2-36

「……はぁぁ、涼しい……」


 時刻、十時と少し。


 カフェ“ベルフェゴール”の隅、壁際の席に座って唸る客が一人。テーブルに置かれたショートケーキとミルクティーにはまだ手を付けず、冷房の恩恵を一身に感じる詩雄がいた。

 平日の為か、彼女以外に客は見当たらない。店内に流れる落ち着いた雰囲気のジャズは、どこか寂しげにも聞こえる。


 ――威勢よくアパートから飛び出したものの、真夏の気温に詩雄は根負けし、そして今に至る。二年間、一定の温度を保つ研究室に閉じ込められていた彼女は、過去最高を記録する今年の猛暑を甘く見ていた。

 昨日はまだ曇り空だったから耐えられたが、今日は快晴、空からのぎらぎらとアスファルトからのじりじりとした熱気は想像以上に体と心を蝕む。


 肉体強度は高めているが、まだそれに関しては追い付いていなかった。何より知らなかったものは、彼女でもどうしようもない。

 なので、今の状況はただ暑さに負けただけでなく、対策も兼ねて、この喫茶店で涼しさを覚えようとしているところだ。


「無いわぁぁ……外の暑さ……意味わかんないわぁぁ……」


 元々、暑いのが苦手な彼女。昔から夏が大嫌いだ。


 その身に宿る、兄と引けを取らない能力を以てすれば体内温度のコントロールなど容易い。しかし暑さがどうしても思考を悩ます。集中できない事と苦手意識が故に、未だに克服できないでいた。


「…………うん。何となくわかってきたかも。これを維持すればいんだよね……うん」


 独りで呟く。何かに納得する。他に客がいなくて幸いだ。端から見れば変な子と思われても仕方ない。


「つぅーか、考えてみればこのお手伝いって最悪じゃん。暑いし、誰かに聞けないし、テキトーにぶらつくにしても当てがないし、暑いし」


 情報も無く助言も望めず、苦手な暑さの中での探索。今になって後悔する。

 後先考えずに外出という特上の餌に釣られた自分も大概だが、それよりも、やはり黒色零子が憎らしい。


 よくよく思えばこの実態、有効な手立てもなく、砂漠の中で特定の砂粒一つを見つけろといっているようなもの。自分に期待はしているようだが、あまりにぞんざいな計画だと、今更ながら理解する詩雄。


「ほんと性悪だわ。あの女……」


 体は涼み、心は冷えきる。


 いつか目にもの見せてやると、八つ当たり気味にケーキをフォークで真っ二つ。ぐさりと片割れを刺して大きな口で頬張る。


「――うみゃあぁ……」


 そしてとろけた表情。もうどうでもよくなった十七歳の少女。


 ベルフェゴールの看板メニューというだけの事はあり、その味は至福の時を与えてくれる。甘過ぎない濃厚クリーム。ほわほわの柔らかいスポンジケーキ。口内は天国へと移り変わる。

