2-32
「――用は済んだのかしら?」
病院の入り口から出ると、日法が隣から声をかけてきた。壁に凭れて腕を組んで、いかにも退屈でしたと言わんばかりの態度。
病院に入る前に、近くにあるベンチに座って待ってろと言ったのだが、何故か日法は太陽の光を浴びながら立ち続ける事を選んでいた。その事について尋ねてみれば、ここの方が早く俺と合流できるからだと言う。……いや、確かにそうだけどさ。
「暑かっただろ。木陰にいれば涼めたのに」
「どうでもいいわ。この程度」
冷めた性格だから体も冷たいのだろうか。なんとなく一番にそう思った。当然、口にはしない。悪戯っぽく言ってもこいつには通じてくれない。
「もういいの?」
「ああ。思いの外、元気だったよ。まぁでも……落ち込んでたけどな」
あいつの事だから、このまま塞ぎ混むなんてオチにはならないだろうけど。でもしばらくは気遣ってやろう。
「んじゃ、行くか」
「あら、付いてくるなと言わないのかしら」
「どうせ言っても無視してついでに貶しも加えてくるんだろ、お前は」
「心外だわ。私は貴方の言葉一つ一つを真摯に受け止めているのに」
「よく言う……。じゃあ付いてくんなよ」
「嫌よ」
「…………」
なにこいつ。
結局、バス停にて二人仲良く待つ事となった。再度付いてくるなと言ったが、今度は口が臭いから喋るなと貶された。なにこいつ。自分が発した言葉を理解してないのかこの女は。
――バスが到着するまでおよそ十分弱。蝉が喧しく鳴き続け、陽光が絶え間なく照り付け、むわっとした熱気が漂う今現在。
バス停の粗末な屋根でも非常に助かってはいるが、汗はじんわりと湧いて流れてくる。
服の袖で汗を拭う俺とは違い、日法はやはり涼しい顔だ。ただの無表情だからそう見えるだけなのだが、けれど汗は垂れていない。
「女って、男より汗腺が少ないんだっけ?」
「どうかしら。そこまでの知識は無いわ。でも、男より慎ましいのは確かね」
慎ましいって何だよ。男は好き勝手に汗を噴出してる訳じゃねぇよ。
「でも暑いのは暑いんだろ?」
「ええ、そうね。暑いわ」
と涼しい顔。言動と表情は噛み合っていなかった。もういい……。
「て言うかお前、数週間はうちにいるって言ってたけど、そのあとはどうすんだよ。もう次のバイト先は決めてんのか?」
「それはまだ気が早いと思うのだけど。今のところは何も無いわね」
「早めに決めといた方がいいだろ。数週間なんて言うほど長くないぞ」
ぼうっとしていても忙しくても、歳を重ねる度に感じる時間は早くなってしまう。心の余裕から来る体内時計の遅延だ。二十歳の俺が言うのもなんだけど。
「追々決めておくわ。それに、バイトなんて簡単に採用されるものでしょ」
「その発言はあまりしない方がいいと思う。一部の不幸な苦労人には殺意を芽生えさせるから。で、その自信はどこから来てるので?」
しれっと言うから気になった。この無表情で無感情が一体どの面さげてそんな事を抜かせるのか。俺だったら問答無用で落とす。
「決める人は男に限定されるのだけど、顔が良ければ全て良しという事かしら」
簡単な理由だった。美人を雇わない手は無い、なるほどね。そのような店はブッ潰れてしまえばいいと思う。
「……まぁ、特に障害は無いのね。やれやれ、顔の良い奴はそれだけで勝ち組だもんなぁ」
「誇りに思いなさい。孤独死を免れない顔を持つ貴方は、その中でも最高位の美女を妻にする運命を得ているのだから」
「孤独死確定の顔とか酷いにも程があるわ! 言い過ぎだわ! 泣くわ!」
「……ちょっと。後半の言葉についての興奮は無いのかしら。歓喜に震えるリビドーがある筈、いえ、無ければならないのだけど」
