第10話
要はお金があればいいのだ。お金があれば大抵のことはクリアできる。あとは多少の運。国外に出るタイミングが山場だ。だけど、その事を考えるのはまだ早い。
海外用の偽造タグを作るのに、五十万ドル円はかかる。二人で百万ドル円。もし僕一人でバンコクを目指すなら、十万ドル円ぐらいをタグの為に費やせばいいだろう。運が悪ければ空港で逮捕されて、刑務所で二年間ぐらい過ごすことになる。マリコさんに逮捕歴を付ける訳には行かないので、タグには金をかける必要がある。
成田からバンコクへの、航空券代が三十万ドル円。二人で六十万ドル円。これはビジネスクラスの料金だ。エコノミーはチェックが厳しい。商用とか出稼ぎの人が多いからだ。都市部のカップルがバカンスに出かける。親にカネを出してもらって、背伸びをしてビジネスクラスで。その設定で行きましょうと、旅行社の人に強く勧められた。スラムでは割と名の知れた会社で、言う事はある程度信頼出来る。ただし裏の商売だから金はかかるし、バレた時の保証も無い。結局運は必要だ。
かかる費用はこれで終わりじゃない。バンコクでの一泊目は高級ホテルを予約しておく。高級ホテルの名前が隠れ蓑になる。だけどツインルームで二十万ドル円。一泊で、僕の二ヶ月分の収入が消える。二泊目からはバンコクの、スラムの安宿に泊まる予定だ。とはいえマリコさんがいるんだから、窓もエアコンも無いような部屋に泊まるわけには行かない。一週間滞在するとして、生活資金を五十万ドル円は用意しておきたい。
まだある。オプション料金。旅行社と、その関係機関が提供してくれるサービスに払うお金だ。運が良ければ必要ない。運が悪ければ、お金を払っていないと命に関わる。空港へ送迎してもらうプラン。バンコクに着いてから、案内人を手配してもらうプラン。何か事故が起きた際に、日本への脱出ルートを用意してもらうプランなんていうのもある。オプションは多岐に渡っていて、料金も様々。最低一万ドル円から。オプションをすべて申し込んだら、一人あたま百万ドル円じゃきかない。ここは悩みどころだ。
大雑把に計算して、二人で最低二百五十万ドル円は必要だと分かった。オプションを充実させる為に、三百万ドル円用意出来れば少し余裕が出る。リスクもだいぶ減らせる。
一方僕の貯金は、現在約百万ドル円。月々の収入は十万ドル円といった所。少し無理をして働いて、十五万ドル円稼ぐとしよう。節約生活を徹底する。そうやって一年がんばって、百万ドル円貯められるかどうか。僕の仕事は浮き沈みが激しいから、予測が立てにくい。
「準備に、最低二年はかかる計算になりますね……」
机の上に資料を並べて、僕はマリコさんに説明をした。話しながら暗雲たる気持ちになった。やはりキビシイ。
むっつりしている僕を見て、マリコさんが遠慮がちに笑った。
「バンコクから帰ってきた時の生活費も考えないと。旅行の為に全財産を使ってしまっったらダメよ。夢と共に去りぬ、ってことになっちゃうわよ」
「二年……。マリコさんはそんなに長い間、家出を続けていられるのでしょうか」
本当は言いたくない事だ。言ってはいけない事だった。
「……そうね。あのね、私は二年でも三年でもスラムに居たい。でも確かに、私の周りの環境が許さないと思う。サイゾウごめんね、ちゃんと説明をしないで」
マリコさんが小さな声で言った。
「いやスミマセン。僕の悪い癖が出ました。二年先の事を言ってどうする。僕は今、マリコさんと一緒にいてすごく幸せです。そっちに集中するんだった。ほんと俺ダメだな……」
ある日マリコさんが、フッと消えてしまいそうな気がして、僕はそれをすごく恐れている。でも僕にはマリコさんを拘束する権利は無いし、拘束したいとも思わない。
マリコさんが僕の隣に座った。頭をそっと僕の肩に寄せる。僕のミギウデを胸の内で強く抱きしめるようにした。パーツのミギウデに、マリコさんの体温が沁み込んでいく。なんとかして。効率良く三百万ドル円稼いでみせたい。