 先程まで機嫌を悪くしていた詩雄は、屈託の無い極上の笑顔。それだけで注文してしまいそうな程、彼女の表情は幸せそうだった。

 そして残り半分のケーキをまた一口でパクリ。ぐふふ、と気味悪くも満足げな笑い。


 その時、客の来店を知らせるベルが鳴る。詩雄は特に気にせず、もふもふとケーキの味に浸る。


「おはようございます、マスター」


「おはよう、帯臣君。珍しいね。いつもは月の始めに来るのに」


「いやはや、時間を作れなかったものでして。今日はやっと、といった具合です」


「二つも仕事をしていてはねぇ……。無理してはいけないよ。体は一つしかないんだから」


「ご心配かけて申し訳ありません」


 苦笑いを浮かべつつ、帯臣はマスターの正面、カウンター席に座る。


 彼は探偵の仕事の合間に、このカフェによく訪れている。そして数少ない、マスターが月毎に開発する特別メニューを目的に来る客である。


「――鯖のトンコツ煮ですか。これはまた斬新というか、奇抜というか」


「はっはっは。そうだろそうだろ。味噌煮があるんだからトンコツもどうかなぁと思ったのさ。ラーメンからヒントを得たんだ」


「なるほど。マスターらしい感性ですね。それで、味の方はどういった結果になりましたか?」


「微妙」


「微妙ですか」


 はっはっは、と二人して愉しげに笑う。ケーキを飲み下し、この会話が耳に入っていた詩雄は思った。


 駄目だこいつら、と。


「では一つ、お願いします」


 食うのかよ、と心の中でツッコミ。


 マスターは了解と告げ、厨房へと入っていく。

 また店内の音はジャズだけとなった。


「――ん。……はい、もしもし」


 帯臣は携帯電話を取り出し、誰かと話し始めた。


 詩雄は窓の外を何気なく眺める。


「はい、はい。……捕まったんですか?」


 外は駅前という事もあり、人の行き交いが多い。

 若者は各々の気に入ったファッションに身を包み、カップルもいれば一人で歩く者。サラリーマンは片手に携帯電話、もう片方に鞄を携えて足早に道を歩く。老夫婦は互いを気遣いながら、ゆったりと歩道の隅を進む。


 別段かわらず、平凡な日常の在りよう。――故に。

 その光景を見つめながら――詩雄は馬鹿にしたような鼻息一つ。


「まだわからない……あー、これからという事ですね。確率は高いと。ふむふむ。……一人は亡くなっていたのですか。なんと、痛ましい……」


 ただの人間共がうぞうぞとなんて鬱陶しい。詩雄はそう思っていた。脆弱な五体を晒しながらのうのうと生きるその姿、今の彼女にとっては馬鹿馬鹿しく映る。


「……痛め付けられた上に精神が不安定……。余程の何かに遭ったのでしょうね。もしくは、友達を守れなかった為か」


 ――母と父から告げられたあの日、中学を終えた二年前、彼女は全てを知った。母親の出生を、自分と兄が、普通の人間ではない事を。


「そうですねぇ。実は三人組で仲間割れを起こしたのか、または新しい暴力事件か……。引き続き、調べましょうか?」


 悩みに悩んだ。決まっていた高校にも行かず一日中、部屋に引きこもる毎日。両親の呼び掛けにも、兄の心配にも応えない。

 暗闇の中で布団にくるまり、静寂だけに身を任せる日々。

 ――けれどその行為は、本当の自分という存在に対する恐れでも、世間に知られぬよう隠れ潜みたかった訳でもない。

 ただ準備を、心構えを養っていた。詩雄はその時、高揚していた。


「そうですか。いえいえ、お気になさらず。私も物騒な出来事はごめんですからね。早く終わるなら、と考えただけです」


 望みがあった――。幼い頃から抱いて、未だ消える事を知らない好奇心。自分の能力を思う存分に発揮して、好き勝手に暴れまわりたいという願望。

 影響は漫画やアニメ。非日常的なストーリーは彼女の心を容易く射止めた。憧れていた。現実では決して有り得ない空想を本気で恋い焦がれ、誰しも思い描いた夢物語を、少女はその歳まで引きずっていた。


「……妙な事、と言いますと?」


 幼稚な思考、それも仕方がなかった。何故なら彼女自身、自分の不可解な部分に気付いていたから。

 成長して常識を身に付けていく内に、それに関する知識も増えいき、そして理解した。これがあれば夢が実現できる。詩雄はそう思い至り、実際、それは可能だった。

 だが、踏み出す事は出来なかった。能力を知られたら、当然に今の日常は崩壊する。家族にも迷惑がかかる。故に自分を圧し殺し、普通を装っていた。


「……女? 知り合いでしょうか?」


 故に、高揚しかなかった。普通であろうとしていたのに、まさかの普通ではないという。


 そう――自分は人間じゃない。


 両親は自分と兄を人間だと言っていたが、詩雄は否定的な部分しか聞き入れない。念願叶った、彼女を彼女として許す、最高の引き金なのだから。


「その女性が事を収めたと見ていいでしょうね。しかし何者なのか……」


 ならばもういい。だって自分は人間じゃない。人間じゃないのなら、無理して型にはまる必要はない。しかも家族ぐるみで異常者。父親は人間だが、母親と交わった時点で此方側。むしろ、真実を知りながら今まで家族として暮らしていたのなら、彼が一番狂ってる。