「そっちを気にしてんじゃねぇよ! まずは謝れよ!」
「事実を述べて謝罪を要求される筋合いなんて無いわ」
「お前、正論が全て正しいと思ったら大間違いだからな! 相手を傷付けた事に対して謝れって言ってんの!」
「うるさいわね。暑苦しいから、もう静かにしてくれると助かるのだけど」
「うぬぬぬぬぬぬ…………っ!」
マジで腹立つ。マジで気に食わん。
しかし暑苦しくなってきたのは此方も同感だった。ここで引くのもどうかと思うが、こんな奴のせいで無駄に体温上昇させるのも嫌だ。
くそっ、冷静になった途端に汗が増加しやがった。全部こいつのせいだ。額を拭いながら日法から少し距離を置く。
「……何故、離れるのかしら」
「暑苦しいんだろ。だから離れてやってんだよ」
ちょっとした仕返し。ガキ丸出しだけど今は気にしない。
「そう。殊勝な心掛けね」
「へいへいあーそうですか。……いや、おい」
隣に感触があったので確認してみると、人ひとり分あった筈の隙間が日法で埋まっていた。むしろ先程よりも近付いていて、膝とか肩とか密着してる。
「言ってる事とやってる事が違うんですけど。暑苦しいんですけど」
「そうね。暑苦しいわ」
「いやいや、だから、この距離だと更に暑苦しいんですけど」
「あら、それは私との距離感に対して興奮してるが故の昂りを遠回しに告げていると受け取っていいのかしら」
「暑いって言ってんの!」
「もうその話題はいいわ。変に距離があるのは気に入らないだけよ」
「…………はぁ、あっそ。汗臭くなってもしらないからな」
ここでやっと落ち着く。始まりよりも暑苦しく、よくわからない恥ずかしさも加えて、端から見たら甘酸っぱい終わり方。なんだこれ。
……バスの中と色々かぶってる気がする。
何だかんだで、やはり日法とは腐れ縁という事か。妻が運命だのなんだの言っていたけど、あながち馬鹿に出来ないかも知れない。
いやまぁ、べつに日法の事を心から嫌っている訳でないのは確かなんだが。
彼女の性格があまりにもこんなんだから近寄りたくないのであるからして、嫌いでは無いんだよなぁ。好きでも無いけど。
それにしても……いい匂いだ……。
「……盛んだな」
と、隣から声がした。ドスの利いた低い女性の声。もの凄く聞き覚えがある。
確認すると、そこにはクロちゃんが立っ……
「クロち――黒色さん!?」
何でここに、と言おうとしたが、クロちゃんはわかりきった質問をされる前に、自分の用件を進めた。
「彼女には悪いが、少し付き合え」
そう言って、ゴツゴツと編み上げブーツを鳴らして離れていく。
俺はまだ返事をしていない。しかし彼女は振り返りもせずにどんどん離れていく。俺が付いて来る事を確信してるとかそんな信頼関係は無い。クロちゃんは単純に、命令をして次の行動に移しただけ。相手の意思など関係無く、ただそうしてるだけ。彼女は、そういう人だ。
そして……呆気に取られながらも、ため息で気持ちを切り替えて、それに従おうとしている俺も俺である。
だって、無視したら何されるかわからないもん。あーあ、もう今日は大学は諦めよう。
「そゆ事だから、悪いな日法」
立ち上がる。付いて行こうする前に日法を見ると、何故かクロちゃんを見つめていた。
「日法?」
「……詩乃、あの女は、人間?」
何かを感じ取ったようで。
浮気者とか罵られるかと思ったが、日法にもクロちゃんの言い様のない威圧がわかったようだ。少しズレてるけど、その反応は間違ってはいない。
ああ、そう言えば、日法にはクロちゃんの話をしたんだっけ。それなら尚の事か。
「ああ、人間だよ」
多分、ね。
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