第16話


何でこうなった?

何で私はイサーク様に抱っこされているの?!


ソファーにゆったり座るイサークの膝の上には、横抱きにされたクロエがオロオロしながらもちょこんと納まっている。

そんなクロエを愛おしそうに見つめるイサークは、時折、頬を撫でたり手を繋いだり頭のてっぺんに口付けたりと全身で愛情を示してくる。

そういう事になれていないクロエは、ただただ羞恥に身体を真っ赤に染め耐えていた。


如何してこうなったの?!!


心の中で叫びまくるクロエ。

事の発端は、ほんの少し前の事だった。






ゆらゆらと燭台の灯が揺れ、まるで自分の気持ちのようだとクロエは大きく溜息を吐いた。


夕食後、エレナ達に身体をこれでもかと磨かれ、ちょっと透明度のある恥かしい寝間着を着せられた。

そして彼女等は部屋を出ていき、室内にはクロエ一人。

いかにもな寝間着でイサークを待つのは何だかやる気満々に見えるので、ガウンを着てソファーの上に膝を抱え丸くなった。


彼と身体を重ねる事に、昔だったら抵抗はなかっただろう。

好きだとか嫌いだとかの前に、王家に生まれた時点で国の為に嫁ぎ、子を成す事が定めのようなものだから。

日中、エレナ達が言っていた。

「陛下なんてその気満々でしたのに」

「まぁ、五年越しの初恋ですものね。張り切ってしまうでしょうね」

周りの侍女達が我が事のように嬉しそうに話しているが、当人のクロエは今だ絶賛混乱中で残念なことにそれを良く聞いてなかった。

ルイの時は出会った瞬間、クロエは彼に一目惚れしていた。

それに順を追って結婚式を挙げたので、自然な流れで夜を共にできたのだ。が・・・・


この状態って、急だよね・・・確かに結婚したけど、自分の意思だけど・・・


初夜と言われて初めて結婚したんだという実感が湧いてきた。あれだけ「結婚」という言葉をみんなと一緒に発していたというのに。

急転直下とはこういうことを言うのかもしれない。

つまりは、結婚に頷いたものの余りにも急すぎて気持ちがついていっていないのだ。

一年は猶予があるのだと、つい先ほどまで何の疑問もなく思っていたのだから。


そしてクロエには分かっていた。イサークの事は好きだが、恋愛感情ではないと言う事を。

嫌悪するような相手ではなく、前の人生でとはいえ、一度は愛した男である。

だが、前と今では別人認定してしまった今世は同じには見る事が出来ない。

だから、ゆっくりと時間をかけて互いが歩み寄れればとも思っていたのだ。


そして一番の問題が、平民として働きその考えに触れた所為で、政略結婚に少なからず抵抗を抱いてしまった事だ。

訪れる若いカップルや仲睦まじい夫婦。平民のほとんどは恋愛結婚。

貴族の中でも政略結婚ではあるが仲睦まじい夫婦はいる。だが、周りの恋愛経験者たちに五年も触れあっていれば、おのずと考え方も平民寄りになってくる。

そう、つまりは王族の身でありながら『恋愛結婚』に憧れを抱いてしまっていたのだ。

憧れだけであれば誰でも持っている。高位貴族であれば尚更無い物ねだりの様に。

だがクロエは平民になる気でいたのだ。帝国から脱出し自由になろうとしていた。

誰かと恋をして、誰かと結婚をして・・・・と、未来予想を描いてしまうほど、夢見ていたのだ。

それが断たれた今、その反動は地味に大きい。

イサークの事は嫌いではないし、何度も言うが結婚しても良いと思うくらいは許している。

全てはルイが出てきたあの夢のおかげだ。あれが無ければいまだに何の罪もないイサークを怖がり、恨み続けていただろう。

何がクロエを迷わせているかと言えば、急激な結婚までの展開と、恋愛結婚への未練。

貴族からすれば実にバカげた考えだと笑われるだろう。

何故、今まで何の不自由もなく暮らせていたのか、その意味が分かっているのか?と。


あぁ、私は自分の立場を間違えて、夢見てしまっていたのね・・・

運命が変わったから、自分の思い通りに運ぶと勘違いしていたんだ。


そこまで思って、クロエは悲しくなり膝に顔を埋めた。

まだ見ぬ未来が本当に掴めるのかと挫けそうになった時、よく思い描いていた憧れの未来。

いつか絶対に誰かと恋愛をするのだと、今となっては決して叶わぬ誰かとの恋愛風景を頭に描き鼓舞していたあの時。


明るい未来を夢見て、無我夢中で生きていたあの時が、一番幸せだったのかしら・・・・


何とはなしにその当時思い描いていた憧れの未来を思い起こし―――はたと気付く。

思い描く恋愛結婚の想像の中で、隣にいるのが何故かイサークである事を。

「なに?―――これ」

勢いよく顔を上げ、突然ドキドキと脈打つ心臓に手を当てた。


あれ?これまでも私の隣はイサーク様がいた?おかしい・・・おかしいわ。

何時からこんな妄想し始めたんだっけ・・・・


焦る様に記憶を探り、今まで無意識に想像していた未来の相手が全てイサークだった事に愕然とした。


あっ、違う・・・・・ジャスさんだ!


