第10話
二十分ほどのレクチャーが終わると、参加者は階段を上った先にあるバルコニーに出た。広い空間に、数台の天体望遠鏡がゆったりとした間隔を空けて並べられている。
僕たちは、バルコニーの一番奥にあった天体望遠鏡に近づいていった。それぞれの望遠鏡のそばにはスタッフがついてくれているのだが、僕たちのところには、さきほどレクチャーをしてくれていた男性がついてくれた。その人に、「よろしくお願いします」と沢元が礼儀正しく言い、僕も同じような挨拶をした。
それから、スタッフの人の指導の元で、まず僕からセッティングしてあった望遠鏡を覗き込むことになった。接眼レンズに顔を近づけると、暗い視野の中央に、茶色っぽく見える星と青色の星の二つの星が鮮やかに浮かんでいるのが見えた。
さきほどのレクチャーの際に、モニターに表示されていた画像でその姿は見ていたけれど、望遠鏡を通して直接目にしている二つの星には、画像で見たものとははっきりと何かが違う印象があった。400光年先にある星、その原物をこの目で実際に見ているという意識があるからだろうか。画像で見た時よりも存在感を強く感じ、美しい、という感覚に加えて、想像もつかないくらい遠くまで広がっている空間と色鮮やかな星々の実在を感じて、どこか空恐ろしくなってくるような気持ちも覚えた。思わず、小さな溜め息が出た。
胸の動きが収まってくるまで暗闇に浮かぶ二つの星を眺め、その後、「ありがとうございました」と、スタッフの人に言って、沢元と交代した。
彼女は顔周りの髪を耳にかけながらレンズを覗き込み、そしてすぐに、「すごい、綺麗」と、珍しくはしゃいだ声を上げた。スタッフの男性と交わしている会話の声も弾んでいる。
僕はその背中を見たあとで、まだ鮮やかに脳裏に焼き付いている、青色と褐色の二つの星を思い浮かべた。
事前レクチャーの時に聞いた話だが、アルビレオは、きちんとした定義どおりの意味での連星(互いに引力を及ぼし合い、両者の重心を公転している天体)なのかどうかはよくわかっておらず、たまたま地球から見たときに二つの星が重なって見えているだけに過ぎないという見解も近年出てきているらしい。
それでも、先ほど僕が望遠鏡をのぞき、その引き立て合うような色合いの二つの星を初めて見た時には、それらは何か特別な結びつきをもっているように感じられた。
〇
天体観望イベントからの帰り道、僕たちはこの日待ち合わせた駅に向けて、道路沿いの歩道を歩いていた。
駅までの帰り道としては、昼間過ごした山の中を突っ切っていった方が近いのだが、灯りのない山道を通るわけにはいかなかったので、遠回りにはなってしまうが、こちらの整備された道を選んだ。
陽が落ちて明らかに気温が下がり、時折吹く風は、半そでの腕には少し冷たいくらいだった。相変わらず車通りはほとんどなく、周囲の草むらから虫の音が響いている。空には多くの星々の光が瞬いている。
夏の終わりの夜の空気がとても心地よくて、ゆっくりと歩いていたかったのだが、本数の少ない電車を逃すわけにはいかなかったので、そうのんびりもしていられなかった。
道を間違えないようにスマートフォンに表示させた地図を見ながら、早足で駅を目指した。
帰りの駅には、予定通りの時刻に辿り着くことが出来た。
彼女が乗っていく電車は僕が乗る予定の電車よりも十分ほど早く到着する。だから僕は、沢元と同じホームに入り、彼女を見送ることにした。電車が来るまでの間、ホームの端の方にあったベンチに座った。
「今日は、長く居られてよかった。けど、過ぎちゃうとあっという間だね」
そう言って、少し冗談めかした口調で、「今回の夢も、そろそろ終わり」と続けた。
うん、と僕も頷いた。
「朝早く起きて、混んだ電車に乗って学校に行って、夕方まで授業を受けて、それからしばらく部活をして、っていう現実の生活が始まる」
僕は日常の一日を思い浮かべながら言った。隙間なく組み立てられた学校の予定をこなして家に帰って一息つけば、もう夜の九時を回っている。その普段の一日を考えると、ちょっと憂鬱になってくる。大層な努力をしているわけではないけれど、楽に一日一日が過ぎていくわけではない。しんどい気分になることも、朝起きるのがひどく億劫になる日もある。再びそんな日々に戻っていくのだと考えると、少し憂鬱な気分になった。
すると、彼女が僕の方を向いて、「頑張ろう」と言った。
「これまでで、だいたい六分の一が終わったんだよ」
「六分の一?」
「そう。高校生活の六分の一。たぶん、私と青木君がこうして離れている時間の。これくらいの時間を、あと五回。なんとかなりそうじゃない? その後になれば、きっとまた、近くで過ごすことが出来るようになるから」
それを聞いて、胸が熱くなるような思いがした。彼女がそう思ってくれていることが、ひどく嬉しかった。
「隣にいて恥ずかしくないように頑張るよ」
「なに、それ」と、彼女は首を傾けた。
「きっと、君は立派な進路に進むだろうから」
答えると、彼女はにこにこと、悪戯めかした――そしてほんの少し、彼女が内に持っている自信の滲む――笑みを浮かべ、「頑張ってね」と言った。
その言葉に頷くと、ふいに、その未来のぼんやりとした情景が思い浮かんできて、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。僕はすぐ近くに置かれていた彼女の手を握った。握り返してくる軽い力の感覚と温度は、僕の内側の感情を直接、柔らかく包んでいるように感じた。
そして、静かな駅のホームに警報音が響き始めた。遠くから、電車の光が近づいてきている。
電車がホームに入ってきたところで、僕たちは手を解いた。
「さて」と言って、彼女が立ち上がる。
「またね」
そして、解いたばかりの手を振った。
「うん。また連絡する」
僕もそう言って、手を振り返した。
電車のドアが開き、彼女がその中へと歩を進めていく。
ドアが閉まる前に彼女はこちらを振り向いて、最後にもう一度小さく手を振り、そしてこう続けた。
「次に会う時は、もう秋になってるよね」
「たぶんね」と僕は言った。
「その日を楽しみにしてるね。それじゃあ青木君、また、良い秋を」
頷いたところで、ドアが閉じた。そして電車はゆっくりと動き出し、遠ざかっていった。その車両の光が見えなくなった後で僕は踵を返し、彼女が乗って行ったのとは反対方向へ向かう電車のホームに向けて歩き出した。相変わらず、あたりにひとけはない。夜の虫の音だけが響いていた。
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