火花は目にも止まらぬ速さで散る 5

今宵は三日月。

月の満ち欠け、月相げっそうは地球と月の角度によって変わる。地球から見て月と太陽が同じ方向にある時、新月に。月と太陽の間に地球が来た時に満月を迎える。

などと有識者は子どもに話すが、子どものプライドは大人が思っているより早く身に付き、何事にも異論を唱える。

だが時として、子どものその曇りなきまなこは、真実をガラス玉という白日の下にさらけ出す。


「違うよ。あれは夜空が笑っているんだ」


三日月を指さして子どもは言った。

大人たちは揃って子どもの考えを肯定するが、心の奥底では無知だと笑っている。

だが、真実を知るものがそこにはいた。なにせその者は、自分の目で見てきたのだから。


見上げてごらん。夜空が浜辺に打ち上げられた雑魚どもを見て、あざ笑っているよ。いったいどっちが無知なのかと、大笑いだ。


みんな見えていないのさ。月が斜めではなく、まるで顔のように三日月が下を向いてることなんて。怖くて怖くてまぶたが閉じられない。自らの脳にナイフを突き立て、見えない見えないと騒ぎ立てる。


恐怖を受け入れよ。先人の知恵を捨てよ。お前の脳みそで真実を見破れ。恐れるべきは満月ではない。


悪鬼というものは、三日月の晩に浜辺を目指して泳いでくるものだ。




闇夜を照らす月光。

人間は暗闇では何も見えない。目が暗闇に慣れてきて物の輪郭が見えてきても、色までは認識できない。だから光を求める。よせばいいものを、まるでダツのように光に向かって進んでいき、見なくてもいいものを見てしまう。

見えない方がよかったものを。

月光に照らされた雨生ヶ池。まず空が感じたのは違和感。眼前の池は、先ほど見た時とは何かが違う。

そして気づく。

目の錯覚などでも、勘違いなどでもない。緑色に濁っていたはずの池は、まるで誰かが大量の墨汁を池に流し込んだかの如く、黒に染まっている。

「黒い……池?」

空の口から勝手に疑問が漏れる。

だがその疑問に答えられるものは、ここには誰もいない。それを知っているものが居るとすれば、それはいま空の目の前にいるものだけであろうか。

黒い池の、水面の波紋が空を目指して進んでいく。

波紋を辿ったその池の中から、ひょっこりと何かが段々と浮かび上がってきている。

月の光に照らされて、ようやく認識できたそれは、人の頭。

頭とくれば、次は首。

そしてその次に浮上する、たわわに実った胸を見た空は、それが女性であることを認識する。

一糸まとわぬその体に、誰しも目を奪われてしまうことであろう。

何より彼女は美しかった。黒い水泡が肢体を伝って池の中へと戻っていくその様、濡れた黒髪がまるで恥部を隠すように白い体にまとわりつく。

男も女も、皆その濡れ姿に心を奪われそうになる。

だがこの場は、月光の下。

余計な真実も月光は平等に、人間に教える。

そう、彼女の体は足りていなかった。

男がその胸を目に焼き付けようと見開くと同時に、片方の胸がまるでえぐり取られたかのように、骨がむき出しになっているその様を見れば、恐怖に息を呑むだろう。

女がその白い引き締まった体を、自身の模範にしようと観察すると同時に、一部分皮がなく筋肉がむき出しになった長い足、肉が削げ落ち、骨が辛うじて残った肉を掴み取り、右腕の骨がまるで生き物のように蠢くその様を見れば、恐怖に足がすくむであろう。

穴だらけのその姿、一言で言い表すならば。

「……ゾンビ……なのか?」

ゾンビ。動く死体。これを見たものが、真っ先に大ケガをしているだけで生きているなどと、思いもせず、口にもしない。

誰しもゾンビだとわかれば、震える足を無理やり動かし、恐怖によってその場を逃げ出すであろう。

だが、空は違った。

恐怖を感じていないわけではない、だが恐怖より勝るものがあった。

月が池に映り込み、その偽物の月の上を通り、まっすぐ彼女は空へと向かっている。まるで三日月の夜空を裸で泳いでいるように。

月明かりに照らされた遊泳者のその顔は、見たことがある。

「沙原……彩愛……」

空がその名を口にする。

彼女はそれを呼びかけと受け取ったのか、それに呼応するかのように、池から這い出てきた。

池の周りに張り巡らされた柵に向かって、ゆっくりとした足取りで、まさにゾンビのように辛うじて人間に近い左腕と、骨がむき出しになった右腕を前に突き出し、生者を求めるように両腕を前に突き出して歩む。

