1-6
「――んっ、あれまっ、もう五時回ってるのか」
「え、本当かい……わお、本当だね。こんなに経ってるとは思わなかったよ」
ふと携帯電話で時間を確認してみれば、いつの間にかそんな時刻となっていた。俺の隣に座る真琴も腕時計を確認する。……あ、手首を返して時計みてる。まさかこんな所で初めて真琴の女性らしさを拝めるとは。
料理はすでに食べ終えており、今は絵留とロンさんで恋バナに花を咲かせ、偶にその中に俺と真琴が交ざるという感じでのんびりとしている。
料理はとても美味しかった。次の一口が早く食べたいと駆り立てられ、欲望の限りに箸を進めているといつの間にか完食していたという程だ。また今度、暇な時にでも赴くとしよう。あと、比劇はカウンターに突っ伏して泣いていた。
「やれやれ、楽しい時間ほど早く過ぎ去ってしまうものだね。体内時計に気を向けずにいるだけなのに、まるでタイムスリップした気分だよ。それで、どうする、詩乃。そろそろ……詩乃、なんでにやけてるの?」
「ん、あーいや。良いもん見れたなあって思いまして」
「良いもん? ああ、嗣原さんの谷間かい? たしかに彼女の今日の格好、屈むと見えちゃうからね」
絵留の胸元はそれ程開いている訳ではないが、よく発育した胸なので洋服を押し広げてしまっている。男なら誰もが二度三度と目を向けてしまうほどに。
「……お前は俺をそんな目で見てたのかよ。いやまぁ確かに、男は女性の乳房にそそられる何か怪しいものを感じ取るけど、何気にわりとショックだよ。どちらかと言えば俺はお前くらいが好みだよ」
「わお、嬉しいね」
嫌がる様子もなく、天使みたいな微笑みを浮かべてくる真琴。スルーせずに真面目に受け止めて包容するその心。恐るべし。
いや、そうじゃなくて……まずい、やってしまった。告白とも取れる発言を本人に向けてしてしまった。ポロリと出ちゃった。胸の話なだけに。山田さん、座布団もってかないで。
しかし真琴の事だから、きっと気にしてないんだろうなぁ……それはそれで何だか悲しい気もする……。
そんでもって因みにだが、真琴の胸はお世辞にもある方だとは言い難い。むしろほぼ無い。そこがまた男と間違われる要因。その事を本人は意外にも――と言ったら失礼なのだが、意外にも気にしていたりする。
絵留が入学する前、俺の部屋で三人で飲んでいた時に、酔った比劇に指摘されて世界の終わりみたいにどんよりとしてしまうほどだ。あの時は慌てた。普段から明るく微笑んでる奴が急に真顔になったら誰だって不安になる。でもケーキ奢るって言ったら元に戻った所がまた可愛い。
ふっ、安心しろ真琴……俺は、貧乳派だっ!
「なに考えてんだよ、俺……」
「ん? どうしたんだい、いきなり」
「いや、何でもないです……。――んじゃ、いつまでも居座るのは悪いし、もう帰るか。おい絵留、そろそろ帰るぞ」
「なっ――まっ待って下さい先輩!やっとロンさんの初チューエピソードに突入したんです。もう少しだけ、せめてチューの所まで。願わくばきっとそのあとに起こるであろう本番まで」
「黙れエロガキ」
喋りを遮るように、猫を硬直させるが如く、洋服の襟を掴み持ち上げて立たせる。きゅぅ、とどこぞの哺乳類みたいな呻き声を上げる絵留。
「ううー、服が伸びちゃうじゃないですかぁ……」
「あ、悪い悪い。女の子の服ってのは繊細だったな。今度新しいの買ってやるから、許せ」
「許してから愛します」
「なんて安い奴だ……。お前の将来、ほんと心配だよ」
俺の心配も気にせず、目を輝かせ嬉々として背景に花を咲かせる絵留。どんだけ嬉しいんだよ。尻でかいくせに軽いんだよお前。どうしようかなあ、冗談なんだけどなあ、とぼけたら後が面倒くさそうだなあ。
「ふむ、帰るカ。久しぶりにいっぱい喋ったから疲れたアル」
「すいません。うちの後輩は好奇心がわんぱくでして」
「なァに。なかなか楽しかったアルヨ。また、腹が減ったら来ればいいネ」
ニカッ、とロンさんは笑ってくれた。幼い顔立ちだけど、任せとけと言わんばかりの頼れる表情は年上のお姉さんだった。絵留のしょうもない好奇心に付き合ってくれたし、いい人なのかも知れない。
それじゃ、また。
と言って、俺たちは太極拳をあとにした(修行を終えた訳ではない)。
「……おい泣きべそ坊主。オマエもさっさと帰レ」
「……かれぇよぉ……かれぇよぉ。ふぐぅぅ……っ!」
……あ、比劇を置いてきちゃった。んーまあいいや。思考時間二秒。
商店街を出てからは三人で買い物をして、絵留と真琴を大学近くの女子寮まで送り届けて、今は俺一人で街中を歩いていた。大学から駅前のバス停まで徒歩三十分。現在の場所からは約十分と少し。微妙な距離だぜ。