 遠慮などいらない。我慢する事もない。でも時間は必要だ。十五年の歳月を経て蓄えた一般常識が邪魔している。だから先ずはこれを潰す。覚悟を決める。


 考えろ。思え。沸き立たせろ。夢を。理想を。今に泥を塗れ。現在を否定しろ。自分を信じろ。後悔など持ち合わせるな。帰る場所など必要ない。憧れの舞台を舞い踊れ。捨てろ。拾うな。作れ。造れ。創れ。虚像を我が物としろ。虚構を飲み込め。現実を喰らい尽くせ。あたしなら出来る。あたしだから出来る。あたしは出来る。全部要らない。要るのは自分だけ。お兄ちゃんはちょっと要るかも。叶うぞ。もうすぐだぞ。やっとくそったれから開放される。やっと楽しい毎日を送れる。やっと希望が掴める。やっと自分は自分で在れる。





 ――嗚呼。早く、早く――。





 その一ヶ月後、詩雄は部屋から飛び出した。嬉々とした表情で、目を輝かせ、夜の町中を疾走する。誰も何も気にせず、乗用車を抜き去り、建物の屋上を飛び交い、溜め込み包み隠してきた欲を吐き出した。

 そして目に飛び込むは一際大きなビジネスホテル。一階から最上階まで好き放題しながら駆け上がり、そしてダイブ。合間にいるただの人間達は……試しにアレしてみよう。興味がある。ついでにスコアとして取り扱ってあげよう。嗚呼、楽しみだ――。


 ……日常を日常として受け入れようとする兄。


 ……非日常を日常として受け入れた妹。


 こうして兄妹は、互いにそれぞれの道を決めた。決して交わらない、理解のされない、けれど同じ痛みを伴う、棘の道を。


「はい。わかりました。警部もあまり無理をなさらぬよう。はい、では失礼します。……ふぅ。世界に平和が訪れるのは何時になるのでしょうね。……おや」


 ひらり、と舞うように横を通り過ぎてゆく詩雄に、帯臣は思わず目を向ける。可憐な顔つき、華奢な体、純白のワンピース。絵画の中から抜け出してきたかのようなその少女に、帯臣は柄にもなく見とれてしまった。


 対して少女はどこ吹く風。まるで帯臣の存在を認識する気もない面持ちで、悠然と歩を進める。そして入り口のベルを静かに鳴らし、店から出ていった。


「待たせたね。鯖のトンコツ煮、どうぞ食べてみてくれ」


「あ、マスター。いまお客が一人、店を出ていきましたよ」


「えっ、会計がまだだが……まさか食い逃げじゃないだろうねぇ」


 曇った表情でマスターは、詩雄が座っていた席を確認しに行く。つられて帯臣は心配そうな顔でその行動を眺めていた。そうしながらふと、先程の少女を思い出していた。


「…………んん。あの子、どこかで見たような……気のせいかな」


 見とれていた理由は彼女の容姿よりも、その気掛かりにあった。初めての筈なのに、どこかで昔、顔を会わせたような感覚。仕事柄、情報を忘れずに記憶する事は得意としている。でも思い出せない。


 そして、何かが引っ掛かる――。


 考えていると、マスターから安堵の声が届いた。テーブルの上に料金が置いてあったようだ。


「いやぁ、よかったよかった。急ぎの用でもあったのかな。あのお嬢さんは」


 そうなんですかねぇ、と帯臣は応える。未だもやもやとしたものが残っているが、答えが出そうにもなく、今はやめておこうと片付けた。気を取り直して、鯖のトンコツ煮をひとつまみ。


「――マスター。美味いじゃないですか、この料理」


「そ、そうかい。帯臣君が気に入ってくれたならそれでいいんだが。……美味い、か……?」


「ん、どうしました?」


「いや、何でもないよ。ははは……」

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