第11話

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 ……電車が動き出してから、私は座席に座った。青木君の姿はもう見えなくなってしまったけれど、私は寂しさよりも、優しい温かさのようなものを強く感じていた。


 会うたびに、寂しさがやわらいでいくような気がする。いや、会って、こうしてまた別れて、そしてまたしばらく会えなくなって……、その寂しさはあるのだけれど、なんというか、私の深いところにあった寂しさ。それが癒されていくような気がする。冷たい風が通るような寒々しい空洞みたいな部分が、温められ、満たされていくような、そんな気がする。


 電車に揺られながら、無意識のうちに、私は、中学三年生の初夏のことを思い出していた。


 青木君のことはそれまでも知っていた。けれど、その初夏のある日、ふと、自分が彼に興味を惹かれていることに気づいた。


 あの時、私は何かを直感していた。


 彼のことを見ていると、何か、とても良い予感に胸が満たされてくるような、温かな気持ちがした。


 季節が真夏に向かっていく間の一、二ヶ月ほどの間にその気持ちはどんどんと高まり、そして七月後半の終業式の日、これからはしばらくの間、彼を目にすることが出来ないのだと思い、気がついたら、私は彼に向けて手を振ってしまっていた。どんなメッセージも込めたつもりはない。無意識のうちの行動だった。青木君も、私のことを見て、不思議そうな表情を浮かべていた。


 部活を引退した後の長い夏休み、私はそのことを思い出しては恥ずかしさで胸が一杯になった。けれど、同時にこうも思った。


 私は、何かを変えるための最初の一歩を踏み出したんだ。


 秋の気配が漂い出した夏の終わり頃には、また青木君と毎日のように同じ教室で顔を会わせることが出来る日々が始まることへの期待で、切ないくらいに胸が膨らんでいた。


 けれど、夏が終わり、二学期が始まって、暑さが和らいできても、私と彼の間には何も起こらなかった。席替えのときにちょっとしたチャンスに恵まれ、自分と青木君を近い席に配置するということまでしたのに、ほとんど会話らしい会話もないまま、九月が過ぎ、十月が過ぎていった。


 このまま何も起こらなかったらどうしよう。


 そんな不安を感じ始めた頃だった。深まった秋の暗い夜道で、私はふいに青木君を見かけた。塾が終わったあとでスーパーに寄って、その時気に入っていたレモンティーを買った、その帰り道でのことだった。


 少し離れた場所に立っていた彼は、夜の闇に包まれていた。明かりはまばらに立っている街灯の光しかなくて、はっきりと顔まで見えたわけではなかった。けれど、初夏の頃から彼のことを見続けていた私は、そのランニングウェアを着た人影が青木君だと直感した。


 彼の方も立ち止まって、こちらを見ていた。


 こっちに気づいてる、と私は思った。そしてその時は、前とは違って、私は自分の意思で、勇気を出して彼に向けて手を振った。クラスメイトに学校の外で会ったのだから、このくらいの挨拶をするのは当然のことなんだ、と自分にいい聞かせながら。


 そうしたら、彼の方も、ぎこちなく手を上げて、こちらに挨拶を返すようなゼスチャーをしてくれた。


 心のどこかで、私は、無視されるだろうな、と思っていたのだと思う。その仕草を見た時に、私はとても驚いた。そしてその後に、恥ずかしさと嬉しさで、胸が熱くなってきた。私は急いで、小さく頭を下げて、その場を立ち去った。


 自分の家に帰ったあとで思い返せば、なんだか本当にあったことなのかわからなくなるような、不思議な時間だった。夢のなかにいるみたいな気分でその夜を過ごし、そしてその翌日、私達は、初めて二人だけでの会話をした。


 掃除の時間、日常の時間にぽっかりと出来た空白みたいな瞬間に、ふと、手元から顔を上げたとき、こちらをじっと見ていた青木君と目が合った。近くには、私と彼しかいなかった。すぐ近くで目が合ったことに驚いていると、ひどく自然な、なんでもないような口調で、


『昨日の夜、会ったよね』と青木君が言った。


『会ったね』と、私も言った。


 あまりに自然にかけられた言葉に、最初の一言は、私も普段の調子に戻って、さらりと返すことが出来ていた。けれどその後、突然始まってしまった青木君との会話に、一体何を話せばいいんだろうと思った。一瞬、頭が真っ白になりかけたけれど、とにかく動揺している素振りを見せちゃいけないと思い、咳払いをして、気持ちを落ち着けた。そして、頭に浮かんできた昨日の彼の様子から、言葉を導き出した。


『青木君は、走ってたの? その、運動してたような服装だったから』


 そのまま私は初めて、彼とまともな会話を交わすことが出来た。自分を褒めてあげたいくらいに、落ち着いた口調で話をすることが出来た。


 話している間は、冷静でいられたと思う。けれど、掃除の時間が終わって一人になった途端、胸の中で感情が大きく動き出した。いろいろな気持ちが混ざり合いながらこみ上げてくるようで、顔が熱くなった。それはしばらく収まりそうになくて、教室に戻る気にならず、私はそのまましばらく、一人で昼休みの校内を歩き続けた。


 私はひとけのないところを探し歩き、校舎から体育館への渡り廊下に出た。腰くらいまでの高さの仕切り版に私は両手をついて身体を支え、生徒たちがボールで遊んでいるグラウンドを眺め、それからその上空の、広い空を眺めた。


 どこまでも高く広がる、秋の空だった。


 その爽やかな空を、顔と胸の火照りが収まるまで眺めていた。


 私の頭の中では、少し前に交わしたばかりの青木君との短い会話、夏休み前に思わず手を振ってしまった時のこと、私が彼に感じていた何か素敵な予感と、それが現実に何も起こらないままになってしまう不安、そんな色々な思いと記憶が、ぐるぐると渦を巻いていた。


 けれど、一番強かったのは、『よかった』という安堵感だった。現実に、私は青木君と言葉を交わすことが出来たんだ。


 今一度、交わしたばかりの会話を思い返す。本当に何気ない、短い会話だ。


 けれど、その私たちの短いやり取りの時間には、なんだか、とても沢山の可能性が秘められているように感じて、胸が一杯になった。


 そして、その日から間もなく、私は自分の予感が当たったことを知る。秋から冬に至る間の、あの時間は、私が思っていた以上の素敵な時間になった。


『秋と冬の境目って、どこにあると思う?』


 ふと、彼が口にした問いを思い出した。


 そして私は、暗闇のなかを走っている電車の窓の外を眺める。もうすぐそこまで来ている季節とその先の冬の訪れに思いを馳せる。


 きっとこれからも、私はその時期になるたびに、十五歳の秋から冬にかけての時間と、彼の問いを、思い出すのだろう。


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