火花は目にも止まらぬ速さで散る 6
月が落ち、日が昇る。
永劫に続く観覧車に閉じ込められたふたつの星。正確に刻まれる宇宙の時計。
朝日に照らされた雨生ヶ池。まるで何事もなかったかのように青緑に染まっている。色が抜けたか、上から染められたかは梅雨知らず。池が黒かったなど考えるものはいない。
だが、例外というものはある。
この池で起きた昨夜の異常に、気づいた者がふたり。和服に身を包んだ若者と老人の二人組。
誰よりも朝早くこの場に集い、現在から過去を見破る。
池の脇にある森の中を調べていた若者が池の前へと戻り、切り株に腰掛けている老人の元へと歩いていく。
「森の中で別の死体を見つけた。警察には通報しといたから、長居は無用だな」
若者の言葉に老人は頷き、重い腰を上げて立ち上がる。
「して、輩はどこにいるのか見えるか? 兄上」
老人は若者のことを兄上を呼んだ。どう見ても若者が老人より年上には見えないが、現実は違った。
若者、エイボンの年齢は600を超えており、対して老人、
数百年共に育ったふたりの関係は、血の繋がりのない兄弟であった。
何も知らぬ者たちには、そんなことなど知る由もない。
エイボンはその宇宙のように黒い瞳で、山から街を見下ろす。とはいってもふたりがいま居る標高は低く、絶景とはいえぬ景色が眼前に広がり、街の全貌が一望できるわけではなかった。
しかしそんなことは、エイボンにとっては大したことではなかった。
その宇宙のように黒い瞳は、まるで鳥のように最果てを見渡す。
「見当たらんな。恐らくまだ完全ではないのだろうよ。だが出てきたのは下の上にいる“漁師”。肉をすこし食えば完全になれる」
「運が悪ければ、後手に回ってしまう……犠牲を許してしまいますな」
歯がゆい思いで勇は言葉を口にする。
「ああ。だが守り人として、守れる限りは守る。俺らにとって見ればこの街の住民はみんな子どもだ。数百年経とうが、犠牲が出ることに慣れるつもりはない」
エイボンの言葉に、勇は少々バツが悪そうに表情を曇らせる。それを見たエイボンはしょうがないといった風に、息を漏らす。
「守り人に戻ろうなんざ考えんでいい。お前さんは家族を選んだ。それが一番正しい。時に取り残される苦労は、お前さんが一番よく知ってるだろう」
「しかし事情が変わった。海と陸が繋がり、また海から悪鬼が浜辺へと上がってきたのは事実。数百年、守り人の務めを果たすため鍛えたこの技。いま振るわずして誰を守れましょうか」
「それをやるのが俺だよ。不老なんざくだらない。現に後続がおらず、俺たちが死ねば守り人はいなくなる。だからお前さんは正しい。さて、問答はこれくらいでしまいだしまい。漁師を探すぞ」
「……兄上」
エイボンは煙管を取り出し、口に咥えて煙をふかす。池の前を見渡しながら、見えぬ敵の居所の手がかりを探す。
破られた池の柵。捨てられている空き缶。そして水分を失ったクマの死骸。痕跡は十分にある。
残っているのは先ほど森の中で木に串刺しになっていた男の死体。そしてすぐそこに転がっている白骨死体。
エイボンは疑問を頭に浮かべる。白骨死体は食われたと見て間違いないが、ではなぜ森の中の死体は食われていないのか。
「しかし参りましたな。てっきりワシは里に引き寄せられるかと思っとりましたから、まさかおらんとは」
勇の言葉にエイボンは頷く。
「ああ、さっき邪魔してきたが。誰も見てないそうだ。入ってくればみんな気づくはずだ」
この山の中に現れて、真っ先に街に引き寄せられることはあり得ない。何か特別な理由でもあるのか。それとも単純に、もっとウマいエサでも嗅ぎつけたのか。
しかしそうでないのならば。
「居たな……もう数人」
エイボンは足元を見つめる。地面がぬかるみ、履いている下駄に泥が付く。数日雨が降っていないというのに、地面が濡れているのはおかしい。
「水か……」
これほどの水をまき散らせる存在に、エイボンには数人心当たりがあるが、それにしては規模が大きすぎる。見知った顔の中にいる者たちには不可能と断定する。
「流れ者か、それとも新人か」
エイボンは煙を口から吐き出す。この街で、ありえない存在が生まれるとすれば、その場所は限られてくる。だがその背景を考えると、納得できない点が多すぎる。
こちらの想像外の動きをするものは、たいてい子どもと相場が決まっている。
「子ども……」とエイボンは口の中で呟く。
「勇。お前さんの孫たち、元気か?」
「? ええ、まあ変わりなく。とは言っても兄上が会ったのはあの子たちが幼い頃ですから、だいぶ大きくなりましたよ」
「そうだよなぁ……生まれた時くらいしか会いに行かないからなぁ」
「兄上は多忙ですから。今度お暇なときにでも、顔を見に来てください。まあふたりとも兄上のことを知らんでしょうから、喜ぶとはいきませんが」
エイボンはそうするよ、と答える。ふと思いついたから聞いてみたが、考えてみれば全然会いに行っていない。小さい頃から成長を見てきた家族の子、孫たちはひとりだけだったかもしれない。
しかしまあ、どこの家庭もたいてい親戚のじいさんに会うのは、年に一回程度だからいいかとエイボンは考えたが、よくよく考えれば年に一回すら会っていないのであった。
もっと家族を大事にせねