第3話

 僕たちは、帰りの駅に向かう道中に大きな公園を見つけた。どちらからともなくその入り口の前で足を止め、ここで少し散歩をしていこうと話した。


 公園には大きな池があり、その周囲に遊歩道があった。そこを並んで歩いていると、やがて、いくつかのベンチが置いてある所にさしかかった。僕たちは一番日当たりのいい場所を選んで、腰を下ろした。


 少し離れたところには池に続く浅い水路があり、数羽の鴨がそこで何かをついばむように、時折くちばしを水の中に突き入れていた。


 四阿あずまやの屋根から雪解け水が樋を通って流れ落ちていく音が、時折あたりに響いていた。まだ残っている雪や、歩道に出来ている水たまりが、所々で小さく、しかし鋭く陽光を反射させていた。


 しばらく、僕たちは正面にある池を黙ったまま眺めていた。中央に噴水の装置らしきものがあるが、今は動いていない。何匹かの鯉の背中が見えた。水面近くで、白や赤の色がゆったりと動いていた。


「青木君は、最近どんなふうに過ごしてるの?」


 ふいに、沢元がそう話しかけてきた。急には答えられなかったので、僕はここ一週間ほどの自分の生活を振りかえってから、言葉に変えた。


「受験勉強ばっかりだったな。出来るだけ、起きてる間は勉強してようと思ってたんだ。けど、少し疲れてきてて、しっかり集中出来てる時間はそれほど長くないと思う。こんなんで大丈夫なのかと思うよ」


「でも、毎日頑張ってるんだ」


「一応」と僕は頷いて答えた。「そっちは?」


 すると彼女は、少し苦い表情になって「実は、私も最近は、あんまり気が乗らないんだよね」と言った。


「珍しい」


 沢元は、自分のやるべきことを淡々とやっていくイメージだったので、僕はそう言った。彼女は苦笑しながら小さく首を横に振り、言葉を続けた。


「ちゃんと、計画通りにやってはいるんだけど。でも、なんだか、手ごたえがないの。私はどこに向かっているんだろうって思っちゃって」


「どういうこと?」


 そう問いかけると、彼女は少しの間、考え込むように首を傾げた。


「なんか、やる気になるための具体的なイメージが湧いてこないんだ。第一志望でも第二志望でも、どっちでもいいっていうか、それよりも、引っ越すのやだなぁって思っちゃって」


 彼女は少し先の地面に視線を向けたまま、話を続けた。


「去年の今くらいまでは、このあたりで成長していく自分の姿を、うっすらと思い描いてたんだ。少なくとも高校生のうちは、今の場所で生活していくんだろうって思ってた。はっきりと決めてたわけじゃないけど、受けたい高校もいくつかあったし。……なんて言えばいいんだろう、――そうなっているはずだった自分、みたいなものが、急になくなっちゃって、なんだか迷子になってるみたいな、落ち着かない感じなんだよね」


 水の流れる音がしていた。溶けた雪が地面を伝って水路へ落ち、池に向かって流れていく音だ。


 僕は彼女の気持ちを想像しようとした。この先どうなるかわからない状況にいるのは僕も同じなので、見通しが立たないことの不安は、なんとなく理解できる。でも、きっと彼女が言っているのはそういうことだけではないんだろう。僕はそれに対してどんな言葉をかければいいのかわからず、曖昧な相槌を打つことしか出来なかった。


 訪れた沈黙のなかで、僕は広い池の周囲に視線を向けた。そこには、すっかり葉を落とし、枝だけになっている木々が立ち並んでいる。池の水面近くに枝を垂らしているのは柳、それから、どっしりとした太い幹の木はたぶん桜だ。


 今はまだ寒々しい景色だけれど、きっと春になれば綺麗なんだろうなと思った。桜並木は薄ピンク色の花で満ち、今は白茶けている芝の地面も鮮やかな緑色に染まるのだろう。そしてふと、こうも思った。決して今から遠くはないその時には、僕たちを取り巻く様々なものも、大きく変化しているんだ、と。


 あとひと月もすれば公立高校の出願期間になり、それから二週間ほどで入試の日が訪れ、その十日後には、早くも合格発表の予定だった。たった三ヶ月ほどで、僕たちはもう中学を卒業し、そして高校生になっている。そのあとひと月、ふた月も経つ頃には、高校生としての生活にも慣れてきて、新しい友人も出来ているのだろう。


