第17話

 バンコク行きの飛行機が出るのは午後四時。今は午後二時半だ。出発までまだ余裕がある。そう言えば腹が減っている。電車の中で食べる予定で、僕はふたり分の弁当を買っていた。乗車時間が短すぎて、食べるヒマが無かったのだ。高速で流れる窓の外の景色や、電車の構造に見とれていたせいもある。そんな僕の様子を笑って見て、マリコさんも弁当に手をつけないでいた。

「お弁当は空港のロビーで食べましょう。飛行機が離陸する姿を見ながら。サイゾウは飛行機にも見とれてしまって、またお弁当を食べられないかもしれないけれど」

 そう言ってマリコさんが笑っていた。僕は今、片手にビニール袋を下げている。中にはお弁当が二つ。マリコさんはもち米が好きなので、おこわと鶏肉の照り焼き弁当なるものを僕は買った。一つ千五百ドル円もした。

 つなぎ目のない大きなガラス窓を通して、飛行機が飛び立ってゆく姿が大迫力で見える。ガラス窓の前にはベンチが並んでいて、僕はそこへ腰を降ろして、弁当を食べ始めた。とても美味しい。高級な味だ。屋台のモノとは素材が違う。飛行機も見たいけれど、弁当が美味しい。あっという間に自分の分を平らげた。まだ全然いける。僕は二つ目の弁当のフタを開けて、今度はゆっくりと味わって食べ始めた。

 飛行機のペイントに特徴があって面白い。航空会社それぞれの国の色が出ている。日本の飛行機は、小奇麗にまとまっていてスマートなデザイン。ちょっとつまらない。それがまさに日本らしい。ここら辺のセンスは、パーツの世界にも共通している。遊び心が無いよな。

 飢えた経験があるからか、僕は時々がっついて食べてしまう事がある。食べ終わってから喉が乾いている事に気がついた。自動販売機でコーラのボトルを買う。三百ドル円。強い炭酸が喉にしみて美味い。一息ついて、僕はまた飛行機が飛び立つ景色に目を移した。いくら見ても見飽きない。飛行機だけじゃない。行き交う人々や、運搬機械等も興味深い。

 旅行の手配を済ませたあとに、僕は自分が飛行機に乗る姿を想像出来なかった。ネガティブな意味ではなくて、現実感が不思議に無かったのだ。僕は今、バンコク行きの航空券を持って、空港のベンチに座っている。大型モニターにスケジュールの表示が出ている。搭乗まであと一時間。文字が点滅して、出国手続きを急いで済ませるようにと促している。


 搭乗十分前に最終のアナウンスがあった。僕とマリコさんが乗るはずだった、バンコク行きの飛行機。僕は屋外の展望台に行って、離陸する姿を見ようと思った。

 外に出たら誰も人がいない。小雨がぱらついて来たので、みんな空港の中に戻ってしまったらしい。柵に片手を引っ掛けて、僕は自分の飛行機が飛び立つ瞬間を待った。タイ航空。マリコさんが機内食を楽しみにしていた。

 離陸三分前。ゆっくりと飛行機が回転して、滑走路に乗り出していく。レールを使って加速する、最新式の飛行機だ。リニアモーターを使っているので、燃料の節約になるし安全性が高い。航空券に付いてきたパンフレットにそう書いてあった。

 空につきだしたレールを駆け上って行った。凄い勢いで飛び立って行った。何故だか僕は、飛行機の中に僕とマリコさんが乗っているような気がした。マリコさんはもう、中央都市の自宅に到着しただろうか。直接病院へ行ったのかもしれない。

 

 空港の中に戻って同じベンチに座る。居心地が良くて、かなり気に入ってしまった。確か航空券の料金に、空港使用料というのも含まれていたと記憶している。存分に使ってやろうと思う。

 午後八時。お昼過ぎに二人分も弁当を食べたのに、猛烈に腹が減ってきた。それで空港内の寿司屋に入って、上寿司を注文した。一万ドル円。スラムだと中古のパーツが買える値段だ。寿司ではなくて、パーツの部品を口に入れているような気持ちになった。日本酒も注文した。二百ミリもないのに二千ドル円。タグをスキャンさせて頂いてもよろしいですか、と板前さんに言われた。お酒はハタチになってから。僕は十九歳。だけど偽造タグでは二十歳ちょうどにしてある。こんな所で役に立つとは思わなかった。

