2-9

「――っこいしょっと。……はぁ」


 オヤジ臭い台詞と共に、大学の教室の定位置に座る。窓際の真ん中の机。目立ちにくい場所に俺はいつも座る。あんまり後ろの方に行ってはいけない。却って監視の目がきつくなってしまうから。

 別に、真面目に講義を受けるつもりが無いという訳ではないのだけど、やはり目立つか目立たないかで言えば後者を選ぶ。怠惰の性である。


 ――時刻、一時と少し。


 受けないといけないけど面倒くさいからどうしようかなぁ、なんて悩んでいたこの講義。六割ほどの割合でサボる気でいたが、今現在、我が家には更に面倒くさい女がいるので行く事に決め、今に至る俺。

 わざわざ暑い中熱いコンクリートの上を歩き、蒸し暑い教室内で小難しい座学というのは実に疲れる話だが、今となってはやっぱり此方の方が気楽だ。皮肉と貶しとちょっぴりの恥じらいを持ったクーデレの相手はとても疲れるであるからして。


 というか。……これからは、毎日もそれの相手をしなければならないのか……憂鬱だ。


「こんにちは、詩乃。……んっ、何だか元気ないね?」


 どこぞの燃え尽きたボクサーみたいにうなだれていたら、真後ろの席から小鳥の挨拶。


「まぁな……なつかない猫を飼ってる気分、みたいな。まぁ、けど大丈夫。真琴を見たら元気出た。もうビンビンだぜ」


「わお、嬉しいね」


 ……今の、どういう意味かわかってんのかな。いや、わかってほしくないけど。いや、それ以前に言っちゃいけないけど。いや、死ねよ俺。……死ねないけど。

 と、セクハラ交えた会話をしている内に、講師が教室に入ってきた。皆と同様に俺もバッグからノートを取り出し始める。


 ――あれ、ノート忘れた。参考書も忘れた。筆記用具も無いし。だけど食いかけの腐ったカレーパンはあった。……何しに来たんだよ。芸人か俺は。もう寝るしかないじゃん。あーあ、勉強できなくて残念だ。実に悔しい。自分を呪うぜ。じゃおやすみぐぉー…………。




















 ――ガツガツ――

 


 蕩けるような融ける感覚。

 俺を侵害する気でいる外敵が、俺に触れた瞬間に葬り去られる。何も感じないのに、ナニかを感じる。



 ――ガツガツ――



 なんて無念な事だろう。

 知らなかったとはいえ、接触した瞬間に消滅を強制させられる理不尽。たとえどんな神秘に満ちた能力であろうと、消され行く己という存在。あたかも始めからそうであったかの如く、失われる肉の体。



 ――ガツガツ――



 俺はどうなっている。

 敵だと見定めたこの感情。そうだと決めた激昂に従い、牙を向くこの身体。何をしているのか。侵害が許せず、それを行おうとするモノに対してひたすらに嫌悪する。罰を与える。許せない故に赦さない。だから消す。この場から、この世から。



 ――ガツガツ――



 喰うように消す。

 喰らうように無くす。

 居なくなれば傷付かない、痛い思いもしない。

 それならば、居なく無くせばいい。

 居なくなれば傷付かない、痛い思いもしない。

 無くすように喰らう。

 消すように喰う。



 ――ガツガツ――



 クイシンボウネ……うん、そうだよ。

 キライナノネ……うん、そうだよ。

 ドウシテ……、……わからない。

 カアサンガニクイ……ううん、好きだよ。

 ソウ。ジャア、ハヤクオキテ、ベンキョウナサイ……うん、わかった。



 ――ガツガ「うるさい」


「――……し、詩乃……?」


「……げっ」


 気付けば、俺は目を覚ましていた。座ったままにビシッと背筋を伸ばし、普段より割り増しの声量を発し、静まり返った教室内で皆から視線を向けられていた。物凄く痛かった、精神的に。


「……あ、あははは。すんません。蝉がうるさくて思わず……あは、は」


 幸い、蝉は確かに鳴いていた。十人中九人は気にならないと答えそうな音量なのだが、あながち的外れな言い逃れではないと思う。この子にとってはうるさかったんだな、それなら仕方無いな、と皆は楽観的に見過ごしてくれるに違いない。咄嗟にしては中々に上等な気転だぜ。ナイス、俺!


