第3話
次の日は駅伝の学校代表に選ばれている生徒たちの全体練習日だった。
帰りのホームルームが終わると、沢元は帰宅していくクラスメイトたちの流れとともにどこかへ出て行ったあと、ハーフパンツと学校ジャージに着替えて、もう一人、同じ格好をした湯川という女子(彼女も駅伝の練習に出るのだろう)と教室に戻ってきた。
全体練習はこの日で二回目だっただけれど、前回のこの時間、僕は早めにグラウンドに出て、サッカー部の後輩たちの練習に混ぜてもらっていたので、教室にいる彼女とは会わなかった。
運動着姿の彼女をぼんやりと見ながら、本当に何でも出来る子なんだな、と改めて思った。
学業成績は学年トップクラスで、学校中から選抜される駅伝のメンバーにもなっている。容姿だって悪くない。ショートの髪型は彼女のきりっとした怜悧な雰囲気に良く似合っている。教室のなかでも、特に嫌われているような様子はなく、淡々と日々を過ごしている。少なくとも、僕にはそのように見えた。
そんなことを考えていると、劣等感だかなんだか知らないけれど、ため息を吐きたいような気分になってきた。
僕は頭を切り替えようと、机の上に広げているノートと参考書に視線を落とした。
練習が始まるまでには三十分ほどの時間がある。ただ待っているのも退屈なので、この日からは受験対策の勉強をして過ごそうと思っていた。短い時間だからあまり多くのことはできないけれど、そのぶん、集中するのにはちょうどよかった。
僕は数学の問題をノートに解き始めた。勉強に入るときの心理的な抵抗感はなく、よく集中して取り組めそうだった。教室の前の方の席に座っている沢元と湯川は、小さな声で、時折くすくすと楽しそうに笑いながら会話をしていた。
いくつかの問題を解き終えた。解答を見て自分で丸つけをし、間違えた問題のところにチェックを入れた。
それを済ますと、僕は一息入れてノートから顔を上げた。教室の前の方の窓が閉め忘れられていて、カーテンが吹き込んでくる風に揺れていた。今日も暖かな日だったので、午後の授業中は上着を脱いでいる生徒が多かった。僕も勉強しているうちに蒸し暑さを感じてきて、シャツの袖を肘まで捲った。
その後もしばらく、三人しか残っていない教室で勉強を続け、切りのいいところでペンを置いた。
ちょうどそのとき、湯川が席を立って、ひとり廊下へ出て行った。椅子を引く音や湯川が歩いていく音に、僕は視線を上げた。すると、まだ座っていた沢元と目が合った。
教室のなかは、ほとんど無音だった。グラウンドで活動している下級生たちの部活の音が、遠く聞こえてくるだけだ。
彼女はすぐに僕から視線を逸らし、手持無沙汰なのか、湯川が出て行ったドアの方に顔を向けた。僕も、そろそろ机の上の勉強道具を片付けようと思い、手元に視線を落とした。練習開始の時間が近づいてきている。
ふと、再び椅子を引く音が聞こえた。顔を上げると沢元が立ち上がり、僕の席の方に向かって歩いてきているのが見えた。
僕の前に立つと、彼女からふわりとした柔らかい香りがかすかに漂ってきた。
「ここ、座ってもいい?」
沢元は目線で、僕の前の席を示した。僕は頷いた。彼女は微かに口元を緩めて笑みを浮かべ、その椅子に横向きに座った。さらりと、ショートの髪が揺れた。
「邪魔してごめんね。私たち、うるさくなかった?」
片付けている途中の僕の勉強道具をちらりと見て、彼女は言った。
「いや。――湯川さん、どこ行ったの?」
すると、彼女は少しだけ口ごもった。もしかして、何か答えにくい理由でもあったのだろうかと思って、少しだけ聞いたことを後悔した。
「えーっと……。その、他のクラスの友達のところ。何か用があるんだって」
そうなんだ、とだけ僕は言った。会話はそこで切れた。他の話題も咄嗟には思い浮かばなかったので、しばらくの間、沈黙の時間が流れた。教室のなかはあまりにも静かすぎて、少し居心地が悪かった。
沈黙の間、沢元は椅子に座ったまま、指先をいじっていた。彼女の爪はどれも、きちんと短く切られていた。光沢もあって、綺麗な爪だな、と思った。
ふいに彼女が手の動きを止めて、顔を上げて僕のほうを見た。そして、何気ない調子で、こう訊ねてきた。
「どうして、青木君は駅伝出ることにしたの?」
「どうしてって?」
「三年生は辞退する人のほうが多いから、なんとなく」
手を膝の上に乗せて、彼女は言った。
「いいトレーニングになるから」と僕は短く答えた。
「それって、サッカーの?」
これまでほとんど関わりがなかったけれど、僕が所属していた部活を彼女は知っているようだった。
「うん。走ること自体は本当はあんまり好きじゃないんだけど、目標があれば、夜の走り込みのやる気も上がるし」
高校に進学してもサッカーは続けるつもりだったから、受験が終わるまでの間に体力を落とさないように、この時期にある程度の走り込みをしておきたいと思っていた。けれど、それだけが理由というわけでもなかった。
「それに、この時期に走るのは、他の季節に比べて好きなんだ」
「どうして?」
彼女は軽く首を傾げた。あまり表情は動いていなかったけれど、興味を引かれたような声音だった。
僕はどう答えようか考えた。
まだそれほど冷え込んではいないけれど、これから来る冬の気配が漂っている空気の感じ、その気配が冬へ向かっていくにつれて一日ごとに深まっていく感じ……。走りながら、そういう感覚を身体で感じていることが好きだった。
しかし、そのようなことをうまく伝えられる自信はなかったし、共感してもらえる自信もなかった。とても個人的で、感覚的なことだ。僕自身、今まできちんと言葉で考えていたわけではない。だから、僕は、うーん、と首を捻った。
「うまく言えそうにないけど……」
僕は先ほど考えた、この季節に走ることが好きな理由を言葉を選びながら話した。伝わったのかどうかはわからないけれど、僕の説明の後で彼女は、
「――私の、夜のスーパーみたいなもの?」と訊ねてきた。
そう言ったときの彼女の顔には、どこか悪戯めいた、秘密を共有させるような、そんな笑みが浮かんだ。
僕は、昨日夜道を歩いている途中で聞かされた彼女の話を思い出して、「そうかも」と答えた。ただ単に調子を合わせただけではなくて、本当に何か通じるところがあるような気がしたのだ。
すると、彼女は独り言のように「私も、今日の夜、走ってみようかな。今日は放課後に、予定ないし」と言った。
それから、手を膝の上に置いたまま、何かを思いついたように勢いよく顔を上げて僕の方を見て言った。
「もしよかったら、一緒に走らない?」
思わず、聞き返してしまった。
「――は?」
すると彼女は少し慌てたように言い添えた。
「あ、迷惑だった? それなら、いいんだけど」
いや、と僕も慌てながら首を横に振り、少しだけ動悸を感じながら答えた。
「そういうわけじゃないよ。別に、いいよ」
「ほんと?」
そう言ったときの彼女の表情には、どこか安堵感が含まれているような気がした。教室での沢元はほとんど感情を表に出さないけれど、そのときの彼女からは、少しだけ感情の動きのようなものを感じた。
僕が頷くと、ありがとう、と彼女は言った。それからまた沈黙が下りた。グラウンドから、「集合」という大きな声が聞こえた。どこかの部活のかけ声だろう。
沢元がチラリと時計に目をやって「そろそろ時間だね」と言い、すっと椅子から立ち上がった。
その動作で、どこか気づまりな感じが漂っていた空気が変わった。
「練習が終わったら、何時にどこで待ち合わせるか決めよう。――校門の前で待ってるね」
短くそう言うと、彼女は閉め忘れられていた窓を閉め、教室の外へと出て行った。僕は一人、誰もいない教室に残された。
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