第2話

 日が沈むと、昼時は暑いくらいだった空気はすっかり冷え込んだ。


 僕は昨日と同じく三キロのランニングを終えて、冷たい夜気のなかで大きく息を吐いた。今日はかなりペースを上げて走っていたから、走り終えた後、息が整うまでに少し時間がかかりそうだった。足の筋肉にも、少し疲労感を感じた。


 歩きながら空を見る。薄い灰色の雲が空に掛かっていて、星は出ていなかった。時折、車が音を立てて車道を走っていく。弱い風が吹き、羽織っていた薄いスポーツ用のパーカーのフードがわずかに揺れて、耳元でかさこそと小さな音を立てた。


 やがて昨日沢元を見かけたスーパーがある通りに差しかかった。僕はスマートウォッチに表示されている時刻を確認した。ちょうど、昨日と同じくらいの時間帯だった。


 昨日と同じようにあたりにひとけは少なかった。


 営業中のスーパーの店内から明かりが周囲に漏れている。僕はその光に照らされている範囲に視線を走らせたが、彼女の姿は見あたらなかった。


 ――さすがに、いないか。


 まぁ二日連続で同じ人と街中まちなかで出くわすこともないだろう、と思い僕は再び静かな通りを歩き出した。


 けれど、最初の角を曲がったところだった。ちょうど歩行者信号が赤になっている横断歩道の前に、彼女がいた。


 赤色のカーディガン、デニム生地のロングパンツ。茶色のトートバッグを肩にかけ、そしてスーパーの袋を手に持っていた。


 昼間、少し言葉を交わしたからだろうか。また会ったことに驚きを感じてはいたものの、僕はなんとなく、彼女に気安さを感じていた。横断歩道の前に辿り着くと、こちらから彼女に声をかけた。


「沢元さん」


 すると彼女はびくりと顔を僕に向けて、「青木君」と驚いたような表情を浮かべて、大きな声で言った。


 信号待ちをしている人は僕たちの他に二人いた。彼女の声に、その人たちがチラリとこちらへ視線を向けた。彼女はそれで少し気まずそうに身じろぎし、今度は声を落として、「びっくりした」と言った。


 驚かせるつもりはなかったのだけど、「ごめん」と僕も小さな声で言った。それから、


「今日も、買い物?」


 彼女の持っている袋を見て訊ねた。彼女は頷いて答えた。


「うん。今、塾からの帰りなんだけど、親にお使い頼まれちゃって」


「そうだったんだ」


「青木君は、走り終えたところ?」


「そうだよ」


 歩行者信号が青になった。他の人たちと同様に、僕たちも並んで歩き出した。コツコツと、僕たちの足音があたりに響いた。


「塾、どこに行ってるの?」


 僕は歩きながら問いかけた。彼女は、前を向いて歩きながら、その塾の名前を短く答えた。


「――ああ。なるほど」


 すると沢元が少しだけ小首を傾げて、不思議そうに僕の方を見て訊ねた。


「なるほど、って?」


 そこは、進学校とされている高校に毎年多くの合格者を出す、この地域では有名な進学塾だった。そこに行っている同級生は、大体みんな成績がいい。


「納得って意味。沢元さん、成績いいから」


 そう答えると、彼女は少しだけ、困ったような顔をした。その雰囲気で、もしかしたら彼女はこういう話題が嫌なのかもしれないと思った。


「ごめん」


 僕が謝ると、彼女は、少しだけ慌てたように、「なんで?」と訊ねた。


「なんか、嫌な言い方だったかもしれないって思って」


「ううん。そんなことないよ」


 なんだか、気まずい会話の流れになってしまった。僕は話題を変えようと、彼女が持っているエコバッグを見て、「この時間に買い物に行くことが多いの?」と訊ねた。「昨日会ったのも、このくらいの時間だったから」


 彼女は一度頷いて答えた。


「うん、だいたいそうかな。今日はお使いもあったけど、いつも、塾の帰りに飲み物を買っていくんだ」


 それから、なにやら袋の中身をごそごそやりはじめ、パック入りのレモンティーをひとつ取り出した。


「これ、好きなんだ」


 そう言って、僕にパッケージを見せてくれた。


「初めて見た。そんなのあったんだ」


「美味しいよ。甘いけどすっきりしてるから、男の子も好きな感じだと思う。おすすめ」


 なんだか嬉しそうな表情を浮かべている。初めて見る沢元の表情だった。私服姿というのもあるのかもしれないけれど、今の彼女からは学校でそれまで抱いていた少し堅いイメージとは違う印象を受けた。