時刻はもうすぐ七時となる。春になってしばらく経ったこの季節、日が落ちるのは冬ほどではないがやはりまだ早い。空は仄暗くなっていた。けれどそこまで肌寒くないのは有り難かった。寒いのは嫌いなのだ。
参考書やノートが入ったバッグを肩にかけて、両手を上着のポケットに入れて、人々が行き交う歩道を、斜め上を見つめながら歩く。
目線の先に、何か気を引く物がある訳ではない。歩くときの癖みたいなもの。俺と同じであろう帰路に就く人々も、思い思いの目線のまま他人とすれ違い、目的地へと歩く。何だか、俺も含めてみんながNPCのよう。
建物や街灯には光が灯っており、だんだんと夜の町へと移り変わろうとしている。あと一時間も経たずに空は真っ暗になるだろう。もう少しで完全なる夜の町の訪れ。もう少しで夜の世界の形成完了。……はぁ……。
――夜は、苦手だ。
別に、真っ暗な道を歩くのが怖いだとか、単純に暗いのが怖いだとかそういう事ではない。
恐怖は無い。ただ、夜が苦手。高校に入った時から。
朝が表で夜が裏。そんな例えみたいに、朝では行動出来ない、隠れていたものが動き出すのは決まって夜。だから、夜が苦手。
……なんて、格好つけてみたものの、原因は結局、母さんのせいだ。
あの人、決まって夜だったから。
「――?」
信号待ちしていると、ズボンのポケットから音が鳴った。携帯電話の音だ。
「……ぎえぇぇぇ」
スクリーンを見て、反射的に顔をしかめた。というか声まで出てしまった。隣にいた母子が怪訝な眼差しを向けてから、逃げるように離れていった。
黒色。くろいろ。そんな禍々しい名字の発信者。登録名はクロちゃんにしている。その方が可愛いし、辛気くささも和らぐから。でもこの人がどういう人物か知っている為、先ほどの母子に逃げられるような反応を取ってしまう。あまり意味がなかった。
うわぁ……、出たくないなぁ。でもこの人、俺が出るまで永遠にかけ続けてくるんだよなぁ。
「…………」
着信音は鳴り続けている。周りから向けられる目線も痛くなってきた。――仕方ない。出るか。通話ボタンをポチッ。耳に添えると、
『遅い。さっさと出ろ。何をしてた。犯罪の途中だったか? ああ、それなら悪い事をしたな。続きでもどうぞ』
嫌味いっぱいの、かけてきたのはそちらなのに嫌がる様子の、女性の低い声が届いてきた。俗に言うイケメンボイス。マゾヒストならこの瞬間に彼女の下僕になること間違いなし。
「ははは、クロちゃ――黒色さんは相変わらずですねぇ。俺は日々合法的に生きてますよおー。にしても久しぶりですね。二ヶ月とちょっと……いや、三ヶ月かな……?」
『知らん。そんなものはどうでもいい。……まったく。まだ化けの皮を剥がんか』
化けの皮とは、本性を隠す表向きの顔。この人は俺の事を、この殺人鬼め、という意味でそう言う。
「妹じゃあるまいし、俺は違うって何度も言ってるじゃないですか。黒色さん、疑ってばかりじゃあ友達出来ませんよ?」
『はっ。生憎、人付き合いは嫌いなんだ。出来ないのなら好都合、これからもそれで結構』
……迷いがねぇ。
どんな子供時代を送ってきたのだろうか。金払ってでも聞きたい。
「――あー……で。電話をかけてきたのは、やっぱり
『そうだ。でなければ貴様に電話などするものか』
一言多いんだよなぁ。
『今すぐに来い。何も知らされていない新米研究員が余計な事を言ったらしくてな。癇に障ってご機嫌ナナメだ。全く、あの娘といい貴様といい』
「俺は何もしてませんけどね」
『とにかく来い。相当イラついている』
「えー。だけど俺、もう帰る所ですもん。今からそっち行ったら、帰りが遅く」
『構わん』
「な、る……」
一切の慈悲なく、悪びれもなく、クロちゃんはそう言う。……まあ、この人にそんなものが決して無い事など、初めて出会った時からわかってはいるのだが。そして、何を言っても聞き入れてくれない事も。うん、もういいよ(涙)
「……はぁ、わかりましたよ。今から行きますよ」
『宜しい。特別だ。バス停まで迎えに行ってやる』
「きゃほぉい。大好きだぜくろ」
ブツッ。最後まで言い終える前に、通話は切られた。ツーツーと虚しく無機質な音が聞こえ、突然の事に固まる俺の姿もやはり虚しかった。
………………まあ、いいけどさ。ここまで嫌われてはいるけど、俺は別に彼女を憎んでいないし。研究対象とはいえ、A判定とはいえ、家族を生かしてくれているのはクロちゃんな訳だし。
しかしまぁ、
あーあ。そんじゃ、行くとしますか。
電話の最中に、何度か赤と青に変わっていた信号。今は青で点灯していた。
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