第8話
結局、その日が僕と彼女が一緒にトレーニングをする最後の日になった。土日を挟んで週が明け、その週の火曜日が、市内の駅伝大会の日だった。
選手は朝から市の運動公園に集まり、教育委員会だか市議会議員だかの偉い人たちが短い挨拶をし、その後、競技が始められた。
男子は一周二キロの運動公園内のランニングコースを途中まで走り、それから近くの河川敷に出、その後折り返して公園戻ってくる、というコースで合計三キロを走る。女子は運動公園内のランニングコースを一周だけ走る。
参加する学校は十校ある。区間は男女とも六区まであり、それぞれの学校から二チームが出場する。僕たちの学校では、練習のときに計測したタイムによって、AチームとBチームの二つに分けられた。そのチーム内で何区を走るかは、この駅伝のチームを指導していた体育教師が決めた。
沢元は女子のAチームのニ区を走り、僕は男子のAチームの五区を走ることになった。
スタートは女子のほうが先だった。僕は、公園のなかでストレッチやアップをしながら、遠目に女子の選手たちがランニングウェアを着て走り出すのを見ていた。
コースの様々なところで、教師たちや、駅伝のメンバーに選ばれたものの走者からは漏れた生徒たちが、前を走っていく選手たちに声援を送っている。
やがて、二区の選手がコースに出て、タスキを受け取る準備を始めた。沢元の姿もそこにあった。走り出すところを見て行こうと思ったが、ちょうどそのタイミングで、男子の競技が始まる時間になった。僕は他のメンバーに促され、女子とは少し離れた男子のスタート地点の近くに移動し、一区の選手が走り出すところを見守った。
その後、僕は再び空きスペースで準備を続け、出番が近づいてきた頃にスタート地点に戻った。周囲にいた同じ学校の生徒や体育教師から掛けられた「頑張れよ」というような声に頷きつつ、スタートラインに立ち、コースを走り切って戻って来た二年生からタスキを受け取り、走り始めた。
僕が走り出した時点で、僕たちのチームは全部で六校が出場しているうちの三位にいて、ほとんど並走している一位と二位の背中が見える位置にいた。百メートルほど先といったところだっただろうか。
走り始めてすぐ、調子のよさを感じた。身体は軽く、気持ちも安定している。前の二人の背中に追いつけそうな気がした。僕は、自分の限界のペースまで上げて走ることにした。ひどく寒い日だったけれど、すぐに汗が流れ始めた。
やがて公園内のコースの終わりが見えてきた。公園の外に出ていくところで、沢元が湯川と一緒に、うちの学校のジャージを着て、コースのすぐそばに立っているのを見つけた。二人とももうすでに出番を終えているらしい。
「がんばれー」と、湯川が明るい声で僕に声をかけた。沢元も、握った手を小さく上げて、同じように声援を送ってくれた。視線を向けると、彼女と目が合った。
僕は二人に小さく頷いたあと、すぐに視線を前に戻し、今までもう一段ペースを上げて、そこを走りすぎた。
〇
結果として、僕は前を走る二人を、あと十メートルほどのところまで追い上げることが出来た。最後の六区において、この学校で一番長距離走が速い元陸上部の三年生が一位と二位を抜いて、僕たちの学校が優勝することになった。
体育教師は喜んでいたが、特にこの大会で優勝したからといって僕たちに何か良い事があるわけではない上に、寄せ集めのチームでみんなそれほど親しいというわけでもなかったので、選手たちはゴールの瞬間に少し盛り上がっただけだった。ちなみに、沢元が走ったチームは女子の四位で、彼女自身は区間のなかでは二番目となるタイムを記録していたらしい。
大会自体は午前中で終わり、昼休みの時間には学校に戻った。指導していた体育教師が短く総括の挨拶をし、それで解散になった。
駅伝のメンバーはこの日、公欠扱いになっているので、午後の授業には出なくてもいいということだった。これが駅伝大会に出たことの最大の特典と言えば、特典になるのかもしれない。
僕たちは体育館に荷物を持ち込んでいたので、そのまま、騒がしい昼休みの学校を抜けて、家に帰っていくことになる。
大会の最中には晴れ渡っていたけれど、僕たちが帰宅する時には空には分厚い灰色の雲が立ち込めていた。たしか天気予報では、夜から雨が降ると言っていた。
僕たちは学校指定のジャージのまま、体育館から昇降口に向かっていった。僕はリュックを背負い、近くにいた面識のある三年の男子と一緒に歩いていた。僕たちの少し前に、沢元と湯川の二人が歩いていた。にこにこしながら湯川が何かを沢元に話しかけ、沢元は頷いたり、短く言葉を返したりしていた。
蛍光灯の明かりが灯った昇降口に着く。下駄箱はクラスごとに指定されているので、自然、かたまりになって歩いていた僕たちの集団は、クラスごとにばらけた。僕もそれまで一緒に歩いていた男子と別れて、自分の下駄箱に向かった。
白々とした明かりに照らされた昇降口から見る曇り空の屋外は、ずいぶん薄暗く見えた。少し凹んだ金属製の下駄箱の扉を開いて、上履きをしまう。僕の近くで、湯川と沢元が、スニーカーを履いていた。
「青木君、お疲れー」と湯川が声を掛けてきた。
「お疲れ」と僕も声を返した。僕たちはそのままの流れで三人一緒に昇降口を出て、帰り道を歩き始めた。
「今日、寒いね。マフラーとか持ってくればよかった」
校門の外に出たとき、湯川が首をすくめながら言った。
「今夜は、十一月で一番寒くなるらしいよ」と、沢元も寒そうにジャージの袖を指先まで伸ばした。
「てか、もうすぐ十二月になるもんね。期末の勉強も始めなきゃ」
だるー、と湯川が言うと、沢元が苦笑しながら「頑張って」と言った。
「そういえば、青木君って成績いいの?」
湯川が、ふと思いついた、という感じで僕に話を振ってきた。
「普通。でも、数学はちょっと勉強しないとまずいかも。よくわかってないところがあるから」
「優美に教えてもらえば?」
それまで黙って歩いていた沢元がぱっと顔を上げた。そんな彼女をちらりと見て、湯川はにやにやと笑った。
「図書館とか、カフェとか、休みの日に一緒に行って、勉強したりするの、いいんじゃないの。私も何回か優美に勉強教えてもらったけど、教え方上手いし、捗るよー」
沢元は困ったように僕と湯川を交互に見て、それから下を向いた。
やがて十字路に差しかかると、湯川と沢元が立ち止まった。僕が二人を見ると、湯川が手で右の方向を示して言った。
「わたしの家、こっちだから。じゃあ二人とも、またねー」
含み笑いのようなものを浮かべながら彼女はそう言って、手を振りながら右に曲がっていった。リュックを背負って、てくてくと歩きながら遠ざかっていく姿を、僕と沢元は突っ立ったまま見送っていた。
近くには、駅伝のメンバーだったと思しき後輩の女子(ジャージの色で二年生だとわかる)が二人歩いているだけだった。
「……行こうか」
僕が言うと、沢元が頷いた。僕たちは二人で歩き出した。昼の住宅街には、夜とはまた違った静けさがあった。空は相変わらず灰色のままだ。時間の流れを感じなくなるような空だった。
「疲れたね」
沢元が、小さなため息のような息を吐いたあとに言った。
「そんなに長い距離を走ったわけじゃないけど、やっぱりいつもと違う場所でいつもと違うことすると、疲れるよね」
「そうだね」と僕も言った。
「青木君は、帰ったら何するの?」
「とりあえずシャワー浴びてゆっくり寝て、夕方くらいからは期末の勉強かなぁ。沢元さんは?」
「わたしもそんな感じ」
彼女は短く言った。昼を過ぎたものの、気温はあまり上がらず、空気はとても冷たかった。底冷えがし、まだ十一月だとは思えないほどだ。手は冷えて、指先がかじかんでいた。
冷たく強い風が吹き、彼女が首をすくませた。
僕たちは寒さに耐えるようにゆっくりと歩いていた。やはりこの時間帯のひとけは少ない。沢元と二人で歩き出してからは、厚着をした年輩の女性一人、それからバス一台とすれ違っただけだった。近くを歩いていた後輩の女の子たちの姿も、いつの間にか消えていた。
僕たちはそれ以降、言葉を交わさなかった。ただ二人分のスニーカーの足音だけが、陽のささない、灰色に染まった街に響き続けていた。
やがて彼女の家の近くに着いた。彼女は僕の方を向いて立ち止まった。それから、少しの間のあとで、今までありがとう、とぽつりと言った。
「一緒に走ったり、買い物行ったり。楽しかった」
僕も彼女も、立ち止まったまま動かなかった。一向に陽が射す気配はせず、まるで夕暮れ時のような薄暗さだった。
僕は頷いた。彼女と二人で過ごしていた時間が頭のなかに浮かび、それがもうこれで終わるのだと思うと、寂しさを感じた。正面に立っている彼女の姿を見ていると、その気持ちはさらに強まった。
「俺も楽しかったよ。いろいろありがとう」
僕がそう言うと、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「そうだったら、私も嬉しい」
そして、彼女はこう続けた。
「一緒に走ることはもうないかもしれないけど。また、何かあったら連絡してもいい?」
僕は頷いた。
「俺も、勉強のこととかで、何か聞きたいことが出来るかもしれないし。また、何かあったら連絡するよ」
うん、と沢元は、この数週間、僕が見た中で一番嬉しそうな表情で頷いた。それから、彼女は一歩後ろに下がった。距離が空き、それで、いままで僕たちはとても近い距離で向かい合っていたことに気づいた。
「また明日、学校でね」
そう言って、彼女は小さく手を振った。手を振っている姿が、夏休みの前の日に見たときの彼女の姿と重なった。けれど、今の彼女の表情には、あの時にはなかった親しみのようなものが籠っているような気がした。
僕は頷いて、曇り空の下の道を、一人で家に向かって歩き出した。指先には、まだ先ほど触れた沢元の手の感触が残っていた。
この二週間ほどで気温は急に下がり、木々についていた葉ももうかなり少なくなっていた。空は相変わらず厚い雲に覆われている。
小さく息を吐いた。灰色の街のなかに浮かび上がったその白い息は、すぐに消えていった。
家に帰ったあと、僕はシャワーを浴びて汗を流し、温かい服に着替えて、パーカーを上に羽織った。両親は仕事に行っているから、家のなかは静かだった。部屋に入ってカーテンを閉めたら、曇り空の日の明かりはほとんど遮られ、まるで夜のように暗くなった。
しんとした冷たい空気のなかでベッドに入って、目を閉じた。すぐに疲労感と気怠さが意識を飲み込み、僕は眠りに落ちた。
目を覚ましたとき、部屋の中の闇は一段と濃くなっていた。
僕は布団から出て立ち上がった。途端に、ひどく冷たい空気に包まれて、鳥肌が立った。暖房が必要な寒さだった。僕は首をすくめ、パーカーのフードの部分を少し持ち上げ、首元を温めるようにした。
それからふと、部屋のなかの暗さに反して、カーテンの向こうが妙に明るいような気がすることに気がついた。なんとなく僕は窓辺に近寄ってカーテンを開いた。
細かな雪が舞っていた。薄く白い雪が、無数の羽根のように舞い落ちてきていた。積もって残りそうなほどではない。けれど、人通りのない道路や周囲の家々の屋根は、すでにうっすらと白色に染り始めていた。その白さがあたりの光を反射していて、いつもよりも街が明るく見えていた。
いつの間にか季節は変わっていたのだと、窓の外を見ながら思った。そして僕は、無意識のうちに沢元のことを思い浮かべていた。例の一学期の終業式の日、手を振ってきた彼女の姿や、この数週間、一緒に過ごした彼女の姿が、断続的に脳裏をよぎっていった。
『そういうのって、あるよね』と、秋と冬の境目についての話をした日、彼女は言った。
『いつが始まりか、わからないことって』
たしかに、と僕は思った。
僕も、この秋の間に、いつの間にか彼女のことが好きになっていたみたいだ。
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