妄想の相手はイサークではなく『ジャス』だった事に気づき、またも愕然する。

そう、ジャスとイサとして二人が食堂に通ってきて、名前を覚え言葉を交わすようになり色々話すようになった。

ちょっと真面目で訪れる度にお土産をくれるジャス。そんな彼を揶揄いながらも話し上手で色んな事を教えてくれるイサ。

店に通う男性からの好意は全て社交辞令的なものだと思いスルーしていたクロエだったが、何処か一歩下がったように接してくるこの二人・・・特にジャスからの好意には素直に受け入れているところがあった。

それが実は淡い恋心だったのだが、元から叶わないと思っていた事、いずれは会えなくなる事も分かっていたので、自分の感情に見て見ぬふりをしていたのだ。

自由に国々を旅する彼らが羨ましく、憧れてもいた。

そしていつか、自分も一緒に旅が出来たら・・・・決して重なり合う運命でないと分かっていても、平民になれたらいつか・・・・と言う淡い期待も心の奥底に存在していたのだ。

だが、ジャスが実はイサークだったと聞いた途端、妄想の中のジャスはイサークとなり、当然のように自分の横で笑っている。


全く違和感なかった・・・・

という事は、私、イサーク様の事が好き?


「好き」という単語を心の中で呟いた瞬間、更に心臓が早鐘を打ち全身が熱くなる。

これはある意味、恋愛結婚なのでは?と、自覚してしまえば先ほどとは真逆に、嬉しさと恥ずかしさと幸福に眩暈がしそうで、行儀悪くもソファーに突っ伏してしまった。

そしてタイミング悪く部屋に入って来たイサークに、具合が悪いのかと心配され今に至るのだ。



「あの、イサーク様・・・私は平気ですから、おろしてください」

イサークの腕から逃れる様にもがくクロエを少し悲しそうに見つめ、彼はその動きを封じる様にギュッと抱きしめた。

そのまま微動だにしないイサークにされるがままのクロエだったが、恋心を自覚したばかりの彼女にはいささか刺激が強すぎた。

「イサーク様・・・その、離していただけませんか?具合が悪い訳では・・・・・」

「・・・・・・や、か?」

「え?」

耳の側で囁かれたというのに、掠れた声は彼女へは正確には伝わらない。

「クロエは、俺と夫婦になるのが嫌、か?」

今度は身体を離し、彼女のその瞳を覗き込んできた。

至近距離で顔を覗き込まれ、思わずヒュッと息を飲みこむ。

恐怖からではない。間近にあるイサークの表情が、まるで迷子の子供の様な不安で悲し気なものだったから。

「結婚の事は確かに性急過ぎたと思っている。クロエが一年後と言っていたのを俺の欲望と我侭で、今日にした。しかも、俺は浮かれていた。恥ずかしいほどに」

クロエを抱きしめる腕が緩み、彼の腕からいつでも抜け出せるようになったが、彼女は動く事が出来なかった。

「それでも・・・もう、無理だった。―――家族になるのだから、共に戦いたいと言われて舞い上がって・・・嬉しくて・・・我慢が出来なかった」

イサークの手がそっとクロエの頬を撫でたが――――その指先が少し震えている。


あぁ・・・私が彼から離れようとしたから、嫌がっていると思ったのね。

単に恥ずかしいだけだったのに。自分の気持に気付いて直ぐにこれは、ちょっと刺激が強すぎるんだもの。

だけど、どうしよう・・・・イサーク様にこんな顔をさせたくはないのに。


彼は自分に対する愛情を、包み隠さず言葉にして伝えてくれている。

ならば自分もそれに対し、想いを真摯に返さなければならない。

目を逸らし俯くイサークに、クロエはその頬を包み込み互いの瞳を合わせた。

「イサーク様、私はただ恥ずかしかっただけなのです。嫌がってなどいません。

  ――――私は、つい先程・・・その、イサーク様が初恋の方だと分かって・・・・恥かしくて耐えられなかったのです」

勇気を出して告白すれば、彼の目がみるみる大きく見開かれていく。

「正確には、ジャスさんの方だったのですが・・・」

今だ呆然とするイサークにクロエは不安そうに「イサーク様?」と頬を撫でた。

とたん、苦しいほどにクロエを掻き抱き、何やらうめき声をあげる。

