第5話
その夜から、僕たちはお互いの都合が合う日に待ち合わせをして一緒に走るようになった。
学校でも、以前よりも言葉を交わすことが多くなった。日を経るごとに、僕たちの間の距離感は徐々に近づいていった。
一週間が過ぎるころには、当初沢元と走っているときに感じていた違和感もかなり薄れていた。そして彼女の本当の性格も、だんだんとわかるようになってきていた。
学校での彼女は大人しく真面目で、堅い印象が強かった。しかし、仲良くなってみると、彼女は自分からもよく話をするし、意外と表情も豊かだった。
この日、三キロを走り終えたあといつものように待ち合わせ場所の公園に戻って、なんとなくベンチに座りながら、そんなことを考えていた。
「どうしたの?」
ふと、横で沢元が言った。不思議そうな表情を浮かべている。僕は横に首を振って答えた。
「いや、学校にいるときと、沢元さん、印象違うなって思って」
「ほんと? どんな風に?」
僕は考え、言葉を選んで言った。「学校にいるときは、なんというか……真面目そうな感じだったから」
「そう見えた?」と彼女はなんだか不安そうな声音で言った。僕が頷くと、「今は、どう思ってるの?」と質問を重ねてきた。
「思ってたよりずっと話しやすい人だった」
そう答えると、彼女から不安そうな雰囲気が消え、急にニコニコとした表情を浮かべ始めた。しかし言葉はなく、そのまま黙っていた。
「どうしたの?」と僕が訊くと、「なんでもないよ」と彼女はその表情のまま言った。
この日は雲がなく、暗い夜空に星の光がはっきりと見えた。空気は寒さを感じるほどに冷えていた。大きく息を吐くと、その息が白く浮かんだ。
冬が近いな、と思った。
あるいはもう冬になっているのかもしれない。登下校中にマフラーをしてくる生徒も見かけるようになったし、テレビやネットのCMには、クリスマスイベントのものも混ざり始めていた。気候に特色のない東京郊外のこの街では、秋と冬の境目はあまりはっきりしない。
「そういえば、沢元さんはどこの高校受けるの?」
僕はふと思いついて、そんな話題を出した。すると、それまでは明るかった彼女の表情が、すっと引き締まったような気がした。そして、少しの沈黙のあと、沢元は全く聞き覚えのない学校の名前を告げた。
「どこの高校?」
怪訝に思って聞くと、「長野」と短く彼女は答えた。
すぐには反応を返せなかった。しかし、それほど長くない間のあとで、
「引っ越すの?」
と僕は訊ねた。彼女は頷いた。
「うん。中学卒業したら。家の事情、ていうか、お父さんの転勤で」
「そうなんだ」
沈黙が訪れ、僕は、秋だか冬だかわからない、曖昧な季節の夜空を再び見上げた。当然のことだけれど、そこには少し前に見た夜空と同じ夜空が広がっている。けれど、それは先ほどよりも少しだけ、寒々しいものに見えた。
沈黙が長く続いた。風だけが音もなく吹いて、僕たちの身体を冷やしていった。
やがて彼女が手をさすり、「冷えてきたね」と言った。通りを歩いている人は、寒い風に首をすくめていた。僕も随分と自分の手が冷たくなってきていることに気がついた。
「そろそろ、帰ろうか」
僕が言うと、彼女はこくりと頷いた。
今日も僕は、彼女を家の前まで送っていった。ゆっくりと歩いている間、灯油販売の軽トラックの呼びかけの音が、どこかから遠く聞こえてきた。
やがて、彼女の家に着いた。すると彼女は、別れの挨拶をする前に「ちょっとだけ、待っててもらってもいい? すぐ戻ってくるから」と言った。
僕は何だろうと思いながら、沢元の家の門の前で待っていた。その間、改めて彼女の家を見た。
家自体は通りのなかで目立っているわけじゃないけれど、どことなく、窓の向こうに見える落ち着いたカーテンの色や、手入れされた庭先の花壇の様子などから、住んでいる人たちの品の良さが感じられた。
しばらくしてドアが開く音がした。家のなかの光とともに、沢元が再び外に出てきた。
門の前で待っていた僕の方まで歩いてきて、彼女は、「これ、どうぞ」と、パック入りの飲みものを差し出してきてくれた。この間、彼女がおすすめと言っていたレモンティーだった。
「よかったら、飲んで。この間、飲み物おごってもらったし」
そう言って、それから少し冗談めかした感じで続けた。
「それに、一緒に走ってくれてることのお礼」
ありがとう、と言って、僕はそのパックを受け取った。常温のようだったけれど、僕の手が冷えていたのか、それは少しだけ、暖かく感じた。
「じゃあね」
彼女は、小さく手を振った。その顔には、学校ではあまり見かけない笑みが浮かんでいる。それを見たとき、僕はふいに寂しさを感じた。
家に帰ってシャワーを浴び、夕飯を食べたあと、彼女からもらったレモンティーのパックを持って、自分の部屋に戻った。
僕は甘い味のするそれを飲みながら、スマートフォンで、彼女が受験するらしい高校と、その付近の街について調べた。
すぐに、その聞いたことのない長野県の土地の画像が画面に広がった。ここから電車で三時間ほどかかるところにある街だった。画面に映る街の風景を見ながら、来年の春には彼女がこの街に住むのだと想像すると、なんだか奇妙な感じがした。
部屋のカレンダーを見た。市内の駅伝大会まではあと一週間ほどだった。もうそれほど、彼女と一緒に走る機会はないだろう。そう思うと、やるせないような、寒々しい気持ちになった。
〇
それから三日が経った。その間、僕と沢元の都合が合わなくて、夜のランニングはしていなかった。
放課後、駅伝大会へむけての全体練習が始まるまでの空き時間、僕はいつも通りに勉強をしていようと思っていた。しかしこの日は気分が乗らず、始めてから数分でノートと参考書を閉じた。席を立って窓辺に行き、なんとなくグラウンドで活動している部活の様子を眺めていた。サッカー部の後輩たちがハーフコートでゲーム形式の練習をし、野球部が守備練習をしている。
空は曇っていて、もう外はだいぶ薄暗くなってきている。
サッカーゴールもバックネットも、走り回っている生徒たちも、校庭に広がる大きな薄闇のなかに沈んでいるみたいに見えた。
ふいに教室のドアが開く音がした。
振り返ると、一人の女子が入ってくるところだった。沢元の友達の湯川だ。彼女は先ほど沢元と二人で教室を出て行ったのだが、今は湯川一人しかいない。
沢元はどこに行ったんだろう、と思っていると彼女は僕のほうへ近づいてきた。
「何してるの?」
急に話しかけられて、少し答えに困ってしまった。特に何をしているわけでもなかった。ただぼんやりとグラウンドを眺めていただけだ。
「部活見てるの?」
「そうだけど」
頷くと、彼女は僕の横に立ってグラウンドを見下ろした。彼女は、女子のなかでも身長が低い方だった。百五十センチくらいだと思う。僕よりも頭一つ以上小さく、横に並んでいる彼女のつむじが見えた。
湯川とはこれまでにも話をしたことがある。誰にでも気さくに話かけるタイプで、友達も多いようだった。クラスの中心人物というわけではないけれど、そこそこ目立ってはいた。明るい性格で、教師たちからも気に入られているように僕は感じていた。
「沢元さんは?」
僕が聞くと、彼女はこちらを見てにやりと笑った。
「気になる?」
「いや、いつもこの時間は一緒だから、どうしたのかなと思って」
「ふーん」
にまにまと笑いながら、彼女は意味ありげな視線を僕に送ってきた。
「ねぇ、青木君は優美といつ仲良くなったの?」
「いつ?」
彼女と親しくなったきっかけは、間違いなく一緒に走ったことだったと思うけれど、それを彼女に言うのは
僕が答えられないでいると、彼女は楽しそうな表情を浮かべ、「まぁ、言いたくないならいいんだけど」と言った。
「わかんないんだよね、教室のなかでそんなきっかけはなかったと思うから。やっぱり、二学期になって席が近くなったからなのかなぁ」
僕は「どうだろう」と、曖昧に首を振った。
しかし、この会話の流れで、沢元の方も夜のランニングのことは湯川に話していないことがわかった。――言わなくてよかった、と思った。言えばどんな反応をされたかわからない。
「でもまぁ、よかったよ。優美と君が仲良くなれたみたいで」
「よかった?」
僕は怪訝に思って聞き返した。
「どういうこと?」
すると彼女は少しだけ声を潜めて、ちらりとドアの向こうに気配を探るような視線を向けた。
「この前の席替えのときの班長の特権って知ってる?」
聞いたことがない。僕は首を横に振った。すると、彼女は声を潜め、それから少しだけからかうような調子のある声音で言った。
「実はね、班員とその座席を指定できたんだよ」
僕は一瞬、何を言っているんだろうと思った。けれど、その後すぐに、僕たちの班の班長である沢元の姿が思い浮かび、彼女の言いたいことの意味を察した。つまり、僕の今の座席を決めたのは沢元だったということだ。
「そんなこと初めて聞いたけど」と、僕は言った。
このクラスの席替えは学期ごとに行われることになっていた。今の座席になったのは、二学期の二日目だった。確か始業式の日に、担任が班長になりたい人を募っていた。その時の席替えの流れは、ホームルーム後に班長が残り、彼らが代表してクジを引いて全員分の座席を決めるというものだったはずだ。
「優美もくじ引きで決めると思ってたらしいんだけど、その日の放課後、先生は急用が出来たらしくて、『あとはお前たちで勝手にやっておいてくれ』って言い残して、先に職員室に戻っちゃったみたいで。それで残った班長たちは、じゃあみんなで好きに決めちゃおうっていう流れになったらしくて」
僕が何も言えないでいると、彼女はにこにこしながら続けた。
「照れなくてもいいよ。私は二人の味方だから。君を斜め前の席に座らせたのは、優美。隣じゃないってところが、なんだか可愛いけど。たぶん、他の班長の人たちの前で君を隣に指名するのが恥ずかしかったんだろうね。一学期から君に興味があって、仲良くなりたかったらしいの。あの優美に興味を持たれるなんて、君は変わってるね」
興味、と僕は自分のなかで繰り返した。
「どうして、湯川さんは、それを俺に話したの」
そのとき、甲高いホイッスルの音が大きく響いてきた。静かな秋の夕暮れの空を裂くような鋭い響きだった。湯川は僕から視線を逸らし、再び暗いグラウンドを見ながら言った。
「優美、来年の春に引っ越しちゃうらしいからさ」
彼女の声音は、それまでよりも少しだけトーンが落ちているように思えた。湯川は数秒の沈黙を挟んでから続けた。
「だから、わたしとしても気になってたんだよね、今君たちがどうなってるのか」
どう言葉を返せばいいのかわからなかった。しかし、この前の夜に沢元と交わした会話が頭に浮かんで、僕はこう言った。
「沢元さんが長野に引っ越すっていう話は、俺もこの前本人から聞いたよ」
「そうなの?」と湯川が驚いたように言った。
それから窓の外へ向けていた身体をくるりと回し、窓の前に取り付けられたポールに背を持たせかけて、何やらいたずらめいた表情を浮かべて僕を見た。そして言った。
「仲良くしてあげてね。わたしがでしゃばれるのは、とりあえずこの辺までだろうから」
僕が反応を返す前に、ドアの向こうの静かな廊下から足音が響いてきた。僕たちが振り返ると、ちょうどドアが開き、沢元が現れた。僕たちの方を見て、怪訝そうな表情をしている。たぶん、僕と湯川が二人で並んでいるのが不思議だったんだろう。
「何してたの?」と彼女は僕たちのそばまで歩いてきて言った。
「ん。秘密の話」と、湯川が答えた。
「なにそれ。ねえ、なにそれ」
沢元はそう言って、湯川の腕を取り、ゆさゆさと揺さぶりはじめた。
「さあねー。青木君に聞いてみたらー」
面白がっているような調子で、湯川は言った。沢元は、ぱっと湯川の腕を放し、僕のほうへ、じろっと視線を向けた。
「あとで教えてね」
僕は逃げるように、視線を沢元から湯川の顔へ移した。彼女は、にまにまとしたまま、僕にどういう意図なのかわからないアイコンタクトを送り、意味ありげに頷いてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます