2-3
――最初に発見されたのは、今から半世紀ほど前の1958年。ここから、とある水によって、世界は変動した。
発端は農村で暮らしていた子供。どこにでもいる、特別変わった様子のないただの幼い男の子。両親が畑仕事で忙しいために、森の中を一人で探検して遊んでいたら、それに遭遇してしまったらしい。結果、肩から指先までが岩石になってしまい、両親を卒倒させてしまう事になるのだった。
町の病院に連れて行かれたが、当たり前に原因は不明。考えうる限りの手を尽くしても、やはり効果は無し。
事件を耳に入れた日本政府は、その子供を直ちに生物学関連の研究所に隔離した。未知の病原体を恐れたという理由もあるが、どちらかといえば本命は、その子をモルモットとして調べる為だ。
既に記者に取材されていたので、紙から人へ、人から国へ。驚愕的な情報ほど伝達する早さは恐ろしいもので、瞬く間に海をも渡って世界中へと広まり、彼に興味を持った様々な外国人が日本に集まった。記者、学者、政府関係者、多種多様なお偉いさんと野次馬が勢揃い。
子供の状態は不可思議なんて言葉では済まされなかった。腕の形にした岩――そうとした形容できないものが、正真正銘の、彼の腕となり果てていたから。
けれどそれは自在に動かせ、見た目通りに腕としての機能を持っていた。血管も骨も筋肉も無く、中身まで石でしかないのに折れる事なくしなやかに。ゴツゴツとした形が細かな作業を阻害してしまうが、その仕草はまさしく身体のパーツ。確かにそれは“腕”なのである。しかしそれよりも驚くべき事は、その腕の成分が、人間の体組織と何ら変わりの無いものだったという事だろう。
話は戻るが、子供の腕の調査と同時に、ある事が国家レベルで始まっていた。――水の捜索。正確にいうと、水溜まりの捜索という理解のし難い奇妙なもの。
何故かと言えば、その子供の発言がきっかけだった。何で腕がこんな事になったのか、と一番に訊かれたその子はこう言った。
“水が入ってきた”と。
信じられない言葉。でも彼の腕が、全てを物語っている。
数ヶ月が経って、少年が探検していた森から数キロ離れた地域から、異様な水溜まりは発見された。無色透明で澄んでおり、一見はただの水。ここ一週間は雨が降らっておらず、川の近くでもなく、ましてや地下水が湧いている訳でもない事を除けば。
発見者は半信半疑のまま、水の採取を始めた。馬鹿馬鹿しいと思っていたのだろう。たかが水ごときがなんだと、彼は手袋もせずに作業に取り掛かった。一人であった為、注意を呼び掛ける者もいなかった。
挙げ句、水が素肌に数滴だけ付着してしまい、異様な光景を目の当たりにする。糊のように張り付き、アメーバのように蠢き、染み込むように皮膚の中へと侵入する水滴を。
後悔しても遅い。拭い払っても既にそこには何も残っていない。理解の出来ない光景に青ざめたが、けれど水を発見した彼は、男の子のように身体に変化が無かった。どこも岩になっていない。身体中を目と手で探っても、特別おかしな箇所は見受けられなかった。夢でも見たような気分。
やはり子供の妄想か、でもさっきの光景は一体……。途端に寒気がした。あの、水が自分の身体に入っていく姿と感触、よくよく思い出してみればおぞましい。完璧にあれは、意思を持った動きだ。ただの水である筈なのに。
この事は黙っておこう、男性はそう決めた。話せば自分もモルモットにされる。どんな検査を、または実験をしているか知らないが、まず人権は無視されるだろう。誤って殺されてしまっても、原因不明で通される。元々が訳のわからない事態なんだ、曖昧な答えでも世間は責めようがない。
男は深呼吸ひとつ。気を取り直す。先ほどのは疲れていて視界が滲んだだけ、水は気付かない内に払われただけ。ただ、それだけ。
そう自分に言い聞かせて、その場から離れようとした男は足首を捻ってしまった。無意識に焦っていたのだろう。苦い顔をする男だったが、そこで奇妙な感覚を受けた。
捻った足が痛くない。何故なのか自分の足を見てみれば、捻った右足の、足首が直角に折れていた。驚いて足を上げたなら更に恐怖する。
ぶるん、そんな効果音が似合って、足が元に戻る。まるで、折り曲げていたゴムが真っ直ぐに戻るかのように――。
「――と。まあ、これが全ての始まりってわけ。そんでそれに触発されてか、今まで隠れてた人達が世界中から見つかっていったんだと。国が本格的に動き出したから、治療できるんじゃないかと名乗りだしたんだ。まぁ、既に手を汚してた奴は黙ってただろうけど」