そして柵に掴みかかった。

ゾンビ映画のように、柵を無理やり破ってこちら側に来るかと空は考えたが、その期待は裏切られた。

柵はまるで溶けたかのように彼女を通し、柵にはまるでカートゥーンアニメーションのように、彼女が通った痕跡が残されている。

柵に異常は見当たらない。まるでその部分だけ消えたようになっている。

疑問は残るが、兎にも角にも、柵を超え、空の目の前まで彼女は迫って来ている。

「恨み積もって、化けて出たのか? それとも……」

ゆっくりと、空と彼女の距離が縮まる。

だがそのふたりだけの静寂な空間に、割って入る音が鳴り響いた。

空がそちらの方へ顔を向けると、先ほどのガタイのいい方の男が下半身から血を垂れ流し、トラバサミに噛みつかれた足を引きずりながら、空を睨みつけている。

「なんだ、食われなかったのか。あのまま野生に還ってろよ」

男は何かブツブツと言っているが、空には聞こえない。

だがその表情から何を考えているかぐらいわかる。手にはナイフが握られており、まるで足の痛みを感じていないかのように、空へとおぼつかない足取りで向かってきている。

もはや意識は朦朧としているだろう。その男を突き動かす原動力は、ドス黒い感情。真っ黒なガソリンを燃料にエンジンをふかしている。

まさに命をかけたその殺意の刃を、空は軽くかわした。

「白目むいてまで殺したいのか。それにいまは、僕なんかよりもっと興味をひかれるものがあると思うんだけど?」

男の目の焦点は定まらず、誰もいないところでナイフを振り回している。

こうなってしまったのは空のせいだが、これ以上どうにかしようとも思わない。すでに空からは、この男に対する興味というものは消え去っていた。

何かあるとすれば、それは彼女が決めることである。

その空の考えを反映するかのように、男の背後に彼女は立っていた。

男は気配に気づいて朦朧とする意識の中でナイフを振るが、彼女には当たらず、そのまま男は押し倒されるような形で彼女の下敷きになる。

男は何かを叫んでいるが、言語という形にはなっておらず、口から音を出しているといった表現が正しい。

彼女もその音を耳障りだと感じたのか、男の首筋に噛みついた。

グチャグチャと肉塊の咀嚼音が鳴り響き、その音にかき消されるかのように男の音は小さくなっていき、やがて消えた。

その光景は、まさしくゾンビそのもの。

先ほどこの男が言っていたことから察するに、男と彼女は知り合いのようだったが、それはもう関係がなかった。

彼女のその行動は、復讐などではなかった。もはやその男を食料か何かとしか思っていないように空には見えた。

「これも……罪が返ってきたってことかな……」

空は彼女を邪魔することなどなく、彼女の食事風景を観察している。

そしてその観察によって気づいたことがあった。

彼女の骨の右腕に、だんだんと肉が付いてきている。まるで映像を逆再生しているかのように、肉が骨にまとわりついていく。

それに反して、男の方にも変化があった。

男の腕。その指先から骨が突き出している。じっくり見ていると、肉が引っ張られ、それによって段々と骨が肉を突き破ってきているのがわかった。まるでくつしたを引っ張りすぎて穴が開いたように。

食事というよりかは、吸い上げているのが正しいのかもしれない。

などと空が考えている内に、彼女は食事もどきを終え、男は肉を吸い上げられ残ったのは服と骨。

そして彼女と目が合う。

彼女は赤子のように這いずりながら空に近づくと右腕を突き出し、空に掴みかかろうとしている。その腕はもう骨だけではなく、人間の肉が包み込み、きちんとした腕になっていた。

