたしが動揺することを期待してたみたい。連絡先の交換は断ったから大丈夫』

 遣り取りを傍受されないよう配慮したのか、おそらく電器店のTVコーナーで話している。蛍の声とBGMに混ざって届く最新の事件。付近の川で、昨日から行方不明だった男子児童の溺死体が見つかったようだ。池に沈んだ乗組員たちとは友人同士らしい。

『旭。ニュース聴こえてる? 本当は7人いたってこと?』

「そうみたいだな」

 不意打ちで現場を目撃され、追いかけて口封じに葬ったのか。思考の回路が人間ではない。あいつは証拠を掴まれたことを確認次第、恨みを込めて蛍を惨殺するだろう。

 通話を終えた後、動揺を鎮めるため、持参したスケッチブックに課題の下描きをした。

 何も怖れず、余裕が有り余っているふりもそろそろ限界だ。

「飛田、俺に殺されてみないか」

 胸の血が酷く傷んでいることを、描き出した灰色の街だけが知っている。



                              artbook:10 end.

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