 高いだけあって、寿司も酒も美味しかった。散財してしまったけれど、ヤケクソになっている訳ではない。いちいち値段をチェックしている時点で、僕のケチは証明されている。使うときにはパッと使うタイプらしい。僕は。

 もう一度ベンチに座る。また同じ席。マリコさんと別れた場所から、三十メートルも離れていない。未練は無い。僕には未来がある。

 

 午後十時。暗い夜空に飛行機が飛び立っていく。どうしても飽きない。空港は二十四時間営業のようなので、今日はここに泊まることにしようと思った。まだ眠気も無い。アレだけ食って酒も飲んだのに、僕の意識は冴え渡っている。心は静かに落ち着いている。

 誰かが僕の横に座った。全体的にベンチは空いている。わざわざ僕の横に座る必要はない。何者かと思ったら、マリコさんだった。

 僕の横に座ったまま何もしゃべらない。飛行機が離陸する姿をじっと眺めている。マリコさんが横にいると、とても満たされた気持ちになる。それでようやく実感が湧いて来た。僕はマリコさんを失ったのだ。

「言い訳しなさい」

 マリコさんが、窓の外を眺めたまま言った。僕は少し考えて、そして話し始める。

「マリコさんは都市部の人間で、お金持ちのお嬢様です。マリコさんのご家族が、家出をした娘を探し当てるのは、そんなに難しいことではありません。隠れていたわけでもないですし。スラムには至る所に監視カメラがあります。バレている可能性は高かった。その事を僕もマリコさんも、充分理解していました。だけどそれを口に出す必要は無かった」

「そうね……続けて」

「近いうちに終わりが来ることも分かっていました。でも僕たちは、今を楽しむことを優先した。先の事を考えて時間を浪費するべきではない。行けるところまで行く。それが基本方針でした。小さな夢に向かって頑張りましたね。とても楽しかった」

「後ろ向きなサイゾウが、前向きになったわ。私のおかげで」

 マリコさんが言った。

「厳密に言うと、僕は今も後ろ向きです。前向きな生き方はかなりリスキーなんです。特にアンダーグラウンドの世界では」

 夢を見ないほうが生きられる。

「私……家に帰ってから、空港のデータベースを確認したのよ。サイゾウがちゃんと飛行機に乗ったのか、確認する為に」

 僕はマリコさんの横顔を見つめる。

「私の父は都市部の有力者なの。裏の世界にも絡んでる。空港のアクセス記録なんて、簡単に手に入るのよ」

 何故か申し訳なさそうにして、マリコさんが言った。

「可愛い」

「え?」

「マリコさんすごく可愛い」

 マリコさんの顔が真っ赤になった。それから急に顔が青くなる。血の巡りが凄い。さすが生身。

「どうして? どうしてバンコクに行かなかったのよ。約束したじゃない。つまらない事を言ったら殺すわよ」

 マリコさんが涙目になって言う。

「遺伝子の病気と、冷凍睡眠は本当の事ですよね。嘘だとしても、ほぼ同じような状況だと僕は考えました。当たってますよね?」

「……」

 マリコさんは下を向いて黙っている。

「僕の夢を話します。マリコさんをいつか絶対に取り戻してみせる。その夢があれば、僕は前向きに生きていける。少しずつ情報を集めるんです。マリコさんの状態を把握して、あわよくば病気を直す方法にも関与したい。何も終わったわけじゃない。これから始まるんだと思った。だから温泉の時も楽しめたんですよ。半分、泣きそうでしたけどね」

 僕は少し笑って言った。

「なかなか偉いね、サイゾウ」

 マリコさんがちょっと悔しそうにしている。

「もう少しヒントが欲しいな。マリコさんの秘密を、もう少しだけ。僕の人生に、一層の励みが加わります」

 僕は言った。日本酒の酔いが、今更まわって来ているような気がする。

 マリコさんがじっと考えるようにして、小声で話し始めた。

「父親が有力者だって言ったでしょう」

「ハイ」

「父は今年で九十九歳になるの。パーツも入れてはいるけれど、肉体がかなり弱ってきてる。それを見越して父は、臓器培養をすることにしたの。七十九歳の時。私は今、ちょうど二十歳」

「それって……」

「私は父のクローンなの。臓器を培養するための触媒として生まれた。私の臓器を父に移植すれば、リスクはほとんど無いわ。だって、自分のDNAとほとんど変わらないんですもの。非合法だけどあまり問題はない。パーツの臓器を使えば、提供者の私が死ぬことも無いから。私が生身である理由は、まずそれが一つ」