とりあえず空はそれをかわし、これからどうするか考える。

「ゾンビに噛まれたらゾンビになるって感じじゃないし……完食してるし。そもそもゾンビじゃなさそうだよな……」

空の言葉に彼女は答えることはなく、空に噛みつこうとのっそりと動き、それをかわされ空気を噛んでいる。

ひとまず空は着ていたジャケットを脱ぎ、彼女に羽織らせる。まず目のやり場に困るし、こんな寒空の下で裸は、見ているこっちが鳥肌が立ってしまう。

だいぶましにはなったが、それでもまだまだ。

空は彼女の腕を掴んで立たせると、池から踵を返した。掴んだその腕は氷のように冷たく、彼女が生きていないことを空は確信する。

「しょーがねーからまずは」


「オイオイオイ、ちょっと待って、だいぶ待って? お前……なにしようとしてんの?」


空が彼女の手を引っ張って一歩踏み出したその瞬間、眼前から声が響いた。だが空の視界の中に、人影はない。

どこか木の後ろに隠れているのかと考えたが、それは違う。声はもっと近くから聞こえた。見える範囲に居るはずである。

「ここだよーん」

声が空のほぼ真下から聞こえた。見るとそこには水たまりがあった。だが水にしてはドロドロとしており、ゲル状のものだと空が思った矢先、水たまりが動いた。

水たまりは何かに引っ張られるかのように盛り上がり、形を変えていく。その水には意思があり、声の主はこれだと空が気づいたとき、水たまりが人の形を取る。

ゾンビの次は、液体人間リキッドマン

「なあお前、何してんの? お前がしようとしていること、イカレてるって気づいてらっしゃる?」

液体人間の言い方からして、どうやら空に対して文句があるようだ。

「なんだ、お前?」

とりあえず言葉を発さない彼女とは違い、この液体人間とはコミュニケーションが取れそうである。空の問いに、液体人間は軽く会釈し、空に答える。

「何だお前? と言われちゃったら“クリアスライム”と名乗るのがいまの俺。それとお前のことは知っている、瀧上空」

クリアスライムは名乗ると同時に、空の名前を言い当てる。

こちらのことを知っている。だから空は警戒を強めた。なにせ空の知り合いには、こんな液状の生命体などいないからだ。

「僕に、用?」

空は冷淡に言い放つ。

普通の人なら何かしらの興味を液体人間に示すだろうが、お前に興味はないと空は露骨に態度で示す。

その反応に、ほお、とクリアスライムは関心を抱いたようである。

常人が示すであろう対応を取らない。つまりはその心情は常人とは離れていることを指し示している。大多数の輪から離れた人間は、狂人と後ろ指をさされるのが世の常。その態度がわざとであろうとも、狂人の模倣をするものも、また狂人。

クリアスライムは少し考え、首を縦に振り、用向きがあると肯定する。

「状況の変化、それで事情が変わった。観察と報告ってだけのバイトだったが……。お前がそうするならば、俺も変えなければなぁ?」

液体で作り上げられた腕を上げ、その見づらい指で空を、その彼女の腕を引く手を指す。

「ダメでしょ人里に連れていっちゃあ。だってゾンビってのには、人を恐怖に陥れる確固たる理由がある」

その言葉はすなわち、空との対立を意味する。

クリアスライムの液体の体が揺れ動く。人間の腕を形作られていた部分が変異し、右腕が刃に、左腕は平たく、うちわのような形になる。

「いい子になりな。うちで飼ったりしませんって態度を取りな。そしたらまあ、考えてはやるよ」

空とクリアスライム、お互いの距離はごくわずかなもの。その液状の体を駆使すれば、リーチなど関係ないだろうが、それも些細な問題であるほどに、元々近すぎる。

誰がどう見ても、空が液体に襲われる未来しか見えない。

だが空は彼女の体を引き寄せ、密着する。お前が望む子に育ってないと態度を変えない。

そんなことはお構いなしに、彼女は空に噛みつこうと顔を狙うが、それを空はかわす。

「僕が、いい子に見えたのか? どうやら目はよくないみたいだな」


クリアスライムが、左腕を振るった。

平たい液体のビンタが、空の頬を目掛ける。

空は考える。どうして両腕を刃にしないのかと。一見、水のうちわなど大したことのないように思えるが、それでもその形を選んだということは、何かしらの自信か、狙いがあるように思える。

人間が水場に飛び込む際は、角度をつけると、プールでの授業がある学校では習うだろう。そして水面に対して水平に飛び込んだものは、たいてい腹部を強打し、しばらくその痛みに悶絶する光景が、思い出される。

