第15話
明け方頃にようやくお開きになった。何故か部屋割りが男女別ということになり、僕は狭い部屋でゴツイ男達に囲まれて眠ることになった。コタツからドイツ人を引きずり出して、部屋の中心に陣取る。僕は寝付きが悪い。他人が側にいる状況なんてもっての外だ。しかし目をつむったら、あっという間に眠ってしまった。お昼ごろになって金髪さんが部屋を覗きに来るまで、僕を含め男達は熟睡していた。サイゾウ風呂に行くぞ、とドイツ人男に揺り起こされる。夢も見ずに寝て、二日酔いにもなっていない。薬の効果というよりも、温泉の効果かもしれない。楽しく飲めたおかげもあるだろう。
宿はチェックアウトが午前十時の決まりで、既に時間をオーバーしてしまっている。この際ということで、僕とマリコさんは二泊分の料金を払って夕方まで滞在することに決めた。他にお客もいないし、番頭さんが快く了承して下さった。
ドイツ人達はあと三日ほど泊まるのだと言う。辺りの山でハイキングをしたり、キャンプをしたり。次は京都に行くと言っている。優雅な休日だ。セカセカしてない。長い休暇を取る習慣があるからだと思う。日本人は、何世紀たっても休みの取り方が下手クソだ。僕も温泉に入りながら、仕事の事をずっと考えていた。人の事は言えない。
眠たい目をこすりながら真っ昼間に露天風呂。鮮やかに目が覚めていく。山の空気が素晴らしく、呼吸するだけで栄養を摂取しているような気持ちになる。疲れた体を癒すには最高の環境だ。僕はスラムのベテランズのことをまた思い出す。僕にもっと余裕があれば、彼らをここに連れてきてみたい。「夢を見させるな」とカクマルさんにまた叱られそうだけど。
「何を考えてる。浮気男」
いつの間にか、マリコさんが背後に忍び寄っていた。ドイツ人男達が気を使って、隅っこの方に移動している。
「昨日はスミマセンでした。繰り返しになりますが、僕にその気は全くなかったんです。ただ、抵抗が足りなかったとは思います。反省してます」
マリコさんはまだ厳しい表情をしている。
「サイゾウは私の事を決して束縛しない。詮索もしない。それでいて、私をとても大切にしてくれてる。その感じがとても自然で、大好きなの。どうもありがとう」
マリコさんがうつむいて言った。
「いいえ、そんな」
「サイゾウを束縛していいのは私だけなの。その権利が私にはあるの。私だけなのに」
マリコさんが小さな声で言った。白く濁った温泉の水に涙がこぼれる。
「ホントですね、その通りです。御免なさいマリコさん」
僕はマリコさんの肩を抱いた。僕は心から昨日の事を後悔した。台無しにする所だった。
僕らの会話が一段落した様子を見て、ドイツ人男達がワイワイと近寄ってきた。こいつら、ほんとに空気を読むなあ。日本人より上手じゃないだろうか。お金持ちだからかもしれない。外人にはガサツなイメージがあったけど、彼らはかなり洗練されている。
涙目のマリコさんをなんとか励まそうとして、男達が愛の詩を捧げ続ける。これにはみんなが爆笑した。マリコさんもかなり笑った。ドイツ語も英語ももちろん分からない僕が、なぜだか一番笑っていた。ちなみに僕はドイツ人の名前を、カイテルさん以外ちゃんと覚えていない。「ウォルフ」とか「ゲルなんとか」とか、女性も「ヘルなんとか」だとか。とても覚えにくい感じなのだ。これだけ仲良くなっておきながら、我ながら酷過ぎる。一番空気を読んでいないのは、僕なのかもしれなかった。
昼食は宿で蕎麦を食べた。二泊分の料金を払ったので、番頭さんがタダでサービスしてくれた。素朴な味がしてとても美味しい。豪華ではないけれど、朝も夜も料理にハズレが無かった。これで八千ドル円。やはり格安だ。いつでも温泉に入れるし、山の空気が素晴らしい。だけど八千ドル円。スラムには、一日の稼ぎが千ドル円に満たない人もたくさんいる。
街には物乞いの人もいる。ゴミ箱から食べ物を漁る子供だっている。他の国からやって来た出稼ぎの労働者達。みんなすごい貧乏だ。アジアや中東系に混ざって、欧米系の労働者も最近増えている。ここの温泉で出会ったドイツ人達は、明らかにエリートだ。何が良いとか悪いとかではない。貧富の差がすごくあるな、と僕は思うだけだ。
「難しい顔をして」
マリコさんが笑った。僕らは、宿の近くのハイキングコースを歩いている。
「スラムの人達の事を考えてました。一日の稼ぎがほとんど食費で消えてしまいます。温泉旅行なんて出来るはずも無い。旅をする事が出来ている僕は、相当運がいいですね」
「幸せはお金では買えないわ。でも、貧乏の辛さは経験しないと分からないのよね? サイゾウの昔の話、もう一度聞かせて」
マリコさんお気に入りの話。
「あの小さなビルに、すがるようにして生きてきました。両親は組織の人間で、街の人もそれをよく知っています。だから襲われる心配は無かった。でも、スラムで一人暮らしですからね。色々困難はありました。近所の人に食事を分けてもらったり、商売人の使い走りをして小銭を稼いだり。給食が出るので、学校にはちゃんと通ったんです。みんな貧しいから、給食の残りは大争奪戦です。お腹いっぱい食べられたら幸せでした。ゴミ拾いの仕事は、小さい頃からやっていました。本業にしようと思ったのは中学生の時です。だけどなかなか上手く行かなかった。今は慎重になりましたけど、当時は汚染なんて全然怖く無かったです。本当にキツイときには、リスクなんて関係がない。金と食べ物の事しか考えてなかった」
昔話と言っても、それほど昔の事ではない。
「ご両親が遠くからあなたを見ていて、本当に最悪の状況になったら、きっと助けに来てくれるはず。そういう風には思わなかった?」
マリコさんが訊いた。
「思わなかったんですよ。ガキンチョの頃から、両親はほとんど家にいなかったし。思い出が殆ど無いんです。母には、今も年に一度くらいは会いますけど。親というより、大切な友達みたいな感覚です。変な家族ですよね」
僕は笑って言った。
「サイゾウはスラムの子だと思う。スラムの街が生んで、育てた子供なの」
マリコさんが言った。
「そうですね。実際、僕の家族はスラムの街なんだよなあ。マリコさんに言われると、何故かとても納得できます。それが少し不思議だな」
僕の言葉にマリコさんが微笑む。
「分かるわよ。私、スラムをとても愛しているから。都会の人がスラムを愛しても、別にいいわよね? 例えば、ドイツ人が日本を気に入ってくれているみたいに」
マリコさんが僕の手を握った。都会の人にこそ分かる、スラムの良さもあるのかもしれない。
「私の家出は大成功だった。サイゾウというスラムの星に出会えたんですもの。ますますスラムが好きになったわ」
繋いだ手を振り回して、楽しそうにマリコさんが言った。
夕暮れの景色を眺めながら、最後にもう一度温泉に入った。ドイツ人達とお別れをして、僕らは帰宅するために車に乗る。山道を抜けて高速道路に出た時、まるで夢を見ていたような気持ちになった。山奥にひなびた温泉宿。ドイツ人達と楽しい時間を過ごした。浴衣姿のマリコさんが素敵だった。
「温泉……終わっちゃった」
マリコさんがつぶやく。空はもう真っ暗で、高速道路の照明だけピカピカと光っている。
「きっとまた、必ず温泉に行きましょう」
僕は言った。マリコさんが小さく頷いた。
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