手始めに僕は、左腕をパーツ化する事にした。右腕だけがパーツというのは、いかにもスラムの人間らしい。税関でスキャンされた時に怪しまれるだろう。それに、両腕がパーツの方が圧倒的に仕事がしやすい。単純にゴミを両手で拾える。片腕だけがパーツという不恰好さを、僕は割と気に入っていた。しかし今回、両腕をパーツにする正しい理由が出来た。稼がなければならないのだ。後悔は無い。むしろスッキリとした気持ちになった。
見た目は生身のデザインにするので、両腕がパーツになった事は他人には分からない。スラムで僕は、今後もミギウデと呼ばれ続けるだろう。マリコさんには何も言わないつもりだった。触ってみればすぐに分かるので、近日中にはバレる予定。「両腕がパーツになりました」なんて、自分から報告するのはなんだかバカげている。
午後の仕事を早めに切り上げた。パーツ屋へ行って、一流メーカーの左腕を買った。仕事柄、パーツの購入代金はかなり低く抑えることができる。取り付けの費用もまたしかり。ほんの三時間ほどで手術と調整が終わった。肉の左腕、さようなら。
自宅のドアを開けて、僕はマリコさんに「ただいま」と言う。マリコさんが「おかえり」と言いかけて、視線が一点に止まる。僕の左腕を見ている。マジか。この距離だったら、医者でも分からないハズなのに。
「ただいま……」
僕はもう一度言った。
「おかえりなさい」
今度はハッキリとマリコさんが答えた。
夕飯の準備がもう出来ていた。僕は仕事の道具を倉庫に片付けて、素早くシャワーを浴びる。マリコさんと一緒に夕飯を食べ始めた。二人とも無言。
「旅行の資金ですけどね。それなりに打算はあるんです。これまでも僕は、何度か山を当てたことがありますから」
そう言って僕はマリコさんの顔を見た。マリコさんが首を傾けて微笑んでいる。急に眉毛がグッと下がって、涙がこぼれた。
「あああ! 違うの。違う違う。何も泣くことじゃない。悲しい気持ちじゃないのに涙が出てる。違うのよ……」
マリコさんが慌てて涙を拭いた。それを見て僕は息が苦しくなる。マリコさんが僕の代わりに泣いてくれた。左腕を失った僕の代わりに。不思議な気持ちだ。
「マリコさん、ありがとう」
「馬鹿! 何言ってるのよ。そんな事言ったら私」
せっかく涙を拭いたのに、マリコさんの目に次々と涙が溢れてくる。必死でマリコさんが涙を拭う。
「マリコさん……。僕はもう少し体を改造します。心臓も取り替える予定です。都市部の人間に見えるように、パーツ化率を調整する意味もあります。でも一番の理由は、仕事に必要だからです。僕の体の構成は、元々かなりアンバランスでした。この調整はいずれやる予定だったんです。旅行の為に無理をしているわけではないです」
余計な事を言っている、と思った。嘘は言ってないけど言い訳になっている。
「抱きしめた時の感触は変わる? サイゾウに触った時の」
苦しそうな笑顔で、マリコさんが僕に訊いた。
「両腕の感触は、やはり生身とはちょっと違います。でも後は変わらないです。都市部の人間らしく、最新式のパーツですよ。仕事中はむき出しのアタッチメントをつけますけど。それもいずれお見せします。地雷原の特別仕様で、まるでカニ男です」
僕は笑った。
「うん。見せてねカニ男。ハァ、何で泣いちゃったんだろう。おかしいな……」
マリコさんが、ほっぺたの涙の跡をゴシゴシとこする。
肉体にパーツを入れることは、ある意味、部分的に死んでいく事だ。僕はそう思う。有機的な臓器移植でも、部品を取り替えるという意味では同じ。失われる悲しみがあって当然だと思う。悲しみと共に、少しグロテスクな喜びもある。まるで自分が超人になったような、ロボットになったような感覚。
僕はマリコさんに説明したくない。でもマリコさんは、分かっているのだと思う。生身の体だからこそ、こういう事に敏感なのかもしれない。