「ほえー、そうなんですか。てか世界中にいたんですね」
「……おい嗣原、その歳になってまだ知らなかったのかよ。常識だぜ、この話。あと他人の手羽先つつくな」
――午後九時。
しがない大学生三人、居酒屋にて。
講義をサボった比劇のショッピングに付き合わされた後、てきとうに町を徘徊して、気付けば空も暗くなっていた。どうせだから、このままどこかで食事でもしようという事で今に至る。今日はアルバイトもないし、明日は朝から講義もない。なので夜遅くまで悠々と飲み食い出来るという訳だ。
……絵留は、バイトなんてしなくても過保護な親から金が入ってきやがるから、この開放感は理解できないだろう。甘やかされやがってこの変態。
居酒屋の中は大学の教室ぐらいの広さで、面積の限界までテーブルが並べられている。隣との間隔は中肉中背が一人通り抜けられるほど。後ろとは余裕を作ろうとするとぶつかってしまうので、席を立つのさえ一苦労だ。アンチャンネェチャンやらオッサンやらジジィやらで満席の店内は、酒と煙草と与太話でぐちゃぐちゃである。
その中で、一番落ち着ける隅の席を俺たちは勝ち取っていた。後方が壁の俺と絵留、後方がやかましく騒ぐおっさん達の比劇。比劇、悲劇。
「それとですね先輩、まだわかんない事があるんですけどぉ。その水って一体なんなんですか? 普通の水ではないんですよね?」
焼酎ストレートを片手に、目を輝かす嗣原後輩。足し算を学んだ小学生がもっと教えてと催促するみたい。……えっ? 未成年の飲酒は禁止? はっはっはっ、罪はバレなければ罰を下されないのだよ。てか一九と二十で何が違うんだよ。
それはさて置き、なぜ若人がこんな盛り上がりそうの無い話をしているのか。きっかけは些細なもので、店に取り付けられたテレビの毎度おなじみ番組シンカの人権問題について、を見ていたからだ。この後輩、ほぼ世間に定着している存在をまだわかっていないという。なので先輩二人で説明会を開いているところ。
「進化の水、なんて呼ばれてんな。陳腐なネーミングだけど」
「うわっ、なんですかそりゃ、ダサッ。進化ってそれ……んっ? シンカ……進化……むー、ぬー……んん?」
「はっは。必死こいて考えてるお前の顔って面白いぞ、嗣原」
「ムカッ……灯元先輩のアホ毛の方が笑えます。実はそっちが本体なんですよね、ぴょこぴょこ動き回るし」
あーーわかる。靡いてるだけなんだけど、その姿が意志があるかのように見えるから。
「おまっ、他人が気にしてる事をっ……!」
比劇は絵留が頼んだたこわさが入った食器を奪い、ずぞぞぞと一気食い。
「ぎゃー! 何するんですかっ私のたこわさ! ちびちび食べるのが乙なのに!」
もぎゅもぎゅと、嘲るように咀嚼する比劇。それを見てさらにムカッとした絵留は、テーブルの下ですね蹴りを食らわす。女物の靴は先っちょの破壊力がある為に、比劇、悶絶。
「……それで合ってるよ。水に触れて進化したからシンカ、そのまんま」
ほんとそのまんま。特にオチは無し。
「へえ、随分と安直に名付けられたんですね。……でも何ですね。何で進化なんですか? どちらかと言えば変異とか変態とか、ちょっぴりダークな方がしっくりする気が」
「まぁな。化物とか言われてるし、そう思われても仕方ないわな。それについては、どこぞの学者が解明したんだよ。理論はよくわからないけど。簡単に言うと、人間が人間として行っているまたは行える、そして可能性がある“部分”が神秘的に進歩してるんだと」
先ほど最後に述べたゴム人間で例えるなら、それは単純な体の柔らかさ。
鍛練する人がそうであるように、天性を持つ人がそうであるように、人間はやりようによって柔らかい肉体を手にする事ができる。サーカスには、肩ごと腕を反転させたり股の間から顔を出すなんて芸当もザラだ。
ただ勿論、限界はある。蛇の様に体を曲げられた所で、結局は比喩、蛇と同等なまでに曲げる事はできない。そして最大の難関、骨は曲がらない伸びない。そういった人たちでさえも、関節が柔らかくなっているだけで、骨自体は何一つ曲がっちゃいない。
――という不可侵である筈の限界を、その水は容易く取っ払う。
“柔らかくなれる”という元から備わっている人体構造を、非科学的で革命的なまでに飛躍、実現。それ故に。
「だから進化の水。最初の生物って、みんな海の中にいてけったいな姿だったけど、様々な進化を経て