「今度、飲んでみるよ」


 僕が言うと、彼女は嬉しそうに大きく頷いて言った。


「うん。そうしてみて」


 そのとき、背後から車の音が近づいてきて、僕たちのそばを通りすぎていった。再びあたりが静かになったところで、僕はこう話を続けた。


「平日も塾に通ってるの、大変だね」


 彼女は否定するように曖昧な笑みを浮かべながら首を横に振った。


「部活をやってたときは少し大変だったけど、今はそれほどでもないよ。それに、塾自体も、来週でやめることになってるんだ」


「どうして?」


 僕は言った。受験勉強は、これからが山場になってくるはずだ。それなのに、このタイミングで塾をやめる、というのは、不自然なことに感じた。何か事情があるのだろうか、と思った。塾を変えるとか、あるいは家庭教師をつける、とか。


 僕の問いに、彼女は少し口ごもる様子を見せた。少しの間が空いたあとで、「もう後は自分で勉強すればいいかなっていうのもあるし、ちょっと、他にも色々と事情があって」と彼女は言った。


 その様子に、あまり詳しく訊かない方が良さそうだと僕は思い、「そうなんだ」とだけ言った。


 彼女は肯いた。それから、何かに気づいたかのように、「あ、でも、塾をやめたら、夜のスーパーに寄っていくことも、もうなくなるんだろうな」と、独り言のように言った。


 僕が首を傾げると、彼女は少し恥ずかしそうに苦笑いをし、話を付け足した。


「私、夜のスーパーの雰囲気が、ちょっと気に入ってたの。なんだか、癒されるような雰囲気が漂っていて」


「癒される? どういうこと?」


 そう問い返すと、彼女は少しだけ首を傾げて、しばらくの間、うーん、と唸った。それから、ゆっくりと話を続けた。


「うまく言えないんだけど、なんだか、その時間帯の空気は、優しい感じなんだよね」


「優しい感じ?」


「うん。特に平日は、塾が終わると、もうクタクタになってるのね。それで、一日が終わったなぁ、って思いながらお店に入ると、同じように、一日の終わりに何か食べ物とか飲み物を買いに来てる人たちがいるでしょ? そこには、みんなが一日を終えて安心しているような空気が漂ってて……。なんていうか、心が落ち着いてくる感じだったの。穏やかだけど、解放感もあって」


 難しい問題を解いているような、真剣な表情で沢元はそう言った。たぶん、自分が言いたいことをうまく表現するための言葉を探していたんだろう。けれど、あまりうまく説明出来ていると思わなかったのか、言い終えると、彼女は集中を解いたように笑って、「ごめん、わかんないよね」と続けた。


 僕は首を振った。


「いや、なんとなく、想像できたよ」


「ほんと?」


 疑わしそうに、彼女は言った。


「たぶん」


 彼女が感じていたそれと全く同じかどうかはわからないけれど、その感覚を想像することは出来た。


 僕が頷くと、彼女はくすりと笑った。どうしてか、こういうとても個人的なことを話してくれる彼女に、僕は好感を持った。学校で普段見ているものは違う、彼女の素の性格が表れているようで、聞いていて楽しかった。


 その会話が終わってからも、僕たちは、二人に共通する学校での話題(教師のことや、それぞれの部活のことなど)を見つけて言葉を交わしながら、並んで歩いた。汗が冷えてきて、少し肌寒さを感じてはいたけれど、急いで歩こうとは思わなかった。住宅街の静かな通りを、街灯やまばらな星を見ながら、彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと進んでいった。


「じゃあ、またね」


 ふいに、彼女が言った。僕が怪訝に思って立ち止まると、彼女は、曲がり角のすぐ近くにある家を指差した。


「私の家、あそこだから」


 彼女が指さしたのは、この通りに立っている他の家とほとんど同じデザインの、二階建ての一軒家だった。僕は、すぐそばにあったレンガの壁に埋め込まれていた表札を見た。それには、少し丸みを帯びたおしゃれなフォントで「沢元」と彼女の苗字が書き込まれていた。


 これまでに何度もこの道は通ったことがあったけれど、いちいち家の表札までは確認していないので、彼女がここに住んでいることを知るのは初めてだった。


「ここに住んでたんだ」


 半ば独り言のように言うと、「そうだよ」と彼女は頷いて、僕に、顔の横で小さく手を振った。


「また明日、学校で」


 秋の夜の空気に、その短い声はすぐに消えていった。少し風が吹いて、汗をかいた僕の肌を冷やしていった。


 僕も、小さく手を上げて答えた。


「うん。また明日」

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