後日譚1 その後の冬
第1話
待ち合わせ場所にしていた駅の入口に着いたのは、約束の十分前だった。辺りにひと気はなく、まだ彼女は来ていないようだった。
元日の午前五時五十分。まだ夜は明けておらず空は暗かった。空気が澄んでいて、いくつもの星が真っ黒な夜空のなかで冴え冴えとした冷たい光を放っていた。
僕は駅舎の壁に背中を預け、手袋をつけたままの手をダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。そして、暖かなカイロの袋を握りしめる。約一週間ぶりに彼女に会うことに対してどこか緊張しているのか、僕の吐く息には、いつもより少し熱がこもっているような気がした。それが冷たい空気のなかに、ふわりと白く浮かんだ。
まだ暗い中で彼女のことを待っていると、昨年の晩秋、あるいは初冬頃のことをふと思いだした。あの頃、僕たちは一緒にランニングをするために、夜、彼女の家の近くの公園で待ち合わせていた。
あれからひと月が経った。季節は着実に進み、すっかり冬が深まっている。三日前には雪が降り、数センチほど積もった。降雪直後は街の景色が真っ白に染まっていたけれど、もうすでに人や車が通る道の雪は大方溶けている。今は、建物の屋根や庭に積もった雪、それから除雪されて道路脇に集められた雪が残っているくらいだ。
駅構内の照明と、ロータリーにいくつかある街灯の明かりは灯っているが、周囲の建物の窓はまだ真っ暗で、車の姿もない。日が上る前のこの時間では、さすがにまだ人々の生活は始まっていないようだった。僕にしても、元旦からこんなに早起きをしたのは始めてだった。
きっかけは、二日前のことだった。彼女から、こんな連絡があったのだ。
『元日の予定は空いていますか? 青木君がよかったら、一緒に初詣に行きたいなと思って』
季節が冬になってからも、彼女との交流は続いていた。初めは、はっきりとした好意を自覚した女の子と言葉を交わすことに緊張や恥ずかしさを感じていたけれど、彼女の友達の湯川亜美を交えた三人で会話をしたり、メッセージアプリでちょっとしたやり取りをしているうちに、次第にそのようなぎこちない感情も薄れていった。
一度、休日に二人で出掛けた時に小さな問題があったのだけれど、それを別にすれば、このひと月ほどの間、僕たちの関係は順調だった。
彼女と会うのは、クリスマスイブと重なった終業式の日以来だ。はっきりとそう決めたわけではなかったけれど、受験前の冬休みということもあって、ここ最近、僕たちの連絡の頻度は少なくなっていた。
僕は冬休みに入ってから連日机に向かっていた。試験まで間もないのだから休んでいる場合ではないという義務感と焦りの混ざった、息が詰まるような気持ちがずっと続いていて、少し疲れてきていたところだった。そんな中で、ふいにもらえたこの誘いに、僕の気持ちは少し楽になった。久しぶりに楽に息ができ、新鮮な空気が身体に生き渡ったような感じがした。
僕は肯定の返事をすぐに送り、それから、二人で待ち合わせの予定を決めた。
〇
ふと、微かな足音と人の気配を感じた。フード付きの上着の襟に首と顎を埋めていた僕は、顔を上げて、通りの先に目を向けた。
沢元がこちらに向かって歩いている姿がそこにあった。濃いグレーのロングスカートに白色のコートを着、茶色のショルダーポーチをかけている。全体的に落ち着いた雰囲気だけれど、コートはもこもことしていて、暖かそうな服装だった。
向こうも僕に気づいたのだろう、彼女は歩調を速めて僕のそばに来た。
「もう来てたんだ。ごめんね、寒いなか待たせちゃって」
そう言って、小さく息を弾ませる。僕は首を横に振り、「大丈夫。俺もついさっき着いたところ」と言った。
彼女は息を整えた後で、背筋をすっと伸ばした。白いコートと、光沢のある髪が、駅構内から漏れてきている光を受けて、暗闇のなかではっきりと浮かび上がるように見えた。
沢元は、少し照れたような咳ばらいをしてから、こう言った。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
そういえば、その挨拶をするべきタイミングだった。僕も同じように新年の挨拶を返した。彼女はにこにこしながら頷き、その後、僕たちはがらんとした駅の中に入っていった。
どうしてこんなに早い時間に待ち合わせたのかというと、出来るだけ近所の人たち、特に同じ中学の同級生に、二人きりでいる姿を見られたくないからだった。
今の僕たちは、おそらくは「付き合っている」とみなされる状態になるのだろうけれど、そのことを周囲に知られたくないと、二人とも思っていた。特に実害があるわけではないのかもしれないし、そもそも今の中学に通う時間は、あとたったの三ヶ月しかないわけだけれど、それでも、僕たちのことが噂になったりするのは避けたかった。
二学期の期末テスト前、二人で図書館に行ったときに――これが例の問題なのだが――、同じクラスの女子と偶然鉢合わせてしまい、その場を取り繕うことに苦労した。休憩所の自動販売機で買った飲み物を飲んでいたところだった僕たちは、ものすごく興味深そうな目で僕と沢元を見ていたその子に、僕たちは別々に来て、偶然一緒になっただけだと、覚束ない説明をした。
その場では、彼女は「そうなんだね」と言って納得するような素振りをしていたけれど、本当のところがどうだったのかはわからない。その時に、学校の外で一緒にいる時はもっと気をつけるようにしよう、と僕たちは確認しあった。
だから今日は、夜明け前の早朝に出かけ、電車に乗って隣町の神社まで行くことにした。僕たちが住んでいる街で初詣に行くよりも、知り合いに見つかる可能性は減るだろうという考えだった。
どこの神社に行くかは、彼女がいろいろと調べて決めてくれた。電車を使って行きやすい場所で、かつ、そこで祀られている神様には学業成就のご利益もあるらしい。今の僕たちにはぴったりだった。
改札口は二階にあるため、僕たちはエスカレーターに乗った。二階には大きな窓があり、そこを通りかかるときに彼女が何かを見つけたように、その窓辺に近寄った。
「どうしたの?」と声をかけると、「空、明るくなってきてるね」と、こちらを見て言う。
僕も窓の外を見た。何度も来ている最寄り駅なので、そこからの景色は見慣れたものだったけれど、しんとした静けさのなかでは普段よりも妙に広く感じた。その上空、東の方に薄青さが兆し、雲も、ほんのりと淡い赤色に染まり始めていた。朝の色と気配が、夜空に滲むように広がりつつあった。
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