第8話

 湯川亜美に声をかけられたのは、部活終わりの帰り道でのことだった。


 ちょうど校門を出たところで、後ろから「青木君」と、弾むような声音で声をかけられた。この日、湯川が所属しているソフトボール部も同じ時間帯に活動していたようなので、彼女も家に帰るところだったのだろう。前髪が少し汗に濡れ、制汗剤の匂いがかすかに漂っていた。


「明日、会うんだって? 優美から聞いたよ」と、僕に並んだ途端に言った。


 そうだよ、と僕が答えると、「上手くいってるみたいじゃない」と、なぜかとても嬉しそうに言って、肩を軽く叩いてきた。


 彼女と会話をするのは久しぶりだった。学期中は時折その姿を目にしていたし、短い時間言葉を交わすことはあったけれど、夏休みに入ってからは会っていなかった。また、思えば登下校時にこうして長い時間一緒に歩くというのも、進学後、始めてのことだった。


 彼女は僕と沢元のこの数ヶ月の間のことについて、改めていろいろと訊ねてきた。湯川の方も沢元との友人関係は続いているようで、今、僕たちの関係がどんな感じなのかは、大体把握しているようだったけれど。


 具体的な話題は、これまでの二度のデートのことについてだった。僕たちが会っている『中間の街』はどんなところなのかとか、そこで何をして何を話していたのかとかを、湯川は訊ねてきた。高校から最寄りの駅に向かって歩き、電車に乗って、地元の駅で降りるくらいまでの三十分ほどの間、僕はそのことを話していた。


 僕と湯川が地元の駅に着いたのはちょうど日の入り時刻くらいで、まばらに立つビルやマンションの向こうに太陽がその姿を隠し、空には残照の赤さが残っているだけだった。


 駅から出て僕たちが住んでいる住宅地の方面に向けて歩き出した頃、「なるほどね」と湯川は言った。その辺りで、彼女は聞きたいことの大方を聞き終えたようだった。そして、「すごいね君たちは」と、感心したように言った。


「中学の頃から君たちのことは応援してたけど、正直、どうなるのかなーって、ちょっと心配してたんだよ。距離がこれだけ離れちゃってたら、ちゃんと付き合い続けるのも難しいだろうからさ」


 そこで一度、彼女は言葉を切った。そして、数歩歩くぶんの時間のあとで、こう続けた。


「遠距離って、どんな感じなの? 私にはあんまり想像できないんだけど」


「どんな感じって言われても……」


 さまざまな感情や言葉が僕の頭に浮かんできて、すぐには上手く答えられなかった。僕は首を傾げて、そうだなぁ、と言葉を探した。僕たちが歩いている道の先に、沈んでいく太陽の光を浴びて柔らかな赤い色に染まっている雲が浮かんでいるのが見えた。


 たとえば、と彼女は視線をこちらに向けて、からかうような調子で言った。「寂しい、とか」


「それは、まぁそうだけど」と、僕は頷いた。


「ふうん」と湯川は言った。そしてこう続けた。


「気持ちが離れていきそうだと感じることはない?」


 思わず、僕は彼女を見た。口元には少しだけ笑みのニュアンスがあったけれど、その時の彼女はまっすぐに前を見たままだったので、その表情を読み解くことは出来なかった。


 その言葉に、どうしてか、胸が少しだけ冷えるような思いがした。僕が未だに、心のどこかに持っている怖れに、湯川のその言葉はちらりと光を当てた。時間や距離は、確かに人を引き離していく力を持っていることを、僕はすでに知っている。何もしなければ、ゆっくりとお互いの存在感が、それぞれの世界から薄れていくのかもしれない。


 しかし、僕は首を横に振った。


「今のところはないよ」


 すると、湯川は小さく咳払いをして、「ごめんごめん、変なこと聞いた」と、僕の方を見て、明るい表情で言った。


「わたしは君の監視役をやってるつもりだから。一学期の間に、うちの高校での人間関係の範囲もだいぶ広げられたから、別の女の子と仲良くしてたらすぐわかるからね」


 彼女の軽い調子に合わせて、僕も頷いた。それから、以前、同じサッカー部の岡本が、僕の噂を女子から聞いたと言っていたことを思い出し、「その広い人間関係のなかに、僕たちの話を流さないで欲しい」とも釘を刺しておいた。


「あー……」と、湯川は苦笑しながらその話についてはごまかした。やはり、一度は口を滑らせたことがあったのだろう。


「まぁ、でもさ」


 湯川はやや強引に話題を変えるように言った。「君たちはいいね。羨ましくなってくるよ」


「何が?」


「近くにいるわけじゃなくても、そういう人がこの世界にいるって」


 それからは少しの間会話が途切れて、夕方の道路を走る車の音が響くなかを、黙々と歩いた。


 それはきっと、湯川の言う通りなんだろう、と思う。


 以前は離れることを悲しく感じていたが、その時のネガティブな感情は、今では徐々に薄らいできていた。日々のやり取りは出来るし、全く会えなくなったわけでもない。世の中にはきっと、もっと沢山の不幸な別れがある。たぶんこんなのは、別れとも呼べないようなものなのだ。確かに物理的な距離は以前よりも離れたが、そういう相手がいる自分は、おそらくとても幸運なんだろう。


 そう思った時、春先に聞いた、部活仲間の岡本の話を思い出した。小学生から中学一年生の夏にかけての、自然消滅した女の子との関係。なにかのタイミングが合わなかったら、僕たちも彼らと同じようになっていたのだろうと思う。少なくとも僕が今中学一年生だったとしたら、今のような関係の維持の仕方は無理だっただろう。そしておそらくは僕も、彼女との出来事の記憶を、「今まで生きてきたなかでわりと一番嬉しかったかもしれない」こととして、長く胸の内に抱え続けていただろうと思う。


 その後、湯川の家がある通りへの曲がり角に差し掛かった。空に残っていた夕方の光も褪せ、街の明かりがその存在感を増し始めていた。彼女は立ち止まり、僕に向き直って言った。


「じゃあ明日、優美によろしく」


「うん。伝えておくよ」と、僕は答えた。


 普段学校で目にするような、明るく元気な仕草で手を振り、湯川は住宅街への曲がり角の向こうに歩いていった。

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