第6話

 その日の夜、僕たちは数日ぶりに一緒にトレーニングをすることになった。


 そろそろ本番が近づいてきていたので、このあたりで一度、限界近くまで負荷をかけようと思っていた。なので、いつもように彼女と一緒に走った後、僕はひとりで追加の三キロを、自分のベストに近いペースで走った。


 走り終わったあと、僕は沢元が座って待っていたベンチに戻り、走る前に買ったスポーツドリンクを手に取って、一気に三分の一ほど飲んだ。


「お疲れ」と彼女は僕に声をかけてくれた。僕は頷き、大きく息を吐いた。彼女は僕が走っている間に一度家に戻っていたようで、今は自動販売機で買ったらしいコーンポタージュの缶を、手のひらを温めるように両手で持っていた。


 この夜もかなり冷えていて、汗はすぐに引いた。呼吸が落ち着くと、身体には運動した後の、リラックスした感覚が訪れてきた。そのタイミング、沢元がこう切り出してきた。


「ねえ、青木君、今日の学校でのことなんだけど……」


 放課後の湯川との会話を思い出す。

 ランニングを始める時にはこの話にならなかったので、もしかしたらこの問い詰められずに済むかもしれないと思っていたけれど、やはり覚えていたのか。

困ったな……、と思ったそのとき、どこからか小さな振動音が聞こえてきた。沢元が身じろぎして、ポケットからスマートフォンを手に取った。


「どうしたの?」


「親からのライン。外出てるならスーパーで買い物してきてって頼まれちゃった」


 返事でも書き込んだのだろう、ささっとスマートフォンを操作して、再びポケットにしまった。それから僕を見て、こう言った。


「青木君も一緒に行かない?」


 〇


 時刻は、八時を少し過ぎた頃だった。歩き始めてからすぐ、沢元が前を向いたまま言った。


「今日、亜実と何を話してたの?」


「亜実?」


「湯川亜美。放課後、二人で話してたじゃない」


「あー……。うん」


 僕が言葉を濁していると、「私に関わること?」と、彼女は訊ねてきた。


 どうやら逃げることは出来なそうだ、と思い「そう、だね」と僕は歯切れ悪く言いながら肯いた。すると彼女はこちらに振り向き、僕の腕を取って軽く揺さぶった。


「ねぇ、何か変なこと言われなかった?」


 身振りは大げさな感じだったけど、しかしふざけているわけではなくて、本当に心配しているような感じで、なかなか手を放してくれなさそうだった。彼女の手のひらの温度が、服越しに伝わってくる。真っすぐに僕を見てくる目と、まともに目が合ってしまった。


 僕は、放課後の教室での湯川とのやり取りをうまく説明するための言葉を探していた。けれど、彼女に見つめられているとひどく恥ずかしくなってしまって、きちんと頭が働かなかった。


「ねぇ」


 沢元が僕の腕をとったまま、ゆさゆさと揺さぶる。


 そして、まるで逆さにして揺さぶられたポケットから小銭か何かが出てくるみたいにして、端的な説明の言葉が出てきた。


「席替えのとき、班長が班員とその席を選べたんだって話」


 彼女はまだ僕の腕を持ったままだった。しかしだんだん位置がずれてきて、今では僕の手首のあたりを握っている。


 湯川との会話の内容を話した途端に彼女は固まってしまって、なかなか動きださない。僕は無言の沢元に、ずっと手首を握られていた。


「あの、沢元さん、手……」


 僕が視線を手に向けていうと、彼女も、そちらに視線を向け、我に返ったように、ぱっと手を放した。街灯の白い光に照らされた彼女の頬や耳はいつもよりも赤くなっているような気がした。


 しばらくすると、彼女は再び僕を下から見上げるようにして言った。


「他には、何か言ってた?」


「……俺と沢元さんが仲良くなれたみたいで良かったとかなんとか……」


 その他にも、まだいろいろ言われたような気がするけれど、恥ずかしくてうまくそれらを口に出せなかった。沢元の方も、また固まってしまっていた。会話がぴたりと途切れた。どこかの草むらから、近頃はだいぶ静かになってきていた秋の虫の音が聞こえた。


 〇


 彼女は何も言わずに歩いている。僕も何も話しかけず、ただ、彼女の歩調に合わせて住宅街の通りを歩き続けた。


 目的のスーパーの建物の光が、次第に近づいてくる。


 僕たちはその敷地内に入り、駐車場を通っていった。店内の照明の明かりだけではなく看板や車の光も様々な方角から僕たちを照らしていて、僕たちの周りにはいくつもの方向へ向かって、重なり合うような影が伸びていた。


 自動ドアを通って中に入る。店内はややオレンジ色がかった照明で照らされ、のんびりとしたBGMが流れていた。


 自動ドアのそばで、沢元が気まずそうに咳ばらいをし、それから「買い物、すぐに済ませるね」と言って、買い物かごを持ち、てくてくと歩き始めた。


 野菜売り場を通り、肉や魚のコーナーを通り、大量の飲み物が並んだ冷蔵庫の前で彼女は立ち止まって、牛乳を選び始めた。


 牛乳のすぐそばには、紅茶やカフェオレなどの飲み物も置かれていた。そこに、この間彼女からもらったレモンティーのパックがそこにあることに気がついた。それを見た瞬間、数日前、彼女が引っ越していく街のことを調べながら飲んでいたときの味が、ふと口のなかに広がった気がした。


「この間、ありがとう」


 と、僕は言った。沢元は牛乳パックに書かれた賞味期限を確認しているところだった。


 彼女はぱっと僕の方に振り向いて、首を傾げた。顔の周りの髪の毛がさらりと揺れた。


「これ、飲んだよ」


 レモンティーを指さしながら言った。すると、彼女も僕の視線を辿った。そしてその直後、彼女の顔にふわっと笑みが広がったような気がした。


「美味しかった」


 僕が言うと、


「ほんと?」と彼女は嬉しそうに言った。


 うん、と僕は頷いた。


「そっか。よかった」


 彼女は手に取っていた牛乳をカゴに入れながらつぶやくように言った。


 それを境に、ここまで歩いてくるまでの間、僕たちを包んでいた恥ずかしいような気まずいような、微妙な空気が少し変わったように感じた。僕たちは学校でのことなど、他愛ない会話をしながら買い物を続けた。店のフローリングの床はよく磨かれていて、天井からの光を反射させている。人影はまばらで、レジもすいている。レジの前に立っている店員の人も、どこか暇そうな雰囲気をまとっていた。店内の空気は暖かくて、ほっとするような、心や身体が、弛緩していくような空気が漂っていた。


その雰囲気に、僕は以前に彼女が夜のスーパーで買い物をしている時間を『優しい感じの時間なんだ』と表現していたことを思い出した。

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