2-48
「慣れだよ、慣れ。人間、同じ体験を繰り返していけば、身体も思考もその物事や環境に慣れていく。僕はその速度と上限が進化しているんだ」
慣れ。つまり順応。
慣れるというのは、人間が日々の生活を送る中で幾らでも実感できる事象だ。
初めは苦くて不味いと感じたビールの一杯が、いつの間にか最上の一杯となるように。
煙たくて用途が理解できない煙草が、自然となくてはならない日課となるように。
食べられたものではないと敬遠していた食材が、何故か無性に食べたくなる好物となるように。
ぎこちない動きしか出来なかった体が、無意識の内に無駄なく最善の選択をするように。
あらゆるストレスを不満に感じていた感情が、人生の当たり前だと割り切り何も思わなくなるように。
その環境下に於いて、生物は生き延びる為に自己の形成を塗り替えていく。今まで嫌悪していたものが一部となり、今まで抵抗していたものが日常となり、やがて全てが自分の世界となる。
そうしなければならない、ならばそうする。
そうでなければならない、ならばそうする。
現状を受け入れ、耐性を獲得し、その場に慣れていくのだ。
動物によく見られる事だが。同じ種族でも、姿や生態を変えた者は順応とは言わず、それは適応という。飽くまで順応とはその身のままに生き抜く様を云い、そしてそれを可能とする生き物は、人間以外に存在しない。
「つまりだ。僕は君のでたらめな暴力に慣れて、君という存在に対応できる力を付けた訳だ。理解したか?」
上憑のシンカとしての能力は、現環境下での自身の存続――今でいうなら、詩雄との対戦を可能とする順応性を発揮する事だった。
シンカとなった彼の順応性は常人の其れとは比較にならず、肉体の耐性を化物じみて加速させている。
詩雄の相手が出来る身体能力を、今の上憑は獲得していた。
「君より強くはなれないけどね。正確には君より少しだけレベルは低い。順応は上下の関係があって成立するから、同等の存在にはなれない。それでも、こんな風になってるのは、僕の知識と経験で補っているからだ」
休憩する上憑。
うつ伏せの詩雄。
「猪か、君は。格闘技の経験も無さそうだし、全く駄目駄目だ。人間なら頭を使えよ、頭を。……まぁ、その調子じゃ期待できそうにないが」
ふぅ、と一息つき、上憑は立ち上がる。
「さて、まだやるかい。君がどんなに力を上げても、僕もまた力を上げて、結果は今と同じになる。利口になる気があるのなら諦めるか、仲間になれよ。此方としては後者がありがたいな。どうだ、ん?」
詩雄は未だうつ伏せのまま、微動だにしない。
「……あっそ。まぁ、君みたいな暴れん坊、個人的にはあまり好みじゃない。だから付いてきてほしくない気持ちもあるんだ。そのまま寝てなよ。――ああ、そうだ。詩乃くんには期待してるから伝えておいてくれ」
喧騒も今では遠く、いつの間にかサイレンの音が近付いていた。
「来やがったか……。じゃあなお嬢さん。二度と会わないでおこう」
「ねぇ」
立ち止まる上憑。振り向くと、まだうつ伏せの詩雄がいる。
「あんたさ、直ぐには順応できないんだよね?」
「……まあね。ある程度は時間が必要だけど、それがなにか?」
「ふーん。じゃあ、あんたが追い付けない早さで、あたしは強くなり続ければいいのね」
「……話を聞いてたか? 君がどんなに力を上げても意味が無いって言ったんだけどなぁ。それに、どうせ今の状態が限界だろ。精々五割増しといった所か。感情の昂りでの力の増加なんてたかが知れてる」
「あたしが、いつ――肉体強化だと言った?」
ゆらり――、上半身を脱力させて、ゆっくりと詩雄は起き上がり、だらんと顔は下を向いたままに仁王立ち。
「やべっ、今のシチュエーションいい感じ。本当の力が顕現されるの図……燃える。ひひ」
そして何やら、肩を揺らして笑っている。
「……何が言いたい」
「あたしがさ、肉体強化なんてちゃちなもん身に付けてる訳ないじゃん。そんな“人間止まり”かっちょ悪いっての」
顔を上げる。頬を吊り上げ、不気味な笑みを見せる絶世の美女。目は笑っておらず、獲物を捕捉する狩猟者の双眸。けれど全体の愛らしさは失わず、その食い違いが不安を駆り立てる。
「本物を見せてあげる。中途半端な弱者とは一線を画する、本当の化物を」
詩雄の雰囲気が違うものに移り変わった事を、上憑は確かに感じていた。乱暴で粗暴な幼さに、あまつさえ闇がかかっている。一体何を考え、何を仕出かすのか、全く予想だに出来ない。
――が。
「盛り上がってるところ悪いが、警察が来るから僕は逃げさせてもらうよ」
目立ちたくない上憑はそれどころではなかった。顔を知られては今後の活動に支障をきたす為である。
ここまでの騒ぎになってはいるが、彼自体はほとんど他人目についていない。一瞬で店の中に蹴り飛ばされた為に、その姿を鮮明に覚えている者もいないだろう。
なので、空気を読まずにいち早く逃げる必要があるのだった。
「……あたしもやだなぁ。おばさんに睨まれるのメンドい」
それは詩雄も同じだった。中々に早い切り替えである。
「場所変えましょうか。言っとくけど、あんたに拒否権ないから」
「……はぁ。追いかけてくるんだろうなぁ……。わかった。じゃあついてきなよ」
熱が高まってきたのも束の間、二人はいそいそとその場を後にするのだった。
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