第2話

 ベンチに腰を下ろすと、急に足の疲労感を感じた。これだけ歩き回ったことは今までないんじゃないかと思うくらいに長い時間歩いて、思った以上に足が疲れていた。サッカーなどの激しい運動の後とはまた違う、重い疲労感だった。


 しばらく、僕たちは何も言葉を発しなかった。疲れているから、という理由だけではなかったはずだ。僕は――それからたぶん彼女も――、この一日の終わり、つまりは、僕たちがすぐ近くにいる時間の終わりに、黙ったまま、思いを向けていた。


 この公園の中には、秒針のない時計が一つある。三メートルほどの高さのポールの上に取りつけられた、シンプルな丸いデザインの時計だ。僕がそれを意識したとき、その針は午後五時二十分あたりを指していた。


 あたりは薄暗く、そして静かで、『この場所のこの時間は凍りついているのではないか』などという妙なことを思ってしまうくらいだった。僕はその時計を見上げたまま、その思いの通りに、時間がこのまま止まってくれることを願っていた。


 けれどもちろん、そんな願いが通じるわけはなく、しばらくして再び時計を見上げた時、その針が示す時刻は前に進んでいた。


 僕は、詰めていた息を吐き出した。すると、沢元が心持ち俯けていた顔を上げ、静かな声で、「疲れた?」と訊ねてきた。


「いや」と、僕は声を出し、首を振った。「大丈夫。沢元さんは?」


 彼女は苦笑を浮かべて言った。「ちょっと疲れたけど、私も平気。でも、結構歩いたね」


 うん、と僕も同じように笑った。


「この街をこんなに歩いたことなかったな」


「そうだね。ありがとう、一日付き合ってくれて」


「いや。――最後に、一緒に見て回れてよかったよ」と、僕は言った。


 この街の景色は、もう見飽きているはずのものだった。けれどこの日、彼女と歩いている間のそれは、普段とはどこか違っていた。いつも見ているものと同じものなのに、まるで初めて見るものみたいに、とても印象深かった。この日の、曖昧な薄曇りの街の景色を、僕はたぶん忘れることはないだろうと思った。


 僕の言葉のあとで、彼女は柔らかく笑った。それから、溜め息のような息を吐いた。


「なんだか、未だに実感ないなぁ。明日からはもうここにいないなんて。嘘みたい」


「僕も上手く想像できないな」


「――これから、どうなるんだろう」


 彼女は小さな声で、たぶん、僕に向けるでもなく、そう呟いた。そしてその声が消えると、再び、僕も彼女も黙り込んだ。また少し、辺りの闇が濃くなったような気がした。それまで見通せていた範囲がその闇によって狭まり、二人で並んで座っているこの空間を、ひどく狭く感じた。


 彼女が引っ越していったあとのことを、これまで何度も思い浮かべてきた。心の準備もしてきたつもりだった。しかし、今目前に迫った、別れの後の時間は、なにか捉えどころのない巨大な印象だけがあって、これまでの僕の想像や心の準備などほとんど役に立たなそうだった。これから具体的に僕たちがどうなるのか、どんな感情が襲いかかってくるのか、ほとんど現実的に予想することが出来なかった。


 しばらくして、「まぁ、考えても仕方ないか」と、彼女はこれまでよりも少しだけ明るい声音で言った。無理やりに、空気を変えようとしているような響きがあった。


 そして、僕の方に顔を向けた。街灯の光に照らされたその顔には、儚げな笑みが浮かんでいた。


「戻れるものなら戻りたいけれど、進んでいくしかないもんね」


「戻りたい?」と、僕は訊き返した。


 うん、と彼女は頷いた。


「あの、素敵な秋に。ここで待ち合わせてた夜に」と、彼女は言った。


 なにか言うべきことがあるような気がした。僕はそれを探した。けれど、具体的な言葉はなかなか思い浮かばなかった。見つけそうになっても、宙を舞う花びらのようにそれは僕の手をすり抜けていった。そうして幻のように消えていく。


 再び、時間が止まったような静けさが訪れた。


 彼女がこのベンチから立ち上がるまで、どれだけの時間があったのだろう。陽が沈んで急に寒くなってきていたし、それほど長い時間ではなかったはずだ。しかし、僕はその暗闇のなかでの時間を、とても長く感じた。


 僕と彼女は、いつの間にか、寄りかかり合うようにして身体を近づけていた。その温もりを肌で感じていた。女の子の身体にこれほど近く、そして長く接しているのは初めてだった。その感触は、僕の記憶に深く刻まれた。温かく柔らかで、けれど胸の奥のどこかに、ちくりとした痛みをもたらすものとして。


 言葉はなかったが、触れあっていると、彼女が感じている気持ちが伝わってきた。それはあるいは、僕が抱えている不安や寂しさといった感情が、彼女の体の感触から何らかの作用を受けて揺さぶられていただけなのかもしれない。けれど、それでも、その時の僕は、僕たちの心の中の何かが共鳴しているように感じていた。


 沈黙を破ったのは、彼女の声だった。


 さて、と彼女は言った。


「じゃあ、いくね」


 柔らかい笑みを浮かべながら言い、ベンチから立ち上がった。


 僕も腰を上げた。寒さの影響だったのか、身体が少し固くなっていて、ぎこちない動きになってしまった。


 公園を出て、歩き始める。ほどなくして彼女の家の前に着き、足を止める。


「ありがとう。ここで一旦、お別れだね」


 僕は頷いて言った。「また一ヶ月後に」


「うん。楽しみにしてる」


 そして、彼女は門の中に入っていき、玄関のドアの前で振り返った。


「青木君」


「なに?」


 問い返すと、言葉を探すような間があった。そしてその短い時間のあとで、彼女は少し照れくさそうに笑みを浮かべて、


「会えてよかった」と、一言だけ言った。


 僕は胸が詰まり、咄嗟に何か言葉を返すことはできなかった。ただ頷いて、彼女が翌朝には後にすることになる家に入っていく姿を見送ることしか出来なかった。


 そしてドアが閉じられた後で、僕も自宅への帰路についた。


 薄暗かった空は、彼女と別れて一人になった今、本格的な夜の色に変わっていた。ほの白く漂っていた雲もすっかり暗闇に飲まれ、深い奥行きを感じる暗さが、空を覆っていた。道路の遠くまでまっすぐに連なっている街灯の光の輝きを、やたらと強く感じた。


 奇妙な気分だった。一人家に向けて歩いている僕の胸の中では、温かい感情と冷たい不安がせめぎ合っていた。


 当然のことだけれど、僕たちは、自分たちが放り込まれていくこれからの時間について何も知らなかった。目の前に広がっている世界の未知の領域は大きく、ともすれば、その寒々とした不安に飲み込まれてしまいそうだった。


 しかし、僕の身体の半分、彼女と触れ合っていた部分には、先ほど間近で感じていた彼女の体温の感覚が、まだ残っていた。それが、僕の心を穏やかに温めてくれていた。


 彼女の言う通り前に進んでいくしかないこの世界で、僕はこの感覚を忘れずにいようと、暗く冷たい夜道を歩きながら思った。

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