秋と冬のあいだに
久遠侑
第1話
秋と冬の境目って、どこにあると思う?
高校受験を控えた十五歳の秋の日に、僕は彼女にそんなことを問いかけた。十一月の、ひどく冷えた夜のことだった。
あの時期、僕と彼女の関係は奇妙なものだった。面識はあったけれど、話をするようになってからはまだ日が浅かった。それにもかかわらず、あの問いを投げかけたときには、もうすでに僕たちの間には、他の友達といる時とは違う特別な空気が漂っていた。
いったい、いつからだったのだろう、と僕は思う。僕にとって彼女が、ただのクラスメイト以上の特別な意味合いを持つ女の子になったのは。
あの秋から冬の間であることは間違いないのだけれど、そのタイミングが具体的にどこだったのかはわからない。気がつかないうちに、僕たちの関係は深まっていた。
「いつの間にか」としか、説明することが難しい。そういうことはある。あの時期に起こった僕と彼女の関係の変化は、まさにそういう類いのものだった。
〇
国道沿いの広い道を走りながら、僕は腕につけたスポーツ用のスマートウォッチを見た。ちょうどこの日走ろうと決めていた三キロを過ぎたところで、心拍数は一五〇、タイムは十六分と少しだった。
ランニングから歩行に移り、息を整えるために、一度空気を大きく吸って吐く。 十一月の夜の空気は冷たく、深く吸うと火照った咽喉と身体に心地よかった。滲み出てくる汗も、すぐに引いていった。
僕が歩いている通りには、住宅や商店が並んでいる。夜の八時を過ぎたところで、空はもう真っ暗だった。しかしまだ家々の窓には明かりが多く灯っていて、道はそれほど暗くない。
やがて、このあたりでは一番大きなスーパーの前に差し掛かった。
あたりに人の姿はあまりない。仕事帰りらしいスーツ姿の男性がひとり、広い駐車場の向こうにあるドアの奥へ消えて行った。スーパーのドアの付近には、店の暖色の明かりが漏れてきている。
ぼんやりと、その暖かそうな光の方を見ていると、ふいにその光のなかに、ショートカットの女の子のシルエットが現れてきた。
あれ? と思った。
なんとなくその立ち姿に見覚えがあるような気がしたのだ。もしかして、と思い、僕は歩調を緩めて、目を凝らした。
彼女は、色の薄いジーンズに、赤い長そでのブラウスを着ていた。初めて見る私服姿だったから、学校で見る彼女の印象とは少し違っていた。
けれど、光に照らされた顔を見て確信した。ショートカットの髪、感情をあまり表に出さない表情と、全体的に漂っている引き締まった雰囲気。
間違いない。沢元
彼女は、今年同じクラスになった女の子だった。二学期の始めに、学期ごとに行われる席替えで僕の斜め後ろの席になり、そして六人グループの同じ班になった。
部活は、顧問が熱心で毎年のように県大会に出場しているソフトボール部に所属していて、学業も優秀だった。彼女とはこれまであまり関わったことがなかったけれど、定期テストではほとんどの科目で、いつも満点近くの点を取っているらしいことを噂で聞いていた。
授業中、教師が難しい問題を出し、誰もそれに答えられない時なんかにも、よく「お前ならわかるだろう」というような感じで当てられて、淡々と正答を答える、というようなことも多かった。
僕の視線に気づいたのか、彼女も僕の方を見た。距離が離れているうえに薄暗いので表情の動きまではよく見えなかったけれど、彼女は間違いなく、僕に向かって小さく手を振っていた。
違和感と、それから既視感を覚えた。
違和感は、沢元の教室での印象からくるものだった。
彼女は教室では、特に目立つわけではない。大人しいタイプの女の子で、はしゃいだり、大きな声を出したりしているところは見たことがない。いつも一人きりでいるか、もしくはクラスにもう一人いる、同じソフトボール部の子と二人で話していることが多い。だから、なんとなく、彼女はそういう「男子に手を振る」というようなことをする、気さくな性格ではないのではないかという印象を、これまでの僕は持っていた。
そして既視感についてだけれど、これと似たことが、以前にもあったのだ。
それは今から約三か月前の、一学期最後の日のことだった。
終業式と通知表配布のホームルームを終えて、僕はひとりで校舎から出た。そのときに、沢元が校門の前で誰かを待っているかのように突っ立っているのを偶然見つけた。彼女はちょうど僕の視界の真ん中にいて、ふいに僕たちの目が合った。
そのときも、彼女は今と同じように、顔よりも少し低い位置で僕に手を振った。しかし当時は、彼女のその行為を特に気に留めはしなかった。僕の周囲には、下校する生徒が沢山いたから、彼女は僕の近くにいる知り合いを見つけて、その人に手を振ったんだろうと思った。
しかし、今は。
僕の周りに人はいない。
そして、彼女はたしかに僕の方へ顔を向けている。
どうしてだ? と僕は思った。彼女は、いつも顔見知りの人を見つけたら、そうやって手を振っているのだろうか? そういう挨拶をするのがクセなのだろうか。
僕は気まずさを感じていた。しかし、遠く離れているとはいえ、視線を交わしあっている状態で無視するのも変だと思った。だから、僕も片手を上げて、返事を返した。
すると彼女は、手の動きをとめ、それから小さく会釈をした。その様子から、彼女の一連の行動はやはり僕に向けてのものだったのだと感じた。
車が一台、僕の前を通りかかった。ヘッドライトの光があたりを照らし、僕の影が伸び縮みした。その後、車の走行音が遠ざかり、あたりが静かになったところで、立ち止まっていた彼女がスーパーの前から歩きだした。それに半ばつられるようにして、僕も再び、家に向けて歩き始めた。
〇
翌日、昼休み前の掃除の時間、僕はワイシャツの袖を肘までまくり、ほうきを手にもって、ほこりっぽい匂いの漂う階段の踊り場に立っていた。
良く晴れた日で、校舎内の空気は少し蒸し暑かった。しかし、開け放っている窓から時折吹き込んでくる風は、深まってきた秋の涼やかなものだった。
掃除の担当は班ごとに決まっていて、僕たちの班は、五階建ての校舎の、三階から一階までの階段を担当することになっていた。
僕たちの班は特に仲が良くも悪くもないメンバーが集まっていた。ふざけあったりサボったりすることはなく、いつも淡々と手分けして掃除をしていた。班長の沢元も、今は他の女子から離れた場所で、一人ほうきで床を掃いている。
制服姿の彼女の印象は、昨日見かけたときのそれとは違っている。けれど間違いなく、昨夜スーパーの前で僕に手を振ったのは、今ここにいる、この女の子だったはずだ。
昨夜見た沢元の姿を思い浮かべていると、ふと彼女が顔を上げ、僕の視線とぶつかった。一重まぶたでぱっちりした、意志の強そうな目が(たぶんふいに僕と目が合ったからだろう)、驚きで少しだけ大きくなった。
視線は交わったのに会話がないことに、気まずさを感じた。このまま視線を外して場を離れようかと、少しだけ迷った。しかし、わずかに自分のなかに芽生えてきた興味にかられて、僕は短く言った。
「昨日の夜、会ったよね」
すると、彼女の表情が少しだけ動いたように見えた。それから、
「会ったね」
と彼女も短く答えた。その後少しの間、沈黙が降りた。ぎこちなく、不自然な会話の
「青木君は、走ってたの? その、運動してたような服装だったから」
そう言ったときの彼女の声は、いつも通りの、落ち着いたものだった。しっかりしている優等生という感じの話し方で、やはりその沢元のイメージと、昨日手を振っていた彼女の姿はうまく重なり合わない。
「そうだけど」と僕は答えた。
「駅伝の練習?」
頷く。すると彼女は少しだけ表情を緩めて、「偉いね」言った。
「どうなんだろう」
僕は謙遜ではなく、首を傾げた。
僕たちの市では、公立中学校の駅伝大会が毎年秋に行われる。各学校から、出場者が男女それぞれ二十人ずつほど選ばれる。僕はこの出場者の一人に選ばれていた。
その駅伝大会は市が独自に開催している小さなもので、それで優秀な成績を収めたからと言って、とくにどうなるわけでもない。内申書にはもしかしたら書いてもらえるかもしれないけれど、それがそれほど重要なことだとも思えない。
だから、受験がすぐそこまで迫っている中学三年生として「偉い」と褒められる行為は、むしろ駅伝の選手を辞退して、最優先でやるべき受験勉強に集中することの方なのではないかと思う。
「この時期に、大丈夫かなとはちょっと思うけど」と、僕は言った。
駅伝の選手には、全学年から体力測定の持久走の成績が良かった生徒に声が掛けられる。だが、受験を控えた三年生はあくまで任意参加ということだったので、いくらでも辞退することは出来た。それに学業成績が悪い生徒は、いくら持久走のタイムがよくても声をかけられないという噂も聞いたことがある。
「たしかに、それはちょっと不安だよね」と、沢元もひとつ頷き、そして「私も選ばれてるんだ」と続けた。
「そうだったの?」
僕は驚いて言った。
男子も女子も、駅伝に選ばれた生徒は、部活動終了後の四時半から五時半までの一時間ほどの間に、定期的に練習がある。すでに一度練習は行われていたけれど、僕は彼女がいることに気づいていなかった。男女で練習メニューは違うし、その時は、集まっている場所も離れていた。
「辞退しなかったんだ」
僕の言葉に彼女は頷き、平坦な口調で説明するように言った。
「身体を動かすのに、ちょうどいいかなと思って。どうせ二週間だけだし」
最初、受験勉強の邪魔になる駅伝大会への参加を、真面目なタイプに見える彼女が引き受けたということを意外に感じた。けれどその直後に、駅伝の学校代表選手に選ばれたうえ、受験勉強もきちんとこなしてしまうというのも、「沢元優美」らしいことだなと思った。
半年以上同じクラスにいて、彼女の運動能力が人並み以上であることは、僕も知っていた。本当に欠点が見つからない女子なのだ。
「昨日は、どのくらい、走ったの?」
僕が黙っていると、彼女はそう尋ねてきた。
「三キロくらいだけど」
「もしかして、今日も走ったりする?」
そのつもり、と僕は頷いた。するとそのとき、校内放送で掃除の時間の終わりを告げる放送が流れてきた。
周りにいたクラスメイトたちが掃除をやめて、ほうきを用具入れに仕舞い始めた。
僕たちの会話も中断され、沢元は小さく会釈して、ちり取りのなかのゴミを捨てに行った。
あとに残された僕も手に持っていたほうきを片付け、その後、最後にちらりと沢元が用具を仕舞っている姿を見てから、同じ班の男子と一緒に教室に向かって歩いて行った。
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