 なんだか、嘘みたいだった。


 自分たちが、大きな流れのなかにいることを感じた。この流れは、近い将来、僕と彼女を別々の場所へ運んでいく。


 ふと、今ここでこうして、ぽかぽかとした陽射しを浴びながら、彼女と並んで座っている時間の儚さを感じ、少しだけ怖くなった。


 その時、手に冷たい感触を覚えた。無意識に動かしていた手が、彼女の手に触れていた。そういえば、お参りのときに手袋を外したままにしていた。


 僕は上着のポケットに手を入れてカイロを握った。一分ほど、冷えていた指先を温めてから、彼女の手の上に重ねた。


 彼女がこちらを見たのがわかった。


 横からの視線を感じながら、「今日は、誘ってくれてありがとう」と僕は言った。「一緒にいられて嬉しかった」


 こういうことを改まって言うのはかなり恥ずかしかったけれど、今言っておいた方がいいことだという気がした。


「うん」と沢元は頷いた。その時は笑顔を浮かべていたが、その後すぐに笑顔は褪せ、うつむいてしまった。


 どうしたのだろうと思い、彼女に視線を向けた。彼女はその姿勢のまま、しばらくじっとしていた。僕たちが黙っている間、かすかな水音だけが聞こえていた。


 少しして、僕が重ねていた手の下で、彼女の手が動いた。その手はくるりと反転し、僕の手を軽く握った。


 僕が驚いていると、彼女は前方に視線を移し、遠い目をしてこう言った。


「本当に、こっちにいられたらよかったんだけどな。そしたら、今日みたいな日が、ずっと続いてたかもしれないのに」


 その声は、僕の胸に冷たく染みた。


 ――ずっと続いていたかもしれない今日みたいな日。


 僕も自然とそれを思い浮かべていた。同じ地域の高校に進学していた自分たちの姿を。違う学校に通っていても、時間を合わせて放課後に会うことは出来ただろう。帰り道の途中で、今のようにどこかに寄り道をすることもあっただろうし、いつかのように、試験前には一緒に勉強をしてもいい。高校生としての、十五歳から十八歳までの日々を、そうやって過ごしていくのだ。そうして少しずつ、一緒に成長していくのだ。


 それは強い憧れを抱かせるイメージだった。切なくなってくるまでに。けれどそれはもう叶わない。そうなっていたかもしれないけれど、そうはならなかった。そう思うと、僕も暗い気持ちになった。


 もし、これから先、僕たちの関係が離れていく一方だったとしたら。今の僕たちの間にある、この濃密な何かが薄れていき、徐々に消えていってしまったとしたら。


 もしそうなってしまったとしたら、僕の日常は、ひどく味気ないものになるような予感がした。彼女と別れた後の僕の日常が、彼女と仲良くなる前の状態に戻るだけだとは思えなかった。


 これまでも友達との別れは何度か経験した。好意を抱いた女の子と、親しくなる前に自然に離れていったこともあった。けれど、それらの場合と沢元とのことは、たぶん別だ。僕は彼女と仲良くなり始めたあの秋に感じた瑞々しい感覚を忘れない気がする。そして、彼女のことを思い出すたびに、自分たちが「そうなっていたかもしれない姿」を想像するような気がする。


 僕は小さく溜め息を吐いた。それから下を向いている彼女を見た。


「一つの季節に一回くらいは、会えるよ」と、僕は言った。


 気休めなのかもしれない。けれど僕は、これまでの冬の暗い夜に想像してきた、「こうなったらいいな」と願うようなイメージを話し始めた。そうすることによって、今、僕たちを覆っている不吉な想像を、少しでも追い払いたかった。


「会ったときには、離れてる間、どんなふうに暮らしてたのか、どんなことがあったのか、伝え合おう」


 僕は具体的な話を続けた。中間地点を待ち合わせ場所にすれば、負担を分け合える。移動にかける時間も減るから、一緒にいる時間も増える。でも時々は、彼女が住む街にも行ってみたい。


 僕がいろいろと喋っている間、彼女は僕の方を向いて、時折頷きながら、耳を傾けてくれた。僕が考えている通りにいくかどうかはわからないけれど、それでも僕は、僕が望んでいるこの先について、話し続けた。


 やがて、彼女も自分の考えを話してくれるようになった。それで僕たちは、二人でさらに細かな話に入っていった。待ち合わせ場所とそこまでの経路をスマートフォンで地図を表示しながら考え、移動にかかる時間や料金を調べた。そうして、待ち合わせ場所と、それほどお金をかけずに済む移動手段をいくつか見つけ出した。


「そういうふうになれるかな」と、彼女は言った。そして、柔らかな表情で、「そうだったらいいな。とても素敵」と続けた。


 僕はそれを聞いて、ほっと息を吐いた。安心し、胸の中が温かくなってくるような思いがした。一人で突っ走り過ぎたんじゃないかと、少しだけ心配だったのだ。


 僕が漠然と思い描いていた「この先のこと」は、彼女と二人で細部を突き詰めていった今では、よりはっきりと思い浮かべることが出来るようになっていた。


 そしてふと、『そこに向かえばいいんだ』と、僕は思った。


 きっと彼女もまた、そこに向かって日々を過ごしてくれるだろう。


 僕は再会の瞬間を想像した。それから、その日を待ちながら暮らしている日々のことも思い浮かべた。今となっては、僕はそれらを、近くで成長していく日々に負けないくらいに魅力的に感じることが出来るようになっていた。


 冷たい空気を深く吸った。少し熱を持っていた喉が冷えて心地よかった。陽射しは相変わらず遮られることなく、まっすぐに僕たちが座っているところまで降り注いでいる。


 そんな風にやっていけたら、と僕は思った。

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