第16話
家に帰ってきて二日後、旅行社から連絡があった。出国用のIDが届いたのだ。僕が取りに行って契約の最終確認を済ませた。準備万端だ。出発は一週間後。目標達成まであと少し。やれることは全てやったし、あとは楽しむだけ。心配性の僕はだんだん緊張してくる。なかなか気分が盛り上がらない。
「マリッジブルーって奴じゃない? 次はどこを目指せばよいのか、分からなくなってるのよ。モチベーションが低下している」
マリコさんが分析して言った。マリッジブルー。違うと思うけど、分かるような気もする。
「出発前なのに、もう終わってしまったような寂しい気持ちがあるんです」
僕は言った。
「サイゾウは美味しい物を、最後に残しておくタイプよね。大事にし過ぎて、いつまでも食べられないの。腐るまで眺めていそう」
マリコさんが笑った。
「そうやって僕が大事に取っておいた物を、パッと取り上げて食べてしまうタイプでしょう。マリコさんは」
「その通り」
ふんぞり返ってマリコさんが言った。偉そうだな。マリコさんは相変わらず明るい。
あっという間に一週間が経った。ついに出発だ。早朝、旅行社から迎えの車がやってくる。僕らはほとんど荷物を持たずにビルを出た。金持ちは身軽に旅をするものだ。スラムを出る前に病院へ寄って、五十万ドル円の偽造タグを首筋に打ち込んでもらった。これで僕らは、晴れて都市部の人間となった。マリコさんは元々、都市部の人なんだけど。
車は直接空港を目指さずに、一旦近隣の地方都市へ向かう。新しいタグの情報によると、僕らはその地方都市に住んでいる、中流階級の若者という事になっている。地方都市の入り口でタグがしっかりと認証された。車のモニターに文字が表示される。
「お帰りなさいサイゾウ様」
「お帰りなさいマリコ様」
僕らは顔を見合わせて笑う。懐かしの故郷。この街に来たのは初めてだけど。
住宅地の真ん中で車から降ろされた。ここで少し待っていて下さい、と旅行社の人に言われる。車が来た道を戻って行った。
「綺麗な町だなあ。ゴミひとつ落ちてない。こんな所で生まれ育ったら、どんな人間になってたんだろう」
僕は辺りを見回しながら言った。
「都市部で生まれたらね。サイゾウは問題児になっていました。引きこもりになって、ずっとネットやゲームをしているの。中学生なのに学校にも行かないで、マーケット情報に目を光らせてる。お父さんのクレジットカードを使って、株の取引で一儲けを企んでいます」
マリコさんが言った。
「なんですかその想像力は。でも、当たってるような気がして嫌だなあ。そいつかなり嫌な奴ですよ。スラムに興味はあるけど、差別感情も持っているんです。しかも潔癖症で汚いものに触れない。でも金を儲けた途端、スラムに巨額の寄付とかをしそうだな。それでエセ文化人として名を馳せる」
本当にそんな自分が有りそうで恐い。
「よくも自分の事をそう貶められるわね。架空の自分だとしても」
マリコさんが吹き出して笑った。
「その僕がマリコさんに出会ったとして、鼻で笑われて無視されそうだな」
「だけどサイゾウがエセ文化人になったら、鼻で笑うどころか爆笑してしまうわよ。きっと」
マリコさんが本当に爆笑した。
「身の程を知らずに、マリコさんに告白をするんですよ。金を持った勢いで。『君を守る!』とか『俺に付いて来い』とか言いそう。嫌だなあ」
「でもさ、もしも二人がお隣りの家に住んでたら? ここみたいな静かな住宅地で、幼なじみとして出会っていたら。きっと今と変わらないと思う。仲の良い恋人になってたわ。そんな気がする」
マリコさんが僕の顔をじっと見て微笑んだ。僕は一瞬息が詰まって、涙が出そうになってしまった。