「イ、イサーク様!もしや具合が悪いのでは?私の為に無理をなさるから。今誰か呼びますから・・・・」

「違う・・・・具合は悪くない・・・」

「でも・・・・」

それっきり何も言わずただ抱きしめるイサークに、クロエは宥める様にその背を撫でた。

先ほどまでの緊張だとか羞恥だとかは、波が引いたかの様に穏やかな気持ちになっていく。

まるで甘えられている様で、それが嬉しくてクロエも知らず知らずイサークを抱きしめる腕に少し力を込めた。

するとようやくイサークが戒めを解き、顔を上げた。

「クロエ、先ほどの話は、ホント?」

「先ほど?」

「俺が、初恋って」

「っ!―――本当です。正確にはジャスさんだったイサーク様なのですが・・・」

「それでも、嬉しい。ジャスの時は全ての肩書を捨てた、素の俺だったから」

そう言って本当に幸せそうに笑う。

「でも、できれば『皇帝』としての俺も受け入れて欲しい」

ジャスとして、ノアとして結ばれるのならばどれほど幸せな事か。

だが現実は、片や帝国の皇帝。片や世界各国から望まれている才媛の美姫。―――本人は無自覚だが・・・・

それは紛れもない現実で、自分達を形作るのはその両方あっての事なのだ。

「私は、イサーク様を尊敬しておりますし、お慕いもしております。その・・・本当に先ほど気付いたばかりで何て言ったらいいのかわからないのですが・・・一つだけ言える事があります」

首を傾げ先を促すイサークにクロエは、心からの笑みを向けた。それはまるで可憐な花の様な鮮やかで美しい笑顔。

「私は今、とっても幸せです」

その笑顔と言葉はいとも簡単に、彼の爪の先ほどの理性という名の箍を外してしまった。




意識が浮上し、重たい瞼を何とか上げれば室内は明るく、既に陽が高く昇っている事が分かる。

寝過ごした、と慌てて身体を起こそうとしたが、まるで全身を何かで拘束されているかの様に身動きが取れないのと、それとは別に身体の節々に違和感がある。

すっきりとしない頭で視線を横に巡らせれば、やたらと綺麗な寝顔がそこにあった。

室内に降り注ぐ光を集めているかのように銀色の髪がキラキラと光り、閉じた瞼を縁取る睫毛や形よく通った鼻梁はかすかに影を作っている。

少しだけ開かれた唇からは穏やかな寝息が聞こえ、それが聞こえなければ本当に生きているのか疑わしいほどの神々しさ。

思わず見惚れ暫し凝視していると、閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、照れた様な笑みを湛えた。

「そんなに見つめられると、穴が開いてしまいそうだ」

その言葉にはっとし、謝罪の言葉と共に起き上がろうとしたクロエ。そこで初めて気付く。

自分の身体を拘束していたものが何か。そして何故、身体の節々に違和感があるのかを。

甦る昨夜のめくるめく濃厚な初夜。そして自分たちが裸である事。

恥かしさや嬉しさ、幸福感・・・・色々な感情が一気に溢れ、身体中が心臓になってしまったかのように脈打ち熱が上がる。

あたふたするクロエにちょっと驚いた様なイサークだったが、色気ダダ漏れ愛おしさ全開の笑顔で「愛してる」などと囁かれれば、息の根が止まりそうになり大きく息を吐いた。

「クロエ、大丈夫?昨日は無理をさせてしまった自覚がある」


ひぃぃぃ!や・・・やめて・・・恥かしくて、死んでしまうわ・・・・!


クロエの脳内では、先ほどより鮮明なあれやこれやが再生され、恥かしさのあまり憤死寸前である。

そんな彼女が本当に愛おしくてギュッと抱きしめれば、互いの素肌からの体温が夢ではないのだと教えてくれている。

思わず安堵と幸福の溜息を吐き、その腕から脱出を試みるクロエの額に口付けた。

「クロエ、俺が自由に出来る日は今日一日しかない」

真っ赤になりながら不思議そうにちょとだけ首を傾げる。

「つまりは、今日一日はベッドから出る事はないという事だ」

そう宣言するイサークはクロエに覆いかぶさり、沢山の口付けを落としたのだった。

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