「君、今週中にレポートを作って提出しなさい」


「あい……」


 冷ややかに講師に告げられた。


 あらあら、と慈しむような笑い声が聞こえた気がする。

 これも母さんの……いや、俺の自業自得です、はい。














       











「はぁ……」


「そう落ち込まないで、詩乃。レポートなんてささっとやってしまえばいいじゃないか」


「いやぁ……なんて言うかさ……。あれやこれや調べながら、小学生の作文みたいにならないよう気を付けて文章を綴るってのがさ……」


 実に疲れる話である。語学力の乏しい者にとっては尚更。しかも講師によっては、私的な理由でケチ付けてきたりする。それも踏まえてとなると……憂鬱だ。


 ――大学の食堂の中、隅の席で真琴と対面に座りながら、俺の嘆きタイム。前にも似たような事あったな、確か。漫画か小説の主人公にでもなったみたいだ。主人公補正[微妙に不運]なんつって。


「なぁんで出てくるかなぁ。全くよぉ……」


「……んっ、出てくる?」


「何でもない。こっちの話」


 そう、こっちの話。こっちの、ね。

 思念体になった訳でもないくせに、偶に出現して他人の頭を掻き乱さないでほしいものだ。


「あー、ほんと、疲れる疲れる……」


 だらーん、とスライムよろしく椅子にもたれる。背凭れに首を乗せて、天井を仰ぐ。


「まあまあ。実際、昼寝してた上に講師に向かってうるさいなんて言っちゃう詩乃にも非はあるんだからさ。仕方無いと割り切れば気も楽になるよ」


 や、真琴ちゃん手厳しい。誰かに向けて発した訳じゃないんだけどなぁ。


「んん……いや、そうだけどさぁ実際。あー、いいさいいさ、はいはい。レポートなんて紙切れ、何枚でも書いてやんよっ」


 天井に向かって調子よく宣言。こういった発言は、大抵やる気ゼロから出る。でも行動に移せてくれる魔法の言葉。見栄を張るとはこの事。


「そう、その調子だよ詩乃。君はやれば何でも出来る子なんだから。もし手伝ってほしい事があったら、何時でも僕に言ってくれればいいからね?」


「あいよ。そのお心遣い感謝致しますです。……しかし、何だな。ほんとお前はいい奴だよなぁ、こんなどうでもいい事でも気にかけてくれて。真琴みたいな彼女がほしいって常々思うよ。おまけに美人だし」


「わお、嬉しいね。僕も、願う事なら詩乃みたいな彼氏がほしいな。子供っぽくて放って置けない、それなのにどこか頼りに出来る人」


「マジかよ。うわっ、俺らって意外と気が合うのな。正反対だけどだからこそ変に噛み合うって感じだと思ってたけど」


「ふふっ、僕は前々からそうじゃないかなあって思ってたよ。自分で言うのもなんだけど」


「そうなのか……あーあ。真琴が彼女だったらなあー」


「僕も、詩乃が彼氏だったらなあー」


「……おいてめぇら、わざとやってんのか?」


 と、真琴と二人で嘆いていたら、比劇がいつの間にやら現れた。何故か怪訝な眼差し。


「よう比劇。わざとって何だよ。わざとって」


「僕も気になる。何がわざとなんだい?」


「……いや、いい。もう訊くな」


 何かを諦めたようにため息ついて、隣の机に座る。まったく、失礼な奴だ。


「それより聞いてくれよ。さっき大学の入り口に、凄ぇ美人がいたんだ。なんつーか、会話するのに料金が入りそうなレベルの」


 嬉々として話し始めやがった女誑し。こいつ、顔はいいからなー。


「へぇ。連絡先は?」


 こいつがこんな話をするのだ。ただのナンパなので真っ先に言ってみた。

 それにしても、会話するのに金が必要って……ただのキャバクラじゃねぇか。言いたい事はわかるが例え悪すぎ。


「いや、それがよ……」


 途端に、比劇の表情が曇る。あれ、前にもこんなパターンあった気がする。


「話し掛けたらよ……なんて言われたと思う?」


「尻軽じゃなかったんだな。で、なんて言われた?」


「気安く言葉をかけないで。貴方風情に靡く女だと思われただなんて心外だわ。正に人生の汚点、いえ、破綻と言っても過言ではない。兎に角、不快の極み。私と話したいのなら、神よりも崇高な存在に生まれ変わってからをお勧めするわ。まあ、それでも貴方とは会話する気なんて無いのだけど。生理的に無理だから……酷くね!?」


「うわぁ……」


 ひでぇ……何がって、何もかもひでぇ……。なんて言葉の暴力。ハートブレイクの後にデンプシーロールされて鉄拳でとどめを刺された感じだ。精神弱い人間なら一週間は立ち直れないの確実。

 そんでもって、……なんか聞き覚えのある口上。例えば、今日の朝っぱらから俺が相手した奴みたいな。


「……比劇、ちょいと訊ねるが。その女ってさ、人形みたいに無表情だった?」


 思い出して悲しくなったのだろう、比劇は手で顔を隠し、涙を堪えながらに答えた。


「うう……ああ、そう言えばそうだったな……。俺、クールビューティ大好きだから……」


「どうでもいいわっ」


 ほんといらん、その情報。因みにこの場合、クールは冷酷と読む。


「そいつ、まだいるのか?」


「多分。誰か待ってるみたいだったぜ……」


「そうか。――あっ、そういえば倣司さんに用事あったんだ。悪い、俺もう帰るな」


「そうなのかい? それじゃあ早く行かないと」


「おう。付き合ってくれてありがとな真琴。あと比劇、今度一杯奢ってやるから元気だせ」


「……おぉ……」


 あちゃあ、これは相当なダメージだな。原因が身内だから、本当に奢ってあげよう。俺って良い奴だってばよ。

 二人に軽く帰りの挨拶をして、すたこらと食堂から出る。……さて、あのアホは何しに来たのでしょうね。


 お弁当届けに来た。ないない。


 心配になったから来た。ないない。


 寂しかったから来た。ないない。


 貶しに来た。あり得る。


 会いに来た。微妙。


 ただ何となく。これだ。














       














