09:artbook パレット


 久遠くどおあさひは途方もなく無駄な広さを持つ館内を歩きながら、村での出来事を思い返していた。ほたると相談し、グラント家のふたりにフォンのサブアドレスを教えたので有事の際は連絡が来るはずだが、叶うなら飛田ひだの人命遊戯に彼らを巻き込みたくない。

 課題用の画材を揃えて約束のブックストアへ向かう。蛍とは講義と授業の合間に遣り取りし、このショッピングモールで待ち合わせた。一緒に歩いているところを見られても怪しまれないよう、家庭教師に参考書選びを手伝って貰っているとクラスの女子に吹聴しておいたらしい。流石に飛田も監視の多い店の中では危害を加えてこないだろうが、平和な時空に頭の中を書き換えられてはいけない。

 店に辿り着くと、絵本の森の小さな椅子で蛍が物語を紐解いていた。グレーのワンピースに映える白いスカーフ。学生服のしおらしい印象とは裏腹に、従順さを切り離した独立的な意識が透けて見える。歩み寄る前に、こちらに気づいて顔を上げた。

 ふと、蛍の側に佇む幼い男女に興味を引かれる。それぞれに汚れた貴族風のブラウスとシャツを着ていて、足元は古びたサンダル。保護者の姿も見当たらない。

「わたしに『ここにある絵本、全部読んで』って……」

「面倒だから関わるな。俺は命の危険を感じる」


 朗読を迫る子どもたちを振り切り、フードコートの隅で休憩する。可愛げのあるワッフルを手にして蛍は嬉しそうだ。こちらの皿には裸同然のベーグルが載っている。

「課題の絵、何描くの?」

「架空の廃墟。実在しない建物の方が自由でいい。灰色の街を完成させたい」

 珈琲を挟んで会話をしている途中、真横から突き刺さる濃厚な視線に緊張が走った。近くの空きテーブルで先ほどの子どもたちが微笑んでいる。円らな瞳に満ちた熱意は皿の上に注がれていた。

 無言で席を立った蛍が食べかけのワッフルとベーグルを包み、トレーを片づける。「放置子だと思う。可哀想だけど、知らない子に食べものあげたら叱られるし、シティ条例の授業でも教わったばかりだから」

 彼女の判断に従って足早にフードコートを離れた。

 出口を目指している半ばで蛍が突然立ち止まり、つられて振り返る。

 追っ手はまだ諦めていない。誘拐だ、などと騒がれたら死にたくなる。

 咄嗟の思いつきで紙の切れ端に児童施設の名を書き、余白に『助けを必要としています』という一文と、泣いているヒヨコの絵を添えた。

「タクシーの乗り方わかるか?」

 姉らしき女の子が頷く。彼女の小さな手に紙幣とメモを握らせた。

「ドライバーと施設の職員にこれを見せろ。上手くいけば普通に暮らせる」

 一度タクシー乗り場へ向かったふたりが、駆け戻ってきて蛍に抱きついた。

「ばいばい」と言い残し、膝でよじ登るようにしてドアの開いた車の座席に消えていく。

 このまま帰る気になれず、最上階のカフェテラスで話の続きをすることにした。


 外の席を選び、テーブルに着いた直後、さほど遠くない場所から悲鳴が上がった。

 屋上の柵周辺に客が集まり、身を乗り出して何かを凝視している。

 池の方で事件か事故だ。騒々しさに辟易しつつ横目で窺ってみたものの、5階のテラスからはかなりの距離があり、鬱蒼とした枝葉と人の背に遮られて現場の様子を見通せない。

『子どもを乗せたボートが』、『6人も』と残酷な死の描写が宙を舞っている。

 外はまだ明るいが、遊泳禁止の深い池だ。徒歩圏内に清潔な川があるにも関わらず、雑草が高く生い茂り、分け入るのが困難な暗い水辺でボートを浮かべていたこと自体が不自然に思えた。大人がつき添っていたとしてもあり得ない。

 痛ましく顔色を失くした蛍が、「もしかして、また……」と呟く。

 こちらも嫌な予感しかしない。病原体の次は事故に見せかけて殺すつもりなのか。

 たとえその通りでも、確かな証拠を掴まない限り飛田を投獄できない。犠牲は増えていくばかりだ。真相を抱えた蛍も、隙を見せれば容易く命を奪われるだろう。

「さっきのふたり、児童施設で保護して貰えてるといいけど」

「大丈夫だ。あいつらのことは心配するな」

 走り出したタクシーの窓から元気に手を振っていたので幸先を信じたい。

 やがて騒ぎが大きくなり、店の責任者と思われる人物が駆け込んできたが、レスQ隊員の到着が遅く、幼い乗組員たちが助かる可能性は低そうだ。辺りに悲愴な空気が漂い始めている。


 やむを得ない事情で閉店時刻が早まり、蛍と帰途に就いた。

 飛田の犯行を強く疑っているせいか、彼女は固く唇を閉じ、有能であるために感情を凍らせた司令官のような表情をしている。

「……旭。今ならまだ無関係の学生に戻れる。わたしはひとりでもいい。だから」

 微かに触れた腕の隙間を曖昧な夜風が通り過ぎていく。

「俺が決めたことだ。退屈な暮らしが大事なら断ってる」

 長いあいだ気づかなかったけれど、憂いを帯びた瞳でモールの建物を振り返った蛍のスカートに謎のシールが貼りついている。王子と姫が見つめ合っているロマンティックなデザインだ。自分たちの未来を示唆しているとしたら、熱愛加減が最高に笑える。

 本人に告げると、彼女もすぐにあの子どもたちの仕業だと察したようで、丁寧に剥がしたそれを鞄の中のクリアファイルに貼り直した。

「一番気に入ってたやつくれたんじゃないのか」

 蛍はあたたかく微笑み、「そうだと思う」と言った。

 報われない涙を隠し、事情を嵌めた手を差し伸べ合って生きることは美しいけれど、救いというには何かが足りない。



                              artbook:09 end.

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