ただの水と侮るなかれ。

高圧で水を押し出せば、金属でさえ両断する。液体が変形する前に固いものを押せば、貫くことさえ可能である。

雨だれ石を穿つというように、ただの水だとその平手を食らい続ければ、痛い目を見ることになるだろう。

水が脅威であることは、右腕を刃をにしている時点で、クリアスライムも承知の事実。

そもそもただの水だと断定するには、まだ早い。狙いも何もわからない。

だから避ける。

一瞬にしてクリアスライムの目の前から空の姿が消えた。無論同時に彼女も。

クリアスライムはキョロキョロと探すが、その必要がないほどすぐに空の姿を捉える。

いまの一瞬にしてはかなり離れた場所で、切り株の上に空が彼女を座らせている。

「少し、待っててくれ」

彼女からの返答はなかったが、その代わりと言わんばかりに、空の腕目掛けて、ゆっくり歯を伸ばしている。

ガキンと歯が無を噛み、続けて彼女は空を狙うが、気づけばもうそばには立ってはいない。

彼女を巻き込まないように十分な距離を取り、空は再びクリアスライムに相対する。

「わからねぇなぁ。どうしてそこまでその女を構う。別に問題ねぇだろ、ソレがどうなろうと。まさか惚れたか?」

惚れる、人間ではないゾンビもどきに。

そんなありきたりな思い付きに、空は思わず鼻を鳴らして笑う。

「わからないだろうな。これは、僕に返ってきた罪なんだから」

ハイ? とクリアスライムは首を傾げ、傾げすぎて液体の首が落ちる。落ちた頭はそのまま足元から吸収され、再び頭を形作る。

罪が返ってきた。空の、彼女に対して犯した罪が、いまこうして返ってきている。そう空は言っているのだ。

「僕は彼女の人生に、結果としてとどめを刺した。裏付ける証拠に、その罪がいま返ってきたのさ。これから僕は彼女に、贖罪しなければならないんだ」

空は構える。手のひらを、真っすぐ伸ばす。形を手刀に。刃の形に。

「邪魔するな。これは僕の問題だ」

クリアスライムは、理解した。

思わず笑いがこみ上げてくる。何もない液状の顔が裂け、まるで笑みを浮かべているかのように隙間が産まれ、その中では重力に引っ張られて無数の液体が上から下へと落ちている。まるでよだれを垂らすかのような笑み。

「ハッハッハ。マジかよ。やっぱり、お前ヤバいな」

クリアスライムは両腕と、両足を地面の中へと沈めた。そして液体の全身が蠢き、無数の触手が顔を覗かせる。

「実は最初から聞いてたけどよ。お前罪罪罪罪うるせぇんだよ! 罪っ子ちゃんは罪が大好物ですってかぁ? プロフに趣味は罪です。好きなものは罪です。とか書いたりしてたら痛すぎだろ? 悪人ぶりやがってよ!」

液状の触手が勢いよく飛び出す。空は身構えるが、触手は空を無視して周りの木々に張り付いていく。

触手が揺れ動き、触手の膨れ上がった部分がクリアスライム本体を目掛けて進む。まるでホースのように、木の水分を吸い上げ、本体へと送り込んでいる。

木々から水分が失われていくに比例して、クリアスライムの体が肥大化していく。

「人間風情が、罪だの罰だの。おこがましいと思いなさいよ」

巨大になったクリアスライムの影が、空を黒く覆いつくす。照らされる月光を奪う。

どうやらこのまま空を柵へと追い込み、その巨大な液状の体で包み込んで、溺死させようとでもしているのだろう。

まるでゆっくりと、津波が迫って来ているように。

だが空は、慌てず騒がず、動かない。次がどうなるか待っている。まるで何が起ころうと、余裕だと言わんばかりに。

「見せろよ。お前の力を」

クリアスライムがそう言い放ち、ジリジリと距離を詰める。

液状の壁が柵に到達し、完全に左右の逃げ道を塞いだ。だが空はまだ動かない。黙って静かに、クリアスライムを見上げている。

クリアスライムから巨大な雫が一滴落ち、空はそれを体を逸らせてかわす。

何か仕掛けてくると、空はようやく動こうとしたが、クリアスライムからそれ以上動きはなかった。

違和感を感じると同時に、月光が空の顔を照らした。

クリアスライムの体が、縮んでいる。まるで月光の熱さで溶けたアイスのように、さきほど吸収した水分が漏れて水たまりが広がっていっている。

「この……感覚。この……感じは。アイツか!?」

クリアスライムが叫ぶ。縮むことを抑えられず、水分が全身から抜けるのを止められずに。

そして元の大きさに戻った。

「野郎……野郎がいるのか? この近くに! この感覚は!」

クリアスライムは膝を付き、地面と顔を見合わせる。苦しむことを表すように、まるで汗のようにクリアスライムの全身から無数の水滴が浮かび上がっている。

そして体が後ろに引っ張られたかのようにのけぞると、首と思わしき部分から、血が噴き出すように勢いよく液体が噴出した。

空は最初それが何らかの攻撃かと思ったが、その水の勢いは空の元まで届いていない。

首から噴き出す液体を止めようと手で覆うが、その液状の手を貫通して液体が吹きだす。それを止めようとまた反対の手で覆うが、また同じことが起こる。

「クソッ! 違う! 俺はもう死なん! 液体だ! 液体なんだ! 俺はクリアスライムになったんだ! 液体人間は、首に鍵をブッ刺した程度じゃ死なない! 死なないんだよォ!」

