第3話

 それからほどなくして、高校生としての新しい生活が慌ただしく始まった。


 僕はこれまで、大きな環境の変化をあまり経験してこなかった。中学校への進学の時は、同学年の大多数の生徒が同じ小学校の卒業生だったので、人間関係の変化はそれまでのクラス替えと大差なかった。だから、顔も名前も知らない人たちばかりの集団に放り込まれるというのは、これが初めての経験だった。


 真新しい制服を着て、慣れない道を通って学校へ向かい、馴染みのない人たちのなかに混じって授業を受ける。最初のひと月、僕はそういう新しい日常に、なんとか身体を馴染ませていこうとした。


 僕と沢元は、お互いの新しい生活について、チャットや通話アプリで伝え合った。彼女の引っ越し先の街の様子について、それから進学した高校のクラスにどんな人がいるか、学校の雰囲気はどんな感じか、等々……。


 不慣れな集団に混ざるというのは、何をするわけでなくても、だたそれだけで中々に疲れることだった。まだ部活も始まっていなかったけれど、放課後に一人で電車に乗って帰宅している時に、中学生の頃にはなかった疲労感と解放感を感じた。


 そして、大抵はそのくらいの時間に、僕たちはスマートフォンでのやり取りを再開し、夜眠るまで断続的にそれを続けた。画面に表示されていた彼女の言葉を読むことは、その時期、決して小さくはない心理的な支えになっていたような気がする。


 日々のやり取りを続けていくうちに、彼女が置かれている環境がどのようなものなのか、徐々に頭に思い浮かべることが出来るようになってきた。そしてその中で彼女がどのように振る舞っているかも想像出来るようになった。全く知らない土地に放り込まれた彼女は、僕よりもずっと大変な変化の中にいたはずだけれど、それでもあまり弱音は吐かなかった。


 僕はそのことに、励まされるような気持ち、――あるいは、負けていられないという気持ちを持った。僕も、僕の日常を、逃げ腰にではなく、きちんと生きていかなければいけない、と。


 その時期に、僕は昨年の秋に中断していたランニングを再開した。そもそも、今の高校を目指した大きな理由だったサッカー部の練習についていくために、入部前にある程度、身体を動かしておこうと思ったのだ。


 久しぶりにランニングウェアを着、冬の間に身体がずいぶんと鈍ってしまっていたことを感じながら、夜ごとに、昨年の秋と同じコースを一人で走った。


 そして、僕は予定していた通りにサッカー部に入った。全学年合わせて百人近い部員数がいて、平凡な公立高校としてはかなり大きな部活だった。顧問の他、学外からのコーチやOBも、週に何度か指導に来る。全国大会に出るような強豪校ほどではないが、恵まれた環境だった。


 部活の中にも、誰一人として知っている人間はいなかった。けれど、体験入部の期間中に、隣のクラスに所属している岡本という生徒と仲良くなった。


 岡本は身長が高く、ツーブロックの髪型をワックスやスプレーで整えており、見た目に気を使っているタイプの男だった。出身中学は違うが、僕と同じ市内に住んでいたので、僕たちの生活圏は重なっていた。それで何となくお互いに親近感を持ったのだろうと思う。自己紹介の後で、彼の方から声をかけてきてくれた。それで地元の話をして、すぐに打ち解けた。


「青木って、彼女いるんだって?」と、岡本はある日僕に言った。四月の下旬に入った頃のことだった。僕と岡本は、休憩時間に二人でグラウンドの隅に腰を下ろしていた。


「は?」


 僕と沢元のことを知らないはずの岡本にそんなことを言われて、ひどく怪訝に思い、すぐに言葉を返すことが出来なかった。


 僕が動揺する様子を見て取ったのだろう。岡本はニヤニヤしながら続けた。


「同じクラスの女子が言ってたんだけど」


 そう言われてすぐに、一人の女の子が思い浮かんだ。僕と沢元の共通の友人の、湯川亜美だ。彼女も僕と同じ高校に進学していて、岡本と同じクラスにいた。高校での数少ない知り合いなので、入学後も、何度か顔を合わせたときに立ち話をしていた。


 とにかく、まだ新しい環境に馴染んでいない時期にこういう話題で目立つようなことは避けたいと思って、僕は否定した。


「違うよ」


 そう言って首を横に振ると、「遠恋だって聞いたけど」と岡本は言った。僕は内心でため息をつき、頭を抱えた。これは、確実に湯川だ。もし問い詰められるようなことになったらボロが出るかもしれないと焦りながら、もう一度首を横に振った。


「だから違うんだって」


 すると岡本は、「お前も大変だな」と、演技がかった言い方で言った。


「はぁ?」


「いやわかるよ」


 そう言って、彼は冗談めかした感じで頷き始めた。


 その様子に、ああ、これは僕をからかいたいだけなんだな、と思った。噂の真偽を確かめたい、という気持ちはあまりなさそうだ。それで少し安心して、警戒心を解いた。


「わかるって、なにが」と僕は投げやりに訊ねた。


「俺も、小六から中一の頃にかけて遠恋してたから」


 思わず、彼の顔を見た。口元はにやついているが、整った眉の下の目は、なにかとても懐かしそうに、休憩中の今はまばらにしか人のいないグラウンドに向けられていた。


「小六って……」


 その年で、遠距離での恋愛なんて成立するのだろうかと思い、無意識に口にしてしまった。彼は『お前の言いたいことはわかってる』とでも言いたげに、僕を手で制して続けた。


「小六の冬に、同じ小学校に通ってた女の子に告ったら成功してさ。でもその子は、中学に入る前に都内に引っ越していって、半年も持たずに自然消滅したよ。中一の夏休みに、彼女が家族とこっちに戻ってきたときに一回だけ会ったんだけど、それっきり。俺、その時は自分用のスマホも持ってなかったから、直接連絡できなかったし」

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