マリコさんが大きく深呼吸して、空気がおいしいわねと言った。生身の体はとても敏感だ。マリコさんが普通の人のように、パーツを体に入れていたら、いったいどんなマリコさんになっていたんだろう。
タクシーが目の前の交差点に止まった。運転手が窓から顔を出して、サイゾウ様でいらっしゃいますか、と言った。お迎えが来たのだ。僕らはタクシーに乗り込んだ。
タクシーが駅に向かう。地方都市のターミナル駅だ。そこから列車に乗って、空港へ向かうことになっている。おおまかな流れは旅行社で聞いていたけれど、住宅地を経由するような、手の込んだ事をするとは思わなかった。詳しい理由は分からないけれど、万全を期すという事だろう。
僕は電車に乗るのは初めてだ。列車移動のスムースさに驚く。三百キロ近くスピードが出ているのに、ほとんど振動がない。知識としては知っていたけれど、実際に体験すると興奮する。二十分ほどで空港についてしまって名残惜しい気がした。都市部の人たちは、ずいぶんと便利に暮らしてるな……。
地方都市のターミナル駅と到着した空港駅。見るものすべてが高級で、洗練されている。至る所に広告が出ていて、必ずしも美しいとは言えない。スラムとはまた違ったカオスな感じ。都市部もなかなか面白い。トイレ一つをとっても、最先端の技術が使われている。そこら辺の部品をもぎ取ってお土産にしたい。我ながら考え方がセコいし、モラルが無い。スラムの人間が、都市部に入れない理由が分かったような気がした。
駅から直接空港に入った。最初のゲートもタグは問題無し。ようやくテンションが上がって来た。調子にのってマリコさんの手をにぎってしまう。僕らは都市部の若者で、これから海外で長い休暇を楽しむのだ。夏休みのシーズンはまだ少し先。勉強熱心では無い学生が、親のすねをかじって自由を謳歌する。なかなか羨ましい身分だ。
マリコさんが僕の手を強く握った。視線は真っ直ぐ前の方を向いている。黒いスーツを着た男達がこちらに近づいてくるのが分かった。
「お嬢様、お帰りください」
三人組のスーツの男達。その内の一人、小柄な中年の男性が、マリコさんをお嬢様と呼んだ。
「あと一週間だけ。そうしたら自分で戻ります」
「お父様のご命令です。申し訳ございません」
男が答える。忠実な感じ。丁寧で感情がこもっている。
「少しだけ時間を頂戴。一時間でいいから。私はサイゾウに説明をしなければならないの」
マリコさんが言った。
「お嬢様……申し訳ございません」
男が繰り返して言った。マリコさんが天井の方を見て、瞬きもせずにじっと考えるようにしている。そのまま無言で時間が流れた。男達は微動だにせず。
「私のタグはどうなってる?」
マリコさんが男に訊いた。
「偽造タグの情報は停止されました。出国は不可能です」
「サイゾウのタグは?」
「サイゾウ様のタグには全く干渉しておりません。恐らく出国にも問題は無いと思われます。わたくしが保証するものではございませんが」
男が言った。一旦離していた僕の手を、マリコさんがもう一度強く握る。そして言った。
「サイゾウ。説明する時間も無いの。私は元の場所に戻らなければならない。また会いましょう? きっとまた私はスラムに行くわ。だから今回は、あなた一人でバンコクへ行くのよ。私のためにお願い。分かったって言いなさい?」
マリコさんは表情を崩さない。だけど目が真っ赤だ。涙がほっぺたの上にこぼれる。マリコさんの手にさらに力が込められた。僕のパーツの手がきしむ。
「分かりました」
僕は微笑んで言った。
「どうもありがとう。……さようなら、サイゾウ」
ほっとした表情でマリコさんが言った。そしてスーツの男達と一緒に、空港の出口の方へ歩いて行った。僕はもうマリコさんの手を握っていない。
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