後日譚2 夏、夢の街で

第1話

 夏の強い陽射しのなかを歩き、僕は自宅最寄りの駅に辿り着いた。


 八月も残すところあと二日だが、暑さは衰える気配もない。まだ朝の八時前だったけれど、空から降り注いでいる陽光は肌を焼くような熱を帯びている。


 ちょうど朝の通勤時と重なっている駅の中は、仕事に向かう人たちで混雑していた。人々の忙しない足音、それから電車のアナウンスの音声が、建物の外にまで漏れてきていた。駅前の通りから駅舎に吸い込まれるように歩いていく人たちの流れに混ざって進み、改札口を抜けてホームに出た。


 僕が乗る電車は、通勤客が殺到している上り方面ではなく下り方面なので、そこまで来れば、もみくちゃにされるような状況からは解放された。乗車口の前に出来ている列に並んでいる人も、せいぜい数人ずつというところだ。


 次の電車が来るまで、あと五分ほどだった。僕は近くにあった列の最後尾に並び、一息ついた。


 ここから、約二時間半。それくらいの時間で、彼女と待ち合わせ場所に決めた『中間の街』に着く。今年の元日、初詣に行った時に、二人で目途を立てた場所だ。


 そこで彼女に会うのは、春に別れてから、これで三度目になる。


 最初は、四月末のゴールデンウィークの時。二度目が夏休みに入った直後の七月二五日。だから、今回彼女に会うのは約ひと月ぶりということになる。


 前回会ってから、まだひと月しか経っていないが、会う間隔が短いという気はまったくしない。何かを心待ちにしている時間というのは何も意識せずに過ごしている時間よりもずいぶんと遅く進むものだということを、彼女と別れてから、嫌というほど思い知った。


 とくに一週間ほど前からは、常にどこかそわそわしているような落ち着かない気分だった。ずっとこの日の予定が頭から離れなかったというわけではなかったつもりだけれど、きっと頭のどこかで、彼女に会える日までもう少しだと意識し続けていたのだろう。


 ふいに駅の中の様々な騒音を覆いつくすようなけたたましさで、甲高い警報音が鳴り始めた。


 続いて、上り方面の電車が到着するというアナウンスが流れ、銀色の車体が夏の光を鋭く反射させながら、向かいのホームに入ってきた。電車は瞬く間にたくさんの人を飲み込み、そして大きな音を立てて出発していった。


 後には階段から走ってきたものの間に合わなかった何人かの人と、電車から降りて、すみやかに改札に向けて移動していく人たちだけが残された。


 前の電車に乗れなかったらしい若い女性がちょうど僕の正面で立ち止まった。彼女は不機嫌そうに顔をしかめていて、僕は思わず目を逸らした。


 僕は高校に進学してから電車通学になっていたので、普段は、今通り過ぎていった電車に乗って、高校に通っている。


 夏休みも今日を含めてあと二日だ。三日後にはまたあの混雑した電車に乗って通学する日々が始まる。それを思うと少し憂鬱になったが、しかし、もうすぐ彼女に会える、と考えれば、その思いはすぐに薄れて消えていった。


 ほどなくして、僕が乗り込む予定の電車も駅にやってきた。甲高いブレーキ音を響かせて電車が止まり、扉が開いた。車内の冷房で冷やされた空気が、ドアから流れ出てきた。


 前に並んでいた人たちに続いて、僕も電車に乗り込む。座席の大方は埋まっていたが、向かいのドア付近に空いているスペースがあった。僕はそこに立ち、窓の外を見ながら発車を待った。


 目的地の『中間の街』は、文字通り僕の街からも彼女の街からもほぼ等しい距離にあり、移動時間も大体同じだ。


 だからたぶん、彼女も今頃、移動を始めたころだろう。


 軽やかな発車メロディーが、駅に響いた。ドアが閉まり、それから数秒の後、ごとり、というような、重い物が動き始める音がし、徐々に電車が加速し始めた。


 僕の住んでいる街が、ゆっくりと窓の外を流れていく。僕は座席端の仕切り板に寄りかかりながら、その景色を眺めていた。


 流れている風景を見ていると、自分がどんどん彼女に近づいていることを感じる。再会に向かって、自分が確かに進んでいることを実感し、少しの緊張感と、胸が詰まるような、期待の感覚を覚える。


 春に沢元優美がこの街から去って五か月になる。再会するのはこれで三回目だ。彼女との新しい関係にも、別れてからの日常にもずいぶんと慣れてきているけれど、再会する前のこの感覚は、いつも変わらない。


 〇


 三月の末日、彼女は予定通り、この街から引っ越していった。


 当日は家族と共に車で新しい家に移動して行くということだったので、僕は見送りには行かなかった。けれど、高校入試が終わってからの約一ヶ月ほどの間、僕たちは頻繁に会い、これからの不足分を補っておこうとでもいうように、一緒に時間を過ごした。


 別れの前のその期間は、僕にとっては特別な時間になった。たったひと月の間だったけれど、とても密度の濃い記憶が残っている。


 その春は例年よりも寒暖差が激しい不安定な気候だった。少し汗ばむくらいの日もあったし、コートを着込んでも寒さに震えるような日もあった。


 僕たちは近場のショッピングセンターに行ったり、公園に行ったり、思い付きでほとんどひと気のない市の博物館に行ったりして、二人で時間を過ごした。


 その時間に僕たちは色々なことを話した。これまでの受験期間のことについて、中学を卒業することについて、高校生になるということについて、それからもちろん、これから僕たちが離れていくということについて。


 そんな日々の中でも一番印象に残っているのは、やはり、別れの前、最後に彼女に会った日のことだ。


 その日は薄曇りの日だった。雲に遮られた陽射しはぼんやりとしていたが、空気は妙に暖かで、どこか不快な感じだった。


 僕たちは朝から夕方まで、住んでいた街を歩き回った。彼女が、引越しの前に街を二人で見て回りたいと言ったのだ。


 いつものように彼女の家の近くの公園で待ち合わせて、昨年の秋に走ったランニングコースを歩いた。途中で僕たちが通っていた中学校にも寄った。ちょうど、サッカー部とソフトボール部が練習をしていたので、しばらくの間、学校の敷地を囲うフェンスの前で立ち止まって、自分たちが少し前までその場にいたグラウンドを眺めていた。


 何度か休憩を挟みながら、僕たちは住み慣れた街を歩き回り、やがて日が落ちてきた頃に、この日待ち合わせた公園まで戻っていった。


 公園に着いたのは午後五時過ぎだった。その頃には陽はずいぶんと長くなっており、日の入りの時刻まではまだ間があったけれど、薄曇りのこの日は、すでにかなり暗くなっていた。公園の中には一本の桜の木があり、ちょうど蕾をほころばせ始めていた。その花が街灯の光に照らされ、曖昧な薄暗い景色のなかで、その白色がくっきりと浮かび上がっているように見えた。

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