2-10

 からんころん、いつもの似合わないベルの音。


「ちわーっす」


「おや、こんにちは詩乃君。今日はだいぶ早い出勤ですね。仕事熱心なのは雇い主として嬉しい限りです」


「いや、はは。そんな大層なもんじゃないですよ」


 他にやる事が無かったので、とは言わないようにしておく。それは失礼に値してしまうのであるからして。

 倣司さんは、毎度の如くグラスを丁寧に磨いていた。その目の前に着席し、開店前のいつもの談話とする。


「それを言うなら、倣司さんこそ凄いですよ。一日の大半を此処で過ごしてるし。自宅なんてただの寝床でしょ」


「ははは。体は一つなのに二つも仕事していれば、それは仕方の無い事です。ですが、こう言うのもなんですけど。BARをやってる時は気が休まりますし、探偵の依頼もさほど多くありませんので、心配されるほど疲れてるなんて事はないですよ」


 言われてみれば確かにそうだ。倣司さんはいつ見ても涼しく穏やかな顔をしている。本人が言うように、苦と感じるほどではないようだ。

 けれど、朝早くから零時まで働いている事に変わりはない。動き回る訳ではないのだろうけど、時間の拘束が長ければ長いほど疲れは蓄積されてゆくもの。

 だというのにこの爽やかさ。彼という人間はこの状態が地なのだろう。ちっきしょー羨ましっ。


「探偵一つに絞ればいいのに。そうすれば探し物にも専念できるじゃないですか」


「いやぁ、あはは、そう言われてしまうとぐうの音も出ません。なんと言いますか……、探偵は本当に名前だけを利用するつもりだったんです。他人の秘密を暴くというのは気が引けますし、それに儲けも良くありせんからね。ですが客が来てしまう以上、依頼を引き受けない訳にはいかない。そうやって続けていく内に、今に至ってしまいまして……はい」


 ははは、と苦笑い。


「それに、私も半ば諦めている所もありますから、本気で探偵に勤しむなんて考えていませんでした。それならやりたかった事をやりながら、兄の情報を気長に見つけていこうと思い至ったのです。健気な行いのように見えて実は無頓着、ですね。はは、心配して貰っているのに不謹慎ですね、私は」


 本人にとって重い身の上話にも拘わらず、倣司さんは笑顔を絶やさない。かけがえのない兄弟を失って、優しい心を持つ彼が悲しまない筈がない。時間によって整理が着いたのかも知れないが、それでも、此方も笑いかけるなんて真似は出来なかった。


「……見つかるといいですね、お兄さん」


「はい。そうですね」


 にこり、と爽やかな笑顔。


 ……倣司さんの探し物、もとい探し人、それは彼の兄の事だ。


 当時、倣司さんとお兄さんはただのサラリーマン。実家で家族四人、仲睦まじく暮らしていたある日、お兄さんは唐突に姿を消したらしい。予兆だったのか定かではないが、人柄が良かった筈のお兄さんは蒸発する数日前から何故か元気が無かったとの事。何の情報も無いまま月日が過ぎていき、倣司さんは今の状況に至る。


「……すみません。俺、余計な話を……」


「――あ、し、詩乃くん。気を落とさないで下さい。私は何も気にしてませんから」


 ずぅーん、と落ち込む俺。倣司さんはおたおたと慌てている。


 やってしまった……思った事を何気なく言ってしまった。初めて聞いた時に、この話には触れないでおこうと決めたのに。迂闊だった、倣司さんは律儀だから細かく話してしまう人だった。


「すみません……本当にすみません……」


「だ、大丈夫ですから。元気を出して下さい。――ああ、そうだ。詩乃くんに聞きたい事があるんでした。ですからこの話はもう終わりです。だから、ね?」


 思い出したように、倣司さんは話を切り替えた。と言うより、今の雰囲気を流す為に思い付いたかのよう。


「……はい。元気出します……」


 俯いたまま、元気の無い声で答える。実はちょっと涙目。


「ああもぅ、詩乃くん!」


「……はい。すみません」


 目蓋を擦って上体を起こして深呼吸。まだ気持ちは落ち込んでいるが、いつまでもくよくよしていては却って失礼になる。そろそろ気を取り直そうか。


「――ふう。はい、取り合えず大丈夫、だと思います……」


「そうですか? では聞きますよ?」


 と伺いながら、倣司さんは磨いていたグラスに水を入れて俺の前に置いてくれた。それがまた変に感動を誘って涙腺が刺激されたのだが、ぐっと堪える。


「漠然とした問いなのですが。詩乃くんの周りで、若い人たちの間で最近目立ってきた噂はないでしょうか。主に暴力沙汰など」


「暴力沙汰、ですか……んー、いや、聞いた事ないですね。また何か事件ですか?」


「ええ、若者同士の喧嘩が目立っているらしいのです」


「へぇ。最近の若者は血気盛んでありますこと」


 鬱憤晴らしのストリートファイト。今時にそんなものが流行るなんてね。その元気を勉学に向ければ歳くってから役に立つんだけど、若者はそんな事知ったこっちゃない。今を楽しめればそれでいいというのが未成熟の性。


「はは、詩乃くんも若者じゃないですか」


「いやぁ、はっはっ。違いないですね。て言うか、何で倣司さんがそんな事訊くんですか? 倣司さんが動く程の問題じゃない気がするけど」


「そうですね。それだけならば警察だけで良かったのですが、少年課の警官から鷹無警部が気になる話を聞いたらしく、それで私に情報収集の依頼が来たのです」


「まぁたおっさんかよ。ったく、あのサボりジジィめ。……ん、鷹無のおっさんがって事は」


「はい。喧嘩の中心人物、騒動を起こして今も見つかっていないその人物に不審な点があるのです。何でも、鉄パイプで殴られても傷一つ付かなかった、と」

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