「あら、こんにちは、詩乃。どうしたのかしら。そんなに息も絶え絶えの、見るからに疲労困憊の姿は」


「――、――、……おまっ、何で、ここに……やっ、ちょ、ちょっと待て……」


 く、苦しい……食堂から門まで、意外に距離があるじゃないか……。日頃から運動なんて皆無だから、足は痛いし、呼吸はままならないし、もうへろへろだ。しかも今は夏だから、暑くて汗が出てくるわ出てくるわ。晴れてるのに、いや晴れてるからこそ、全身びしょびしょ。


「ちょっと……、近付かないで頂戴。とても臭い。そして汚らわしい」


「う、うっさいわ! 誰のせいでこんな目に遭ってんだと思ってんだ!」


「あなた自身のせいでしょ。行動してるのは自分なのだから」


「そうですねこのクソ暑い中で微妙に長い距離を疾走してきた僕のせいだと思います本当そうだとでも言うと思ったか馬鹿っ! そういう事を言ってんじゃねげふぉ!」


 疲れている時に早口をするものではない。むせるから。


「うえっへ! げほっ!」


「まったく……見るに耐えないわね。警察を呼んでもいいかしら?」


「今の俺は逮捕されてもおかしくない程キモいってか! どんだけ醜く扱うつもりだっ! てか――……こんなやり取りはどうでもいい……」


 ほんとどうでもいい。

 深呼吸して肺を落ち着かせる。呼吸が整ったところで、この女に問う。


「お前、何しに来たんだよ」


 そう。日法が唐突に、俺が通う大学に訪れた理由。

 端から見れば、それがどうしたと思うだろう。友達が大学に来ただけの事に何故慌てるのだと。まあ確かに、それだけの話ではある。それだけなのだが、こいつの場合はちょっとややこしい。


「貴方に会いたくなって、気付いたら足を運んでいたという所かしら」


 そんでもって一番無いと思ってた理由じゃねぇか! 真顔で言われると尚のこと恥ずかしいなあもぅ!


「……お前な、ここは俺が通ってる大学なんだぞ? 他の学生がそれはもう沢山いるんだぞ?」


「大学なんだから当たり前じゃない。それが何か?」


「目立っちゃうだろうがっ。面倒くさい事になっちゃうだろうがっ」


 詩乃に女の知り合いがいた、というのは別にどうでもいい。そんなの誰にだっている。だが彼女は、荒縫日法の場合はそれだけでは済まない。


 こいつは性格最悪だ。他人を虫か何かみたいに見るし、口を開けば誹謗中傷のオンパレード。しかしそんな奴でも、外見は文句の付けようが無い程に完璧だ。そんな女と知人である事が知られたら……しつこく紹介とかを迫られたり、事ある毎に連れてきてとか頼まれたり、何でお前みたいな男がとか罵られたり、彼女を手に入れるのは僕だとか頭おかしい奴が現れたり……なんかもう、面倒くさい。


「そう……確かにそうね。容姿端麗頭脳明晰であるこの私がこんな、金の無駄遣いともいえるレベルの低い大学を訪れただなんて、狂気の沙汰と言われて可笑しくないわね」


「謝れ! みんなに謝れフリーター!」


「まあそれはそれとして」


 流された!


「ついでに伝えておきたい事もあったのよ。今日、帰りが遅くなるかも知れないの」


「……へぇ、そうかよ。……えっ、それだけ?」


「そうよ」


「ケータイでいいだろ、それくらい」


「だから、ついでと言ったでしょう。貴方に会う事が目的であって、どうせ顔を合わせるのなら声で伝えようと思っただけ」


「ふ、ふーん」


 くそっ、クーデレめ。思わず視線を外してしまった。


「まっ。今日はバイトだから、俺も夜遅いのは同じなんだけどな。で、なんか用事でもあんの?」


「ちょっとした探検。大丈夫、貴方には関係ないから。私なりに気になる事があるだけよ」


「ふーん……まあ、何なのかさっぱりだけど、程々にな。死人とか出すんじゃないぞ?」


「貴女に言われたくないわね。というか、怪我人なんて出した事ないわよ。詩乃と違って、“コレ”は温厚な性格なの。それに、攻撃に使った事もないし、間違いが起こったとしてもそれは不慮な事故でしかないわ」


「それが怖いんだっつの」


 万物がお前の味方なんだ。今まで周りが巻き込まれていない事が奇跡に近い。


 それじゃあ、と日法は背を向ける。私なりの気になる事とやらを探りに向かったようだ。……ぽつんと残された俺。真琴たちの所に戻る訳にもいかないので、仕方なくバイト先のcherryへ向かう事にした。




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