1-9

「――そいじゃ、俺あがりますね」


「ええ、お疲れ様」


 頭を軽く下げて、グラスを磨く倣司さんに一礼。裏口は無いのでからんころん、と似合わない音を鳴らすガラス戸を開いて、店を後にした。

 今日は客も少ないし、倣司さんもそこまで負担にはならないだろう。


 現時刻、十一時と少し。あの後、しばらく倣司さんと他愛ない世間話をして、それが尽きたら店から出て街をぶらぶらしてから頃合いを見て戻って、バーテンダー見習いの職務を全うし終えて今に至る。

 cherryは七時から十二時までが営業時間。だが俺はいま帰路に就いている。

 別に構わないと言ったのだけど、倣司さんは遅くなるのが申し訳ないとの事で、俺の勤務時間を十一時までと決めている。始めは十時だったけど、それでは俺の方が申し訳ないので、間を取って十一時となっているのだ。どんだけ優しいんだ倣司さん。抱かれてぇなあもう。


 歩きながら携帯電話の着信を確認……無し。もしかしたらクロちゃんから連絡が来ているかもと思ったけど、昨日の今日でそれは無いか。あの人、用がある時以外は俺と話したくないってきっぱり言ってたし。


 でもメールはあった。日法ひのりからだ。


『今度、そちらに行きます。エロ本は汚らわしいので捨てておきなさい。』……またか。このフリーターめ。エロ本なんて…………ごめんなさい、あります。比劇のオススメナンバースリーが。


 携帯電話をしまって、バッグを肩にかけ直す。

 さて、ではさっさと我が家に帰ろう。


 夜は苦手なんだ。隠れていたものも、この時間なら平気で日常を闊歩しているだろう。発見したくもないし遭遇したくもないので、歩行速度は通常の三割り増し。



   

 














 ……今日聞いたテイシの事件、ほんとに久しぶりだ。


 ここんところは平凡な日常だったのに、また騒動を起こしてくれやがったか。おかげで、街を巡回する警察が増えたじゃないか。別にやましい事をしてる訳じゃないが、彼らがいると変に気を張ってしまうのが一般市民の悲しい立場。


 ちょっぴり嫌悪――窮屈。


 デパートの屋上に設けられた大型電光掲示板には、倣司さんが言っていたものと思われる猟奇殺人の内容が流れていた。

 最後に、夜中に出歩くのは気をつけましょう。――けっ。その文字列を今の時間に流す時点で、根本的に意義が間違ってるだろうに。じゃあ今それを見てる自分たちはどうすればいいんだこんちくしょー、と言う人がいないので庶民の世界は平和なのだけどね。


 ……違った。平和じゃないんだった、今は。


「まっ、俺には関係ないけど」


 同じ町で起こったとはいえ、そこまで狭い町ではない。しがない日常を送るしがない学生には縁もゆかりもない話である。いずれ片づくであろうと思いながらそのうち忘れ、気付いた時にはああ終わってたんだ、で済むような話。大抵、人生はそのように流れ行く。

 早く帰って飯食って寝よう。明日は朝から受けないといけない講義がある。まぁたあの助教授だよ……やだなー。




















 そうこうしている内に、いつの間にか人気の無い場所に。


 右は背伸びしても覗けないほど高い塀で囲まれた住宅が並び、左は雑木林。なんでも、この辺りの土地神を祀る小さな社がある為に、不釣り合いな景観を残しているのだとか。

 神様、奉る我々を守り給え、ってか。神頼みして救われたんならそれでもいいけど、結局偶然の重なりですから、それ。

 でもまあ悪くない。信仰によって心が、無自覚ではあるが安らぐのは確かなので、それにあやかってみようか。実はこの人気の無い夜道、……ちょっと不安だったりする。


「何事もありませんよぉーにっ」


 酔っ払いじみて歩きながらぱんぱん柏手。終わり。礼儀も礼節もなってないけったくそな御願い。ちゃんと二回叩いてやったんだから、そこだけ評価してくれよ神様、はははは。無神論者万歳。


 けれども、まあまあ楽にはなったかな。こんなおっかない夜道もさきほどまでの不安は感じない。

 愉快と感じる事での人体に起こる化学変化だとしても、その末端を担ったのは確かに神様だ。そこだけは素直にお礼でもしておこう。してやろう。神様さまさま。


 はいはい、それでは頑張ってもう二十分ほど歩こうか。そうすればもう少しで我が家……って、あれ?

 なんか引っかかるな、これ。なんだっけ、こういうのって。確か……ええっと――





「お前も、オレを馬鹿にしてるんだろう……?」






 ――ああそうだ、フラグってやつだ。


 ごめんなさい、神様。そしてクソ食らえ、神様。

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