第7話

 会計を済ませたあと、僕たちは再び肌寒い屋外へ出た。店内の空気が暖かかったからか、店に入る前よりも寒く感じた。


「もうそろそろ冬だね」


 光に満ちたスーパーの駐車場から出て薄暗い通りに入ると、彼女は独り言のように言った。言葉と共に吐き出された彼女の息が、白く浮かんですぐに消えた。


 僕は頷き、それから言った。


「秋と冬の境目って、どこにあると思う?」


「え?」


 僕が言った言葉に、彼女は首を傾げた。それから少し考えたあとで、「そうだなぁ。立冬の日とか?」と言った。「青木君は知ってるの?」


「いや。言葉の上では、もしかしたら何か決まりがあるのかもしれないけど、僕も知らない。でも、なんとなく、秋と冬の境目って、他の季節の変化に比べて曖昧な気がしてたんだ。だから、沢元さんにもちょっと聞いてみたくなって」


「境目が曖昧?」と、興味を引かれたように、彼女は僕のほうを見て聞き返した。


 うん、と僕は頷いた。


「他の季節の変わり目は、その境界をはっきり感じられる瞬間があるんだ。例えば、春は、桜が咲いた時。夏は、梅雨が明けた日とか、蝉が鳴き出した時とか。秋は、長袖を着始めときとか。だけど、秋から冬の場合は、なかなかそういうはっきりとした瞬間が思いつかなくて」


 沢元は黙って僕の話を聞いていた。けれど、うまく言いたいことを伝えられているかどうかはわからなかった。妙な話を始めてしまったな思いながらも、僕は言いたいことを頭の中で整理しながら、ゆっくり言葉を選んだ。


「なんていうか、冬って、いつの間にかなってる感じなんだ。地域によっても違うと思うけど、この辺りだと、一月に入るまでは滅多に雪も降らないし」


「なるほど」


 沢元は、少し考え込むようにして頷いてから言った。


「なんとなく、言いたいことわかると思う」


 僕はふと空を見上げた。夜空は真っ暗に澄んでいた。ぽつぽつと浮かんでいる星の瞬きまでもがはっきりと見える。僕たちの吐く息は白く、風はとても冷たい。秋の虫の声は、もうほとんど聞こえない。でも、まだ冬とも呼びづらい。曖昧な季節だ。


 僕たちが歩いている通りは高台になっていて、建物があまりないところからは、街が遠くまで見通せた。距離が遠くなってくるにつれて街の光は密集してき、まるで一つの大きな光のかたまりのように見えた。


「そういうのって、あるよね」


 ぽつりと、沢元が言った。隣を歩く彼女に視線を向けると、彼女は同じように、独り言のような口調で続けた。


「いつが始まりか、わからないことって。わたしも、そうだった」


「何が?」と僕は怪訝に思い、彼女の方を見て尋ねた。


「青木君のことに興味を持ちはじめたの。何月何日だって、思い出せない。毎日日記を書いてるけど、たぶんそれを読み返してもわからないと思う。……いつの間にかだった」


 それを聞いて、身体が熱を持った感覚があった。まるで走った後のような、強い動悸も感じた。


 しばらく沈黙が続いた。道を曲がり、たくさんの家々が並ぶ通りに入った。同じような家が並び、白い街灯がいくつも立ち、無秩序に電線が夜空を区切っている。白々と灯っている街灯の真下に差しかかったとき、ふと彼女がこう切り出した。


「青木君は、一学期の終業式の日のこと、覚えてる?」と言った。


 一学期の終わり頃。その言葉を聞いて、終業式の日に手を振っていた彼女の姿が脳裏に過った。


 僕は、たぶん沢元はを言っているのだろうと思い、頷いた。


「俺の近くにいた人に振ってたのかと思ったんだけど、確かに俺と目が合ってたから。……その、なんだったんだろう、とは思ってた」


 僕たちの歩みは次第に遅くなっていた。けれど、遅くなっているのは僕たちの歩みではなくて、この夜の時間の流れ方そのものの方であるような、不思議な感覚がした。


「あれも、この前、一緒に走っていいか聞いたときと同じなの。後先考えずにやっちゃってた」


 そう彼女は言って、立ち止まった。


 僕も立ち止まり、彼女の方に視線を向けた。街灯の白い光に照らされている彼女の横顔が、少し赤くなっているような気がした。


「あの日、これから一か月以上も会えないんだって思ったら、知らないうちに、手が動いちゃって……。家帰ってから、変なことしちゃったって、夏休みの間中、ずっと気にしてた。あの時、青木君は、どんなふうに思った?」


 彼女はひどく心配そうな表情をしていた。


「あの時は……。まだ沢元さんと、ほとんど話したことなかったから、誰か他の人に手を振ったんだと思ってた」と、僕は正直に言った。


「そっか」と、一言だけ言い、彼女は、安堵したようでもあり、寂しそうでもある表情を浮かべた。


 その彼女に、僕はこう続けた。「今だったら、俺も手を振り返すと思うけど」


「本当?」と、彼女は言った。僕は頷いた。


 風が吹いた。火照っていた顔にその風はひどく冷たく感じた。僕たちはしばらく黙ったまま、向かい合って立っていた。僕は、彼女に対して何かを言うべきだったと思った。けれど、なかなか言葉が出て来なかった。


「行こうか」


 ふいに彼女が言った。顔を上げると、それまでの空気を換えようとするかのような、明るい笑みを浮かべていた。


 反射的に僕は頷いた。もうすぐそこにあった彼女の家の前まで歩くと、いつもように別れの言葉を交わして、彼女は家のなかに入っていった。僕はひとり、夜の道の上に残された。ひとりになっても、彼女と交わしていた言葉の余韻が、ずっと胸を打つように響き続けていた。

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