2-8


「……アイヤァ……」


 ――小さな商店街に、ひっそりこじんまりと建つ中華料理店、太極拳。


 客席はL字型のカウンター席のみ。店内を狭めないように、ポスター以外に目立つ雑貨は置いていない。清掃が隅々まで行き届いており、新築の様に壁も床もピカピカ。店主が中国人という事もあり、その料理の味わいは本場仕込みのクセになる一品。だが客足は悪く、一日に十人以上が来店した日は一度として実現されていない。

 場所が目立たない事もあるが、何より外観が悪かった。そこまで気が回らなかったのか、回せなかったのか――壁にちゃちな扉が付いているだけとしか思えないもの。よほど周囲に注意しなければ素通りしてしまうという、客商売にとって致命的な見た目だった。


 しかし、一年も経つのにそんな初歩的な事に未だ気付いていない太極拳の店主、ロンは三十度に迫る気温と戦いながら、来るかどうか博打に似て客を待ち続けていた。


「暑いネ……昼だけどもう閉めようカ……」


 そして、挫けそうだった。


 店内にエアコンを取り付ける余裕もなく、じわじわと上昇してくる熱気に心が折れかけていた。しん、と静かな店の中。テレビも置いておらず、気を紛らわす物はない。これならまだ病院の待合室の方がマシというもの。


 しかし。何度目かのため息をついた、その時。開くかどうか定かではなかった扉が動いた。


「おっふお!?」


 目を見開いて驚くロン。不動を保つ扉……飲食店に於いてそれは大問題なのだが、それに対して信じられないといった顔を見せる店主もまた問題である。ロンは驚愕の奇声を上げ、感激の笑みで客を迎え――かけて、きょとんとした。


「――スシェン……何でここに、いや……てか何してるカ?」


「……その呼び名はやめろと言った筈だ」


 店に訪れた客、女性は、知り合いのようだった。すたすたと店内を歩いて、ロンの正面に座る。スーツの内からロングピースを取り出し口にくわえ、ジッポで火を灯し、深く吸い込んでから煙を天井に向かって吹く。

 その振る舞いと雰囲気は、飲み食いをしに来たというよりは、小休止を取りに来たようだった。


「仕事帰りカ? 腹減って我慢できなかったカ?」


「阿呆、違う。お前に用があるんだ」


 やぱりネー、とロンは呟く。


 用事以外に外を出歩こうとせず、目的が済めば早々に自室へ戻り籠る、女性の性格。ロンはまだ本国に住んでいた時に、中国への応援として来ていた彼女をそういう者なんだと知った。だから、店に現れた時から違う意味での客と認識し終えている。


「お前の現状は偶々知ったのだが、まさか、日本にいたとはな。丁度いいと思って様子も見に来た」


「へぇ。オマエがそんな人情深くなったなんて。明日は大雪アル」


「勘違いするな。腕が鈍っていないかの確認だ。――まぁ、それは無いようだな」


「当たり前ネ。鍛練は日課アル」


 アチョー、とロンはキッチンの中で上段蹴りのポーズを決める。ふざけてはいるが、片足で立っているにも拘わらず体の軸にブレはない。


「ふむ。では早々に用件を述べようか。近々、私が担当しているシンカを外に出す。見張りや発信器は意味が無いので、そいつを一人にするつもりなんだが、もしもの事態には備えたい。だから何かしら問題になってしまった時に、お前に協力を頼む。あまり時間をかけたく無いのでな」


 唐突に言葉を連ねる。


 彼女が言う“頼む”とは、お願いというより命令に等しい。気を遣うような人物でない事をロンは知っている。使えるものは家族だろうと贄にしかねない人物と。

 けれどそれ以前に、その深い恨みでも抱いている様な目つきが既に告げていた。誰でも一目でこう感じるだろう――黙って従え、と。


「……スシェン。今なに言った?」


「二度も言わすな。シンカを外に出すと言ったんだ。どこまで育ったのか調べたいのでな」


「…………オマエ、頭だいじょぶカ? 暑さにやられたカ?」


 ロンが不可解に思うのも無理はない。猛獣を都会に解き放つ、それに誰が賛同できよう。


「言いたい事はわかる。私も危険は承知だ。しかし、やっと見つけたんだ。吸血鬼を見つけ、そして殺せる可能性を秘めたシンカをな」


「――――――本当、カ?」


 吸血鬼。そう女性が口にした途端、ロンの雰囲気が変わる。あどけない少女の姿であるのに、その身からは極上の殺意が滲み出ている。怒りに震えるのとはまた違う、静かな憎悪。


「ふっ、懐かしいな、その目。大方、お前が日本に来た理由はこれなのだろう?」


「……嗚呼、そうアル。とは言っても、情報が入ってから一年経ってしまったガ」


「安心しろ。奴はまだ日本にいる……まあ、それまでは此方にも何の情報も無かった訳だが。処理が面倒だったのか、先月、吸い殻が見つかった」


「――ドコ?」


「先走るな阿呆、先月だと言っただろうに。何処にでもあるような河川敷の草むらの中だよ。死体にはやはり血液がほとんど残ってなくてな。毎度の事ながら行儀よく吸とっていったらしい」


 ふぅぅ、と女性は煙を吹き、灰皿に煙草を押し付ける。


「しかし、わかったのは奴がこの国にいる事だけ。後は此方にも情報はないから、お前の方で調べるがいいさ。では、用件は済んだ」


 そう言って女性は席を立ち、店から出ていこうとする。物思いに耽っていたロンは、その姿を見てはっと気付いたように呼び止めた。


「あ、ちょっと待つアル」


「……何だ」


「折角来たアル。何か一品くらい頼んでけヨー」


 先ほどまでの雰囲気はどこへ行ったのやら。ロンは今の自分を思い出し、店主としての顔に戻る。


「いらん」


「――うぅぅ……、いいじゃないカよいじゃないカ! もうずっと一人寂しくこのクソ暑い中で客待ってるのに、全く来店の気配が無いネ。だからスシェン、何か食ってけっ!」


「その呼び名はやめろと」


「あーハイハイもぉ! ……えーっと……ゼロ! ゼロ子! 何か食ってけ。むしろ食ってけ!」


「…………はぁ」


 中華鍋を振り回すロンを見て、根負けしたのか、不憫に思ったのか、喧しかったのか。女性は踵を返し、飲食を目的とした客として席に戻った。腹が空いていないでも無かったので、丁度良かったのかも知れない。


「流石ゼロ子、何だかんだで話せばわかる奴ネ」


「会話をした覚えはない。あとゼロじゃない。……取り敢えず、マーボー」


「はいナ! ゼロ子には辛さを通常の二倍にしとくアル!」


「阿呆。三倍にしろ」


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