第6話

 ……僕は読んでいた文庫本を閉じてショルダーバッグに仕舞い、時刻を見た。あと十分ほどで『中間の街』に辿り着く。


 出発してから時間が経つにつれて、窓の外の景色は少しずつ変わってきていた。商業施設やマンションなどの大きな建物のある市街地を通る頻度は少なくなり、次第に田園や山岳の風景が多くなってくる。


 一度乗り換えてから先の電車の座席はかなり空いているので、移動時間のほとんどの間、座席に座っていることが出来た。気が向いたときに持ってきていた文庫本を読み、時折風景を眺め、そうして彼女と決めた待ち合わせ場所に着くまでの移動時間を過ごしていた。


 やがて、電車が『中間の街』の駅に到着した。


 ドアが開き、駅のホームに足を踏み出した瞬間、草の匂いを濃く含んだ、真夏の空気が僕を包んだ。


 僕の他に下りる人は誰もおらず、ホームで電車を待っている人の姿も見当たらなかった。電車が次の駅に向けて走り去っていった後には、僕の足音の他、駅の外側から響いてくる無数の蝉の鳴き声しか聞こえなかった。


 無人の駅を歩き、改札口を抜ける。するとすぐに、券売機の並ぶ小さなスペースと駅の出入り口があり、そこからロータリーが見える。


 駅の壁と屋根によって四角く切りとられた視界の向こうに、ベンチに座っている、白い服を着た女の子の姿が見えた。


 心臓の音が大きくなる。僕の身体の中で、それが強く反響する。彼女は、顔を上げて、僕が歩いてくる方向を見ていた。だから、すぐに彼女と目が合う。


 駅から外に出て、僕はそれまでよりも歩調を早め、彼女のいる場所に向かって歩き出す。彼女もベンチから立ち上がり、そして、柔らかな笑みを浮かべて僕を迎えてくれる。


 お互いの声が直接届く距離にまで近づくと、「青木君」と、彼女は僕の名前を呼び、片手を上げて、小さく振った。


 〇


 前回の再会の時、約ひと月ほど前から、当然のことながら、彼女はあまり変わっていない。強いていえば、少し前髪が伸びたくらいだろうか。顔を伏せたら目を覆うくらいの長さで、歩きながら、彼女は時折その髪を横に流すような仕草をしている。


 草木の緑と夏の空の濃い青が視界のほとんどを覆っている景色の中を、僕たちは並んで歩いている。目的地は、ここに来たときにいつも訪れている自然公園だ。


 近くに大きな建物はほとんど見えない。交通量が少ないわりに広い舗装路と道路標識、近くを流れている川に掛かっているコンクリートの橋といった人工物が、遠くの山々にまで繋がっている周囲の自然から、なんだか頼りなげに浮いて見える。


「夏休みはどうだった?」


 歩いている道が大きなトンネルに差し掛かった頃に、沢元が言った。


「部活の他には、ほとんど何もしてなかったよ。本を読んでたくらい」と、僕は答えた。


 トンネルに入ると、急に空気がひやりとした。出口の向こう側の景色が、縮小されているみたいに小さく、薄暗い空間の先に浮かんでいる。陽射しを受けている木の葉と空の濃い青、それがひどく明るく見える。


「なんだか、やたらと長く感じた一ヶ月だったな」


 僕がこのひと月を思い返しながら言うと、「そう?」と、彼女が首を傾げて言った。


「うん。前にここに来てからひと月しか経っていないけど、なんだか三ヶ月くらいは経っているような気がするよ」


「それは長いね」


「いつもよりもやることが少ない上に、ずっと待ってるような感じだったから、なおさらそう感じたのかもしれない」


「何を待っていたの?」と、彼女は少し冗談めかして言う。


「あんまり会えない人に会える日があってね」と僕も遠回しな言い方で答える。


「八月の日々が早く過ぎていってほしいと思うことなんてこれまでなかったな」


「その気持ちわかるよ」と、沢元も言う。「お互い大変だね」


 そう言って溜め息を吐いて、くすくす笑う。


 そんな話をしているうちにトンネルを抜けた。トンネルのなかにいるときにはくぐもって聞こえていた蝉の鳴き声が、外に出た途端、急に鮮明な響きになった。


 しばらくすると、森の中を通る道に入った。アスファルトの面積が少なくなった木陰の道は熱が淀んでいるような暑さがなく、それまでよりもずっと涼やかだった。空気までもが、より瑞々しくなったようだった。周囲の広大な範囲に木漏れ日の光が落ちていて、僕はそれを見て、広いプールや海の水面で光が反射している光景を連想した。


 そんな道をゆっくりと歩きながら、僕たちはこの夏の話を続けた。


 僕の方は先週行われた練習試合に少しだけ出場したこと、彼女は新しく出来た友達に遊びに連れていってもらったことなどを話した。


「それで、この間は……」


 ある時ふと、彼女が会話の声を止めて、その場に立ち止まった。


「どうしたの?」


 僕も足を止めて訊ねると、


「あそこ。鳥がいるよ」


 彼女はそっと手だけを動かして、前方を指さした。僕たちが歩いている歩道の近くに生えている木の梢に、二羽の鳥がとまっていた。あまり見たことのない鳥だった。スズメくらいの大きさで、一羽は鮮やかな青色、もう一羽は茶色だった。


「綺麗」と沢元が言った。


 僕たちは立ち止まって、少し離れた場所から、その二羽の鳥を眺めた。時折、青い方の鳥が高く伸びる声でさえずり、頭を小さく動かしている。


「なんていう鳥なのかな」


 調べてみようと思い、僕はポケットに手を入れてスマートフォンを取り出して写真を撮った。そのまま画像検索をした結果、どうやらオオルリという鳥らしいことがわかった。色が違うので別の種類なのかと思っていたが、どうやらオスとメスで色が違うらしい。青色の方がオスで、茶色の方がメスということだった。


 その後も一分ほど僕たちは立ち止まったまま、その鳥たちの姿を眺めていた。食物が豊富なのか元々そういう体型なのか、どちらもお腹がぽっこりと丸く膨らんでいて、愛らしい見た目だった。たぶんつがいなのだろう、二羽は身体が触れ合うくらいに近くにいて、なんだかとても仲が良さそうに見えた。


 少しすると、毛づくろいをしている茶色の鳥の隣で、青い鳥が、僕たちの方に頭を向けた。なんとなく、目が合うというか、正面からじっと見すえられたような感じがした。


 そしてその直後、僕が無意識に身じろぎした時に、二羽の鳥は、素早くどこかへ飛びたっていった。


 それを機に、僕たちも再び歩き始めた。少し傾斜のある道を上ると、視界の開ける場所に出て、遠くに目指している施設の建物が見え始めた。山の中腹で、白いコンクリートの建物が陽射しを浴びている。

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