 マリコさんが言った。臓器移植を前提に子供を作ったということか。酷いけれど、全然あり得る話だ。

「遺伝子の病気は?」

「うん。私はクローンなんだけど、多少DNAがいじられているのよ。改良DNA。発がん性のリスクを軽減したり、内臓の能力を高めるために、人為的に手が加えられてる。それでね? あろうことか改良DNAが、原因不明の病気を引き起こしちゃったわけ。DNAをいじり過ぎたのね。今の医学では直せない。将来解析が進めば、治療は出来ると考えられている。そこで私は、眠って待つことになりました」

 マリコさんが力なく笑った。

「病気でパーツは入れられない。父親への臓器移植も不可能になったと……」

 僕は言った。

「二十年の間にパーツが進化して、今では移植の意味がほとんど無くなったでしょう? それとね、父の心にかなりの葛藤が生まれてしまったの。移植の為に私を作った事をとても後悔してる。その結果、必要以上に私は父に愛されたわ。私はそんな父を慰めたりしてね。だいぶおかしな世界よ。私は父を愛している。必要があれば、父に臓器をあげたいとさえ思ってる。それと私は、パーツ無しのカラダを割と気に入っています。自分が不幸だと思ったことは無いの」

 マリコさんが言った。

「家出は?」

「私、遺伝子の勉強にかなりの時間を費やしたわ。自分が生きる為に。治療の道筋は付けたつもりだけど、結果は出なかった。冷凍睡眠は少なくとも三十年は続く予定なの。そのまま永遠に目覚めない可能性だってある。それで眠る前に『私生きたな!』って事をしたいと思いました。それで、サイゾウ君のところへ行くことにしたの。スラムの星。ミギウデさんの所へ」

 マリコさんが僕の顔を見て微笑んだ。

「どうやって……、どうして僕に目をつけたんですか」

 僕は驚いて訊いた。

「ミギウデ五百本をゴミ捨て場で拾って、改良して売りさばいて。さらにはプレゼンの為に、自分の右腕に換装してみせたわね。気概がある。若いのに礼儀を尽くしてる。街の人の評判も悪くない。ついでに彼女もいない。スラムの星という名前を最初に使ったのは、決死隊のお爺ちゃんだったわね。だけどサイゾウ。あなたの輝きを最初に見つけたのは、たぶん都市部にいた私だったと思う。この人と一緒に青春してやろうと、私は計画したわけ。わりと上手く行ったわ」

 マリコさんが得意げに言った。都市部には情報がダダ漏れだ。気をつけないとヤバイ。まあ金持ちや権力者に目をつけられたら、スラムの住人は抵抗のしようが無いのだけれど。他の誰でもなく、マリコさんに目をつけられた僕はとても運が良かった。


「ところでマリコさん、何で戻って来れたんですか。雰囲気的に無理そうでしたけど」

 僕は訊いた。

「父親に会って直談判したのよ。父はギリギリまで私のワガママを許してくれるの。本当ならもう、施設で眠っていなければならないのよ、私。父が言うには、海外に出たら、不測の事態に対応できないって。そういうわけで、私の家出は空港で終わってしまいました。でも、サイゾウが飛行機に乗ってなかったんだもん。本当はクローンの話なんてしたくなかった。するつもりなんて無かったのに。なんでサイゾウ、バンコクに行かなかったのよ……」

 しゃくり上げてマリコさんが言った。僕はマリコさんの体を抱き寄せる。

「さっきも言いましたけど、僕にはもっと大きな夢が出来たんです。マリコさんが戻って来てくださって、今たくさんヒントをくれましたね。それを頼りに、今度は僕の方からマリコさんに会いに行きます。遺伝子の勉強もするつもりです。冷凍睡眠の三十年が、二十年とか十年になるといいんだけどな。マリコさんは、五十歳になった僕と付き合ってくれますかね? スラム在住の五十歳は相当のジジイですよ。もうボケてるかもしれない」

「目が覚めて、サイゾウを見てから決める」

 マリコさんがそう言って、涙を流しながら苦しそうに笑った。

「マリコさんは冷凍睡眠で齢も取りません。ひと眠りするだけです。一瞬じゃないですか。僕はこれからが大変だ。夢に向かって地道に頑張りますからね」

 僕は言った。

「眠るときにサイゾウの事を考えながら眠るね。私良かった。安心して眠れる。本当にありがとう」

 涙が止まらないマリコさんを僕は抱きしめる。空港のベンチでキスをした。そして僕らは、別れた。

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