2-15

 ――その夜、母さんは言った。この世界はとても素晴らしい、と。


 母さんは、居間と庭の間の縁側に座って空を眺めていた。トイレで用を足した帰りに、そうしていたところを幼い俺が見かけたのだ。何してるの、と寝ぼけながらに訊ねれば。星が綺麗だから眺めれているの、と返された。

 とことこと近付き、俺は隣に座って、同じく空を仰いだ。親の真似をしたがるのは子供の性。


 季節が冬に近かった事もあり、夜風は独りでに身体が震えてしまう程に冷たい。パジャマ一枚ではきつい寒さだったが、気にならなくなるのに時間はかからなかった。母さんが言うように綺麗な星は、そんな気温を些末事に変えた。季節も相成って夜空は本当に綺麗だったから、俺は夢中になった。


 ――詩乃は、この世界が好き?


 唐突に母さんは語りかけてきた。儚く、消え入りそうな声色。淡く柔く優しい、母さんの独特な喋り方。線香花火が燃え尽き落ちる瞬間の様な。病弱な患者が眠るように穏やかに死ぬ瞬間の様な。


『?』


 その質問の意味は、当然ながら七歳の俺にはわからなかった。好きという言葉は何となく知っていたが、世界という言葉はよくわからない。その二つを組み合わせられたのだから、正直なんのこっちゃという思いだった。


 ――母さんは、好き?

『好き』


 それはわかった。だからすぐに答えた。


 ――母さんが好きなものは、好き?

『……んん……好き』


 ちょっとわかりづらかったけど、何となく意味はわかる。というか、母さんが好きなら、それは良いものなのだと思った。だって俺は、母さんが好きだから。


 ――じゃあ、詩乃も世界が好きね。

『ふーん』


 そうなんだ。……正直、そんな感じで他人事な気分。実感なんてある訳ないし、何だか話が勝手に進んでいるようだったから。


 ――ふふ。詩乃、世界はとても素晴らしいものなのよ?

『すばらしい?』


 ええ、と笑顔で返された。素晴らしいの意味を知らなかったのだが、それから母さんは、世界について語り出した。


 それは主に、人間に関する話だった。文化とか繁栄とか、戦争とか発明とか、知識とか知恵とか、親交とか恋愛とか、あたかも見てきたかの様なその違和感は、当時の俺には知る由もない。


 ――ねっ、凄いでしょ?

『……わかんなあい』


 当然だ。当然の答えだった。理解するには、人生経験があまりにも乏しかった。しかし母さんと同じ年数を体験するなど、人間には到底不可能である訳だが。


 と。いつの間にか時刻は零時に近くなっていた。話の終わりを感じた途端に、忘れていた寒気が身体中を襲いガタガタと俺は震える。

 そこで気付いた。母さんは終始、身震い一つもせず平然としていた事に。寒くないのかと訊ねてみれば、寒いと返された。んん、と疑問やら何やらでうなる俺に対し。ふふ、と母さんは笑う。からかっていたのか、震える事を忘れていたのか、わざわざそうする必要を感じなかったのか。


 ……まあ、今となってはそんな事どうでもいいさ。世界は素晴らしいと、教わっただけの昔の話だ。そう、遠い昔の話――


















       













「――――――ふがっ……」


 ………………朝、か。


 ……毎度毎度、相も変わらずいやな思いゆめだねぇ。未だにショックから引きずっている俺も俺だが、それでもやはり母さんが元凶的すぎる。


 時刻は、……うわっ、四時だ。寝るのが遅かったくせに何で無駄に早起きしちゃうかなぁ。

 でも、これくらい早い時間はやっぱり暑くないものだな。むしろ涼しいくらいだ。昼間になると地獄と化す気温が嘘みたい。日光もさほど強くないし、一日を始めるにはこんな空気がベストなのかも知れない。