両腕をパーツにして、心肺も人工臓器。心臓はタフさで有名な、メイドインアメリカにした。パーツを使わずに、自分の細胞から臓器を培養する方法もある。メチャクチャ金がかかるけど。都市部でもよっぽどの金持ちか、他に何か疾患をかかえている人しか使わない。機械の臓器は数年ごとに性能が飛躍的にアップするし、取替は簡単にできる。一流品なら信頼性も高い。スラムの人間の心臓を、一律でパーツに取り替えたら、平均寿命が三十年は伸びるという試算もある。
今や僕は息切れなしに、五十キロでも走り続けられる。だけど、僕の仕事では特に走りまわる必要はない。それならば何故、心臓をパーツにしたのか。
心臓を取り替えることは、血液を取り替えることに等しい。血液は体全体の細胞に影響を及ぼす。パーツの心臓が生み出す血液は、免疫力を飛躍的に高めてくれる。菌や汚染に強い。僕の職場にピッタリというわけだ。
心臓を取り替えることで一気に世界が広がった。触れたら死んでしまうはずの水たまりに、恐る恐る素手で触ってみる。皮膚一枚で完全ガードだ。凄まじい免疫力。逆に怖い。弾かなくてもいい物まで弾いてしまいそう。僕もだいぶロボ化してしまった。
必殺カニ男の両腕を駆使して、夢のグロテスク空間を開発していく。楽しい。テンションが上がる。だけど少しだけ虚しい。パーツ化率をさらに高めれば、恐れるものは何もなくなるだろう。
今はやるべきことがある。でもどうしても考えてしまう。僕の意識やセンスは、体に組み込んだパーツの影響を大きく受けている。脳を取り替えさえしなければ大丈夫。そんな考えは甘くないか?
目の前に大型のコンテナ。以前だったら入念に調査をして、結局開けない事もあった。だけど僕は変わった。両腕のアタッチメントをギリギリ言わせて、コンテナの壁に穴をあける。出てきた気体の成分を簡単にチェックして、穴をさらに広げ、中の物を肉眼で確認する。爽快だ。失った物は、たぶんたくさんあったかもしれない。引き換えに僕は、素晴らしい力を得た。変わってしまったことを嘆くのは、後回しにしようと思う。
最近マリコさんと僕は、パーツについてよく話す。僕の話は、なぜかなんとなく悲しい方向へ行ってしまう。マリコさんがそんな僕を、上手く調整してくれる。騙されているような気がしないでもない。
「眠る前と、目が覚めた後の自分は、同じ人間だと思う? 昨日の自分と今日の自分は、同じ個体だと言えるでしょうか?」
マリコさんが言った。質問が超難しい。頑張って僕は答える。
「眠ることは、死ぬこととほとんど同じだと思います。目が覚めた瞬間に、新しく生まれているのかも。そんな事を考えて、僕は時々眠れなくなります。パーツ化率が高くなって、さらに眠れなくなったような気がする。理由は分からないけど」
「それは不思議ね。パーツ化率が高くなって、ロボに近づいたのなら、むしろ眠れるようになったっていいわよね? ほら、スイッチをパチンと切るみたいに」
マリコさんが僕の体に触って、スイッチを探す真似をした。ロボ差別だ。
「いっそのことスイッチが欲しいですよ。悩んでいる時間が無駄だから。でも僕の体は、パーツ化する以前から、寝ている間もちゃんと機能していたんですよね。脳は夢を見させるし、もちろん心臓も動き続ける」
僕は言った。
「サイゾウ面白い。脳が夢を見させるって言ったわね。脳が、誰に夢を見させるの?」
「あ、そうか。脳は……脳に夢を見させる。……違うか」
僕は頭を抱えた。脳が爆発しそうだ。
「すると今もサイゾウは、夢を見ているのかもよ。寝ているかもしれないし、起きているのかもしれない」
歌うようにマリコさんが言った。
「僕は今、マリコさんと話しています。僕はマリコさんが大好きです」
ヤケクソで言い放ってしまった。馬鹿丸出しだ。
「わたしもサイゾウが好きよ。悩んでいるサイゾウが好き。今、私たちは話をしているわね」
マリコさんが切ない表情をして言った。分からないけど分かりました。僕は爆発しそうだ。
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