2-2


「…………」


 ――少女が、立っている。


 真っ白で簡素な、病衣に似た衣服を着た、可憐な少女。低い背丈、細い体の線、着衣と相まって実に弱々しい印象。強風でも吹けば、花びらの様に飛ばされてしまいそうだ。

 そして特に異彩を放つのは髪。床まで垂れるほど長く、黒絹みたいに綺麗な黒髪。何年も切っておらず、さして切る必要もなく、きちんと手入れもしていないのに麗しい彼女の髪。

 ――その髪に隠れた、顔面から覗く、猫科じみた大きな目。獲物を見据え、微動すら逃さない、狩人の眼。


 彼女の前には、少年が立っていた。安っぽいジャージを着た、まだ幼い顔つきの、中学生くらいの少年。準備体操のつもりか、屈伸と伸脚を入念に行った後、最後に軽くジャンプして整え、一声かけた。


「――そいじゃ、いくよ、お姉ちゃん」


「いいよー」


 その身から漂わす不穏な雰囲気とは裏腹に、詩雄は和やかに手を振って返事をした。姉弟のような仲むつまじい二人の空気。けれど、この場に不似合いな微笑ましい光景は、彼女の返答を合図に、瓦解する。


 …………不可解な事象だった。体全体が一瞬だけぶれたかと思うと、少年は忽然といなくなってしまった。文字通り――消えたのだ、音もなく。そして、不可解な事はもう一つ。それを前にした少女の反応、視認できない速さで顔だけを右に動かした事。

 まるでテープの繋ぎ合わせ。少年少女が対峙する映像は、少年が消えて少女が横を向いた映像へと、間を切り取って繋いだかのよう。だが勿論、カメラとモニターには特別変わった細工は施されていない。役割を果たす機械として、ただのありのままを映すだけ。


 少年の事を書類上でしか知らない若い研究員は、思わずどよめきの声を上げる。その後ろで、壁に背をもたれる先輩研究員は、その驚く姿を見てくすりと笑った。……隣で同じく背をもたれる黒色零子は、至って無表情。


「――――……ふにゃ?」


「ぶー、残念でしたあ」


 少女が顔を反対に向けると、少年の姿があった。にこにこと、してやったりと云った悪戯な笑顔。


「あっれぇ……右だと思ったんだけどなぁ」


「へへへっ。最初はお姉ちゃんの言うとおり右だったよ。でもお姉ちゃんが追いかけてきてるのがわかったから、そこから更に半周したってわけ」


「あ、ずっるーい。右か左に行くだけって約束でしょお」


「ずるくないよーだっ」


「……翔君。お姉ちゃんは怒りました」


「えっ……ちょ、ちょっと待ってよお姉ちゃん。謝る、謝るからっ。て言うか、お姉ちゃんってば短気すぎ――!」


「問答無用」


 ひええ、と少年は悲鳴を上げ、背中を向けて先ほどと同じく姿をかき消した。少女は前傾して、また同じく姿をかき消す。モニターには、もう二人の姿は映らない。――映せない。


「いいのですか、室長。勝手な行動していますが」


「構わん、これも調査に含ませればいい。それより、小僧の速度は上がったか?」


「はい。今月の測定によれば、現在の荒縫翔あらぬいしょうの最高速度は秒速二百メートルとなっています。最近は月単位で大きく向上している模様で」


「……成長による筋力の増加が作用しているという所か。しかも今は成長期、今後もめまぐるしく速くなるだろうな。齢十四でこれならば、成人すればどうなるのやら」


「恐ろしくて想像したくありませんね。しかし、それに拮抗している彼女も末恐ろしい。前は、ここまででは無かったのに」


「そうだな」


 少女の事について、黒色零子は軽く返した。それに対して、研究員の顔が曇る。


「……室長。失礼ながら、このままでは彼女を抑えるのは限界かと思います。日に日に新しいモノを身に付けていきますし、あの性格上いつ造反するかもわかりません。もしそうなったら、我々には対抗手段が」


「はっ、何を言っている。とうに限界など超えている。あの小娘が気付いているかどうかはわからないが、留められているのはあの漫画やまのおかげだ」


「なっ……それは本当ですか……?」


 小さくしていた声を、更に小さくする研究員。


 彼はこの場で黒色零子の次に立場が偉く、研究員としての期間は彼女よりも長い。仕事関係も他の職員と比べて一番に長く、たとえ僅かばかりだとしても、彼女からは信頼を得ていると彼は思っている。なので他の者と比べてくだけた話が出来るのだが……その実、黒色零子が何も思っていない事を知る由もない。


「ああ。その気になれば、この施設にいる者全てを殺して、難なく自力で地上まで上れるだろう。現在いまを見る限り、不可能とは思えない」


「……施設にいる者全てとは、タカナシも含めてのつもりですか?」


「無論だ。まあ、苦戦はするだろうが、あの小娘は確認されているシンカの中で、間違いなく最強だからな」


「いや、しかし……。タカナシはある意味カイムに近いのですよ? いえ、それよりも、彼女は室長に負けたではありませんか」


「近いという事はそうでないという事だろう。頭の悪いことを言うな。私が勝てたのは、二年前の時はあの小娘が未熟ですら無かっただけの話だ。因みに言えば今でも未熟だよ。――あの漫画の山が無くなった時が、この施設の終わりを意味する。完全理想主義と化した、魔法以外なんでも可能とする小娘によって、な」


「……室長。さらっと言いましたが、それは大問題ですよ。まだ信じられませんけど」


「知った事か。私は皆を守りたいなどと大層な考えは持っていない。滅びてしまうのなら滅びてしまえばいい、死んでしまうのなら死んでしまえばいい」


 黒色零子の表情は、やはり変わらない。その姿に研究員は寒気を感じる。彼女が冗談を口にする人ではないと知っているから。


「――ああ、そうだ。一つだけ、救える可能性があった」


 ここで黒色零子の表情は変わった。苦虫を噛んだような、嫌なものを思い出してしまったような、怪訝な表情。


「あの嘘つき、小娘の兄貴がいたな」


「……そう言えば、彼女、ブラコンでしたね……」


「ああ、ブラコンだ。あの男がやめなさい、と言えば丸く収まる」


「喜ばしいのやら嘆かわしいやら……」


 二人が見つめるモニターにはいつの間にか、もがく荒縫翔に馬乗りして勝利のVサインを掲げる詩雄の映像が流れていた。


「到頭、荒縫が競り負けたか。……しかし室長、何故そこまであの青年を疑うのですか? 自分も彼をよく見てはいました、けれどそのような素振りは何も見受けられなかったのですが」


「臭うんだよ」


「に、臭う……?」


「嗚呼。嘘つきが、秘密を隠す臭いだ」


 黒色零子は言い切る。常人にはわからない感覚だったが、彼女の経歴を知る研究員は、それ以上言及しなかった。


 いや、出来なかった。


 ただでさえ険しいその目つきが、更に畏怖を放っていたから。


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