 だが俺は寝る。だって眠いから。


「二度寝は朝一番の楽しみである。ではな太陽」


 さらば、と窓に背を向け、また眠りに就こうとして、妙な違和感に気付く。顔面のすぐ目の前に壁がある感じの違和感。目を開いてみれば、


「――――」


「…………」


 鼻が触れ合いそうなほどに、日法が対面していた。向こうはすでに起きていたようで、俺と目が合う。


「おはよう、詩乃」


「おはよう、日法」


 反射的に答えてしまった。


「……何してんの?」


 そして問う。


「貴方には何をしているように見えるのかしら。やはりその腐った目玉と無価値の脳味噌では状況を理解できないのかしら」


「…………」


 朝っぱら、寝起きという事もあり悲しみの涙目になりかけたが、とりあえずこの腐った目玉で少し確認してみる。

 安物で質素な布団の中に俺と日法。以上、無価値の脳味噌でも理解できた。


「……あー、何だ。俺が悪かったんだな」


「そうね。昨日、貴方は畳の上で寝て、私はこの臭い布団で寝てよろしいと貴方が決めた。でも帰ってきたら貴方はこの布団で眠っていたので、こんな有り様という訳」


 ……臭い言うな。


 それは確かに悪い事をした。自分から交わした決まりを守らなかったのだからぐうの音も出ない。この部屋は俺のだが。

 女を床の上で寝かすのは心が痛い。だから布団の使用権を渡したのにさっそく破ってしまったか。この部屋は俺のだが。

 彼女の悪態に非はない。帰ってきて約束通りに布団で寝ようと思ったらすでに俺がいたのだから。この部屋は俺のだが。


「起こせばよかったのに。てか、お前の性格からすると蹴り飛ばしそうなんだが」


「貴方と違ってそこまで暴力的ではないわ。みくびらないで」


「俺も暴力的ではないがな」


 昨日、絵留をタクシーに放り投げて、寮に着いたら背中に担いで玄関にドサッと捨てたけど、これは決して暴力ではない。酔っぱらいに対する正攻法だ。


「よくこんな……恥ずかしい状態になるのをわかってて寝ようと思ったな。何とかして起こそうとしろよ」


「何故?」


「何故って……」


「と言うより、私は一緒でも構わないと言った筈よ」


「だからそれは駄目なんだって」


「何故?」


「だから、若い男女が一つの布団で寝るは色々とよろしくないの。同じ部屋に住むのだってよろくないんだからな」


「夫婦はそうしてるわ」


「俺たち夫婦じゃねぇし」


「最終的にはなるわ」


「……な、ならん」


 一瞬想像してしまった。くそっ、至近距離で見ると俺でさえ揺らぐほど凶悪に美人だこいつ。


 退散の如く起き上がる。


「朝食でも作ろうかしら?」


「や、いい。俺より帰り遅かったんだろ。寝てろよ」


「……わかった」


 ふふふ、素直で宜しい。優しく気遣ってやればこっちのものだぜ。


















       


















「詩乃は、自分の事をどう思っているのかしら」


「――は?」


 時刻、五時過ぎ。早い時間ではあるが、俺と日法が小さなちゃぶ台で対面して朝食を取っていた時の事。


 あれから俺は目が冴えてしまい、てきとうに漫画でも見て時間の経過を待っていた所、日法も冴えてしまったという事で二人で他愛ない世間話。俺はちゃぶ台に肘ついて漫画を見ながら。日法は横になったまま俺を見つめながら。よせやぃ照れるじゃねぇかと冗談に対し、童貞は黙れと言われる。


 そうしている内に腹が減ったので飯の準備を始め、二人でいただきますの十秒後に、日法は突然に切り出してきた。

 納豆をかき混ぜていた箸を止める。


「だから、詩乃は自分の事をどう思っているのかと訊いたのよ。一度で理解してくれないかしら」


「いやいや、いきなりにも程があるわ。自分をって……何が言いたいんだよ」


「そうね。具体的に言うなら、貴方はその身体をどう思っているのか、かしら」


「……ああ、そういう話?」


 やや呆れて、箸の回転運動を再開。醤油を微調整。意識をかき混ぜる納豆に向けたまま、深く考えずに答える。


「気味悪いよ、相変わらず」


「……そう。意外だわ。貴方の性格からすると便利とか言うと思ったのだけど」


「いや、無いね、そんなもの」


 怪我をしたならばそれ相応の過程を経て完治するが生物本来の治癒。至極当然である。当たり前を当たり前に求めて何が悪い。因みに、独りでに治る時の気持ち悪さと言ったらもう……。いやまぁ感覚は無いんだけど、ホイミとかベホマとかそんな生易しいものじゃないんだよなぁ。非現実的であるくせに生々しく戻っていくのだから。


「てか……何で今更そんな話?」


「まぁ、私的なものよ。私達も今年で二十歳……別にそれが起点とは思わないけど、社会的な分岐点ではあるのだから、改めて自分に対する感想を。という感じかしら」


「先生かっお前は」


「でもこれはこれで、私達に関してはそれなりに重要だと思うのだけど。普通ではないのだから。――昔と何か変わった所はある? ほら、貴方達は特に違うから」


「ねぇよ。腕が千切れようが頭砕けようが綺麗さっぱり元通り。子供の頃から何一つ変わらない」


 納豆を白米に乗せてまた混ぜ混ぜ。全体的に混じりあわないと嫌な俺。カレーとかもルーと米を全部混ぜてから食べる派。


「……腕、千切れたのは最近?」


「三……四ヶ月前かな。ぶちゅ、って」


 あ、しまった……。納豆と米を混ぜる時の音もぶちゅじゃねぇか。うぇ。


「“身体”は怒ったのかしら……?」


「大丈夫だよ。続けざまじゃない限り発動しない。……まぁ最終的には怒ったけど……てか、知ってるだろうに」


「知ってるわ。だから心配してるのよ」


「……はぁ?」


 再び箸を止める。こいつから心配なんて言葉……明日、雹でも降ってきそうだ。


「貴方のソレは、対象が何であれ消してゆく。全てを敵と見なしたら、どうなるかわかるでしょ?」


「まあな」


「まあなで済まさないでくれるかしらこの駄犬。下手をすれば、二度と地上に戻ってこれなくなるのよ?」


 彼女の言葉は大袈裟に聞こえるが、しかしそれは正しい忠告だった。


 俺の身体が怒り狂った場合、敵だと認識した物全てを素肌に触れた時点で消してゆく。例外は無い。文字通り全てを否定し、喰らってゆく。

 もし――――その状態で、靴と衣服、そして地面をも敵と認識したらどうなる。……難しい話ではない。地面を喰らうようになった俺は、まるで高い所から落ちるかの様に、重力に従って地中へと降下していく事になる。


 何とか上ってこれる範囲で止まるならまだ、危なかったの一言で片付けられるかも知れない。だが、それすらも叶わない深み――自分でも周りでもどうする事もできない深度に到達してしまった時、俺の人生は終わりを告げる。生き埋めだ。

 這い上がる事も出来ず、自決する事も出来ず、窒息による死亡も許されず、寿命が訪れるまで生き地獄。


 けれど、寿命があるのかは今でもわからない。肉体的にも精神的にも成長はちゃんと進んでいるから、寿命もあるだろうと推測しているに過ぎない。半分はちゃんとした人間なんだ、希望くらい持ったってバチは当たらないだろう。


「体が怒っている時は、少なからず貴方も怒っているわ。その状態でいついかなる時も正常な判断が出せる、なんて思える筈がない。可能性は小さくないのよ。……いい、詩乃。私は冗談ではなく、純粋に貴方を心配しているの」


「わ、わかったって。気を付けるから、その真剣な眼差しやめれ」


 無表情なくせに眼はマジだこいつ。馴れてないから何か恥ずかしい……。


「俺だって怒りたくて怒ってる訳じゃないんだ。始動がオートだから仕方ないんだよ、こればっかりは……」


 全く持ってはた迷惑な身体である。きっと母さんのせい。と言うか母さんのせい。

 何だっけ……。詩乃は元気な子で、詩雄は強い子だったか、俺たちを身籠った時の母なる願い。それ自体はその通りに成就したのだが、現実は致命的に違えてしまったな。


「わかればいいわ。私なら貴方を救えるかも知れないけど、“この子”が詩乃を嫌ってるから、望みがあるなんて楽観しないように」


 ああ……そういえばそうだったな。ちくしょ、筋違いもいい所だ。マントルまで到達して滅茶苦茶にしてやろうかこの野郎め。


 そんな腹黒い事を考えている内に、白米と納豆はいい具合に混ざりあっていた。パクり……旨し。

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