クリアスライムは錯乱したのか、同じ言葉を何度も繰り返し叫ぶ。

「どうした……罪でも返ってきたのか?」

「うるせぇ! ゴミカスゥ! それしか言えんのかお前はァ!」

空は笑いながら挑発するが、先ほどのような態度はもうクリアスライムから消えていた。

クリアスライムの体から、首を抑える腕とは別に、もう一本腕が生えた。その腕は無造作にクリアスライムの内側に手を突っ込み、中から注射器のようなものを取り出した。

中身の液体は黄色く見える。

間髪入れずにその注射器を自らの液状の体に突き刺し、注射器をひねることによって中の黄色い液体が、クリアスライムの体に流れ込む。

「イエローフラッシュ……か? 禁断症状か……鎮静剤代わりか」

麻薬であるイエローフラッシュはクリアスライムの全身を駆け巡り、まるで血管を黄色く色づけしたかのように、クリアスライムの体内に枝が描かれていく。

クリアスライムの全身の血管に行き渡ったところで、液状の体のブルブルとした震えは止まり、収まったようにも見える。

兎にも角にも、いまのクリアスライムは隙だらけ。

これ以上、空はこの液体人間に付き合うつもりはなかった。


クリアスライムの体内から、黄色い色素が消え去り、イエローフラッシュが吸収されたことが意味される。

液体の動機は収まり、首から液が噴き出すこともない。

クリアスライムは立ち上がって辺りを見回すが、もう空の姿はどこにもない。もちろんゾンビもどきの彼女の姿も。

クリアスライムはまた自分の体の中に腕を突っ込むと、今度は中からビニールのパッケージに入ったスマホと、電子機器に対応したペンを取り出した。

ペンでパッケージ越しにスマホを操作すると、どこかに電話をかけだした。

「……もしもし社長さん。クリアスライムです。とりあえず言われた通り出てきましたよ。およそ人間とは呼べないものが。そんで多分いま街ですね」

電話口から男の声が響く。

『そうか、ご苦労だった。これで君のバイトは終わりだ。あとは自由にしてもいいが……君に任せよう』

「気になるに決まってるじゃないすか。追加のバイト、お待ちしてますよ。それと目撃者がひとり……というかゾンビもどきさらっていきました。白馬の王子サマですハイ」

『そうか……その件に関しては、私が対処しよう。君はゆっくり休んで、その新しい体に慣れたまえ』

「本当に感謝してますよ、それについては。それでは、お言葉に甘えてしばらく休みます」

報告を終え、クリアスライムは通話を切る。

スマホ一式を体の中にしまう。しばらくその場で考え、漏れた液体を補充しようと思い至る。きっといまは脱水症状に近い、かもしれないのだから。

だが池は、まだ黒い水に染まり、月が映るその様は、まるで夜空。

吸ったら絶対に危険だと直感を信じ、このまま下山することにする。

だが先ほどのことを思い出す、クリアスライムの奥底から、笑いがこみ上げてくる。

「見たぜ……見たぜ見たよ見たわよソォラァ……」

笑いを止める理性などもはやない。なにせ自分はもう人間とは呼べない、別の何かなのだから。湧きあがるこの感情を、止める必要性など皆無。

だからクリアスライムは、迷って森から出てきたクマに襲いかかり、液体の体で包み込む。

チューチューとクマの体液を吸い上げ、その証にクリアスライムの体が赤く染まっていく。

まるで顔で感情を表せなくなった代わりのように、その赤は、いったい何を表現しているのだろう。

下品な笑い声を、クリアスライムは天に向かって響かせる。

「見ちゃったよォ! ご立派なテント張りやがってぇ! おにいさん心配でしょうがないわぁ!!」

真っ赤なクリアスライムはクマから離れると、水分を失って干からびたクマが横たわる。クリアスライムは体を沈め、ゆっくりと地面の中へと入っていく。

「ゾンビに劣情を抱くなんて、異常だよ。本当にお前は、どうしようもない」

クリアスライムの背に、三日月が映る。

今宵は三日月。

悪鬼たちは、三日月の晩に浜辺を目指して泳いでくる。

ゆめゆめ忘れることなかれ。

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