途方もない年月を一瞬で。
望まない願いを強制的に。
ありえない力をその身に。
否定の否定。
限定制限の無視。
根本的概念の排除。
神秘的空想理論の体現。
「――ほぇぇ、なるほど。だから進化なんですか。てかそれっ、かっこいいし便利じゃないですか!」
大はしゃぎの絵留ちゃん。引き算の存在も知ったかのよう。何も知らない奴は幸せですこと。
「……進化っつっても、その先が必ずしも良い結果に繋がるとは限らねぇ。今の人間はただでさえ満ち足りてんだ。それ以上のものを身に付けても、現代社会は素直に受け入れちゃくれない。超能力や魔法じゃないんだ。ある程度の制御は出来てもデフォルトが決定的に違ってる。だからいつの日か絶対にバレて、犯罪者よりも疎まれる惨めな人生を歩まないといけなくなる」
「そ、そうなんですか……? 進化って聞くと、いい事尽くめかと思ったんですけど……」
「ばーか。死ぬまで化物扱いされる事の何がいい事尽くめだ」
そう。大きな問題がそこにある。テレビで調査した事が何年か前にあって、シンカは化物だと思うかという円グラフの九割が、イエスで占められていたのをみた事がある。
人間とは周りと同じでないものには嫌悪を抱く生き物だ。望んで外れようとする者の気持ちなんかわからないが、大多数は常に普遍を望む。だというのに、シンカがその身に宿す能力は不安しか生み出さない。だが何よりも、簡単な理由がある。ただ単純に皆は、
カレらが恐いんだ。
「それに、進化できる確率は五分五分。運が悪けりゃテイシだよ」
「うひゃ、それだけは勘弁ですぅ……」
彼女はどこぞの掲示板で動画でも見たことがあるようで。身震いして、さっきまでの自分を反省した模様。――そのあとに、何かを思い出したように首を傾げる。
「……先輩。進化の水に触れて、進化した人をシンカと呼ぶんですよね。じゃあ、テイシってのはどういう事なんですか?」
「それもそのまんま。進化に失敗、進行が停止してしまったからテイシ。シンカと違って中途半端な所で終わっちゃったんだ。だから、あんな歪な姿になっちゃうわけ」
「ああ、なるほど。やっぱし安直なんですね、それも」
整列しながら歩いている時、誰かが急に立ち止まると、その後ろがぐちゃぐちゃになる感じ。
かなり雑な言い方だが、間違ってはいない例え。
……ほんと迷惑な話だ。偶々なにかの拍子で触ってしまっただけで、勝手に体を弄くり回されて、自分の意思に関係なく成功したり失敗したり。どちらかなんて当人には選ばせてもらえない。でも選べたところで結局は化物呼ばわり、どちらに転んでも行き先は地獄。人でありながら人で無くす、最悪の液体。
「名付けたのもその学者なんだけど、確かにセンスはねぇな。――んじゃ、大体はこんな感じって事で。先輩からのありがた〜い講義はこれでお終いでござ〜い」
はーい、と絵留ちゃん手を上げて元気よく返事。悩みが減った嬉しさから焼酎六杯目をぐいっと飲み干す。やったね絵留ちゃん、これで足し算引き算は君のものだ。
「……んっ、終わったか」
気付けば、比劇は頬杖をついて焼き鳥を食っていた。絵留に蹴られたすねの痛みは止んだようだ――って、ちょっと待て。
「ちょいと比劇くん。そのねぎまはいつ頼んだんだい? 俺の皿には確か、大事にとっておいたねぎまがあった筈なんだけど、何故か無くなってるねー?」
「盗ったんだからあたりめぇだろ」
「正直なのは関心だが反省の色がないのはどうかと思おおおう!」
すね蹴り。
「いてっ! おい、やめろ馬鹿!」
「はっ――私の焼酎もありません! これも先輩の仕業ですね!このいやしんぼ!」
「いや、それはたった今お前が自分でぇ痛い痛い! 二人して蹴るなっ、ちょちょ待っ、いでえ!」
「あ、そうだ先輩。最後にもう一ついいですか?このっ、このっ」
「おう、何だ。このっ、このっ」
テーブルの下で比劇をリンチしながら、絵留は問うた。
「その水は何で、世の中に出てきたんですかね」
「――――ばーか、んな事わかるかよ」
ですよねー、と始めから答えは求めていなかったみたいで、絵留はぐははははと下品に笑いながら比劇を蹴り続ける。他愛の無い質問だったようだ。
「…………」
……わかるかよ。あの時の母さんの言葉、思い出しただけで嫌気がさす……。
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