第4話

 ふと夜空を見上げると、昇ったばかりの月が出ていた。雲はひとつもない。吸い込まれそうなくらいに澄んだ黒い夜空が頭上に広がっていた。


 待ち合わせは、午後七時に沢元の家からすぐ近くにある小さな公園の前で、ということにした。もうとっくに陽は沈み切っている。通りに並んだいくつもの街灯の光や、家々から漏れる光が、薄暗い通りを照らしている。


 僕が公園に到着してから二、三分ほどした後で、彼女が通りを歩いてきた。遠くからでも、そのシルエットと雰囲気で、すぐに彼女だと分かった。


「ごめんね、待たせた?」


 近くまで来ると、彼女はそう言った。僕は首を横に振った。すぐそばに立っている街灯の光で、沢元の姿がはっきりと見えた。黒のトレーニングタイツにショートパンツ、それから濃い青色のパーカーという格好だった。その姿はすらっとしていて、いくぶん大人びて見えた。


「最初だし、今日はゆっくり走ろう」と僕は彼女に言った。


 彼女と一緒に走ることが決まる前から、もともと今日は軽く流して、調子を整えるくらいにするつもりだった。しかし僕がそう言うと、彼女は少し申し訳なさそうに言った。


「気、使わなくてもいいよ。ついていくから」


「いや、でも」


 僕が言葉を続けようとすると、沢元は顔を上げて僕の目を見ながら言った。


「大丈夫。足、引っぱりたくないの。こっちから、頼んだんだし」


 そのはっきりとした口調とまっすぐな眼差しから、僕は彼女の性格的な意志の強さを感じた。女子の代表として駅伝のメンバーに選ばれているくらいだから、やはり体力にも自信があるのだろう。


「……わかったよ。でも、今日は俺も本当に調整するくらいのつもりだったから、いつもより遅めのペースで走るよ」


「うん」


 頷いて、沢元は、軽く足を伸ばし始めた。数分間、僕たちは身体の筋肉を伸ばしたり、靴ひもを結び直したりして、走り始める準備をした。


「――そろそろ、行こうか。三キロを、とりあえず二十弱分くらいで」


「オッケー。それくらいなら、足引っ張らないで済みそう」


 そう言って、彼女は小さく笑んだ。


 僕は、腕につけていたスマートウォッチを操作し、彼女に目を向けた。彼女が、いいよ、という感じに小さく頷いたのを見たあとで、時間の計測をスタートさせ、それと同時に走り始めた。


 〇


 走っているときに真横に沢元がいるのは不思議な感じだった。


 自分が今、最近になるまでほとんど話したこともなかった女の子と一緒に走っているということを、なんだか嘘みたいに感じた。妙な夢を見ている時のように、今この状況を、頭が上手く受け入れられていないような感じがした。


 横目で彼女を見る。もうそろそろ、一キロが経過するところだった。今のところ、彼女につらそうな様子はない。多少女の子っぽい腕の振り方はあるけれど、綺麗なフォームで走っていた。


 そのとき、彼女も横目で僕に視線を向けてきた。目が合ったあとで、「平気?」と、僕は、無意識のうちに訊ねていた。彼女は小さく頷き、先ほど見せた負けん気の強い感じの視線にちょっとだけ笑みを混ぜ、「余裕」と言った。


 本当に余裕そうだったので、僕はとりあえず安心して、時計を見た。一キロあたり六分半ほどのペースで走れている。彼女に伝えた通り、ちょうど三キロを二十分弱で走り終えられるペースだった。


 その後は会話もせず、小さく息を弾ませながら、僕たちは夜の街を走り続けた。


 街の景色が、街灯の光が、僕たちの周りを流れていく。そうやって並んで走っていると、足並みが自然に揃ってきた。次第に彼女と一緒に走っていることの違和感は薄れていった。それだけではなく、むしろいつもよりも心地いい感覚で走れているような気すらした。


 この前彼女を見かけたスーパーのある通りに入るところで、ちょうど走行距離が三キロに達した。


「沢元さん、もう三キロ過ぎた」


 そう言うと、彼女は頷いた。僕たちはペースを緩めて減速した。歩行に移り、弾んだ息を整える。一分ほど経ち、二人とも呼吸が落ち着いてきたところで僕は言った。


「平気? この時間に走るの、初めてだっただろうけど」


「うん。このくらいなら、大丈夫。部活ではもっと走らされてたし」


「さすが」


 そう返すと、彼女は少しだけ得意そうな笑みを浮かべた。僕たちはそのまま、待ち合わせ場所にしていた公園に向かって歩いていった。その間、まばらに乗客を乗せたバスが通りすぎ、救急車の音がどこからか響いてきて、秋の風が汗ばんだ皮膚を冷やしていった。


 待ち合わせた公園に戻ってくると、なんとなく、僕たちは明かりのあるベンチの近くで立ち止まった。彼女はそこに腰かけた。


 公園の隅に、青白い光を放っている自動販売機があった。僕はそこまで歩いて行き、ポケットのなかに突っ込んできていた五百円玉を出し、ペットボトルのスポーツドリンクを二つ買った。彼女の近くまで戻り、そのうちの一つを差し出す。


「沢元さん、これ」


「え、いいの?」


 彼女は少し遠慮したような素振りで言った。


「いいよ、どうせ百円とかだし」


 僕が答えると、「ありがとう」と言って、それを受け取った。僕たちはベンチに、人ひとり分の距離を開けて座った。


 座ってから、妙に緊張してきた。それまでは走っていたから、特に会話がなくても間が悪い思いはせずにすんだけれど、静かな公園で座っていると沈黙が気になり、気まずさを感じるようになってきた。


 スポーツドリンクを飲みながら、何か話すことはないかと考えていると、ふと、彼女が思い出し笑いをするように小さく笑いだした。そして、「あー、焦ったぁ」と、独り言のように言った。


 怪訝に思って僕は訊ねた。


「何が?」


 彼女は前を向いて話し始めた。公園の前の通りに人影はない。ただ、近くの家から漏れてくる暖かそうな光がいくつか見えるだけだ。


「今日、『一緒に走ってもいい?』って言ったとき、わたし、あんまり後先考えてなくて。なんだか、おかしなこと言っちゃったかもって、ずっと焦ってたんだ」


 そういうことか、と思ったけれど、あの沢元優美から『後先考えず』に行動してしまったという話を聞くのは意外だった。


「変だと思わなかった?」と彼女は、少しだけ苦笑が滲んでいる調子で訊ねてきた。


「少し驚いたけど、別に沢元さんのことを変だとは思わなかったよ」


 僕がそう答えると、「本当?」と、彼女は小さく首を傾げるようにして言った。頷くと、彼女はほっとしたように「なら、よかった」と安堵したように小さく息を吐いた。


 話が途切れると、また二人で黙々とスポーツドリンクを飲んだ。秋の虫が、どこかの草むらで鳴きはじめた。運動して上がっていた身体の熱はもうかなり夜の冷気に冷やされていた。少しだけかいていた汗も、すでに乾いている。


 僕はスマートウォッチの時刻表示を見た。もうすぐ八時になるところだった。


 沢元の方に視線を向けると、ちょうど、彼女もこちらへ顔を向けていた。意図せず、近くで目が合ってしまった。彼女の瞳のなかには、僕たちの近くにある街灯の白い小さな光が映り込んでいた。それがひどく綺麗で、僕は気おされるように、視線を彼女の顔から外した。それから言った。


「そろそろ、八時になるよ」


 その声は、沈黙のなかにすぐに消えた。彼女は、うん、と小さく頷いた。


「もう帰らないと」


 僕も頷き、ベンチから立ち上がった。


「家の傍まで、送るよ」


「え、でも、悪いよ。方向違うし」


「そんなに離れてないし、別にいいよ。行こう」


 僕はそう言って歩き出した。彼女の家に着くまでの五分ほどの時間を、僕たちは会話のないまま並んで歩いた。やがて沢元の家の前に着いとき、彼女が言った。


「今日は、ありがとう」


「うん」


 僕は頷いた。それからまた沈黙が訪れた。沢元も立ったままだったので、なんだか別れ際のタイミングを逸したような気まずさを感じていたけれど、ふいに彼女が咳ばらいをして、


「よかったら、また今日みたいに、一緒に走ってもいい?」と言った。


 それを聞いたとき、僕の胸のなかの何かが熱くなった。僕は無意識に頷いていた。すると彼女はそっと笑んで、「ありがとう」と、小さな声で言った。


 そして、僕たちは待ち合わせをするための連絡先の交換をした。それを終えると、彼女は明るい表情で「じゃあね」と言って小さく手を振り、家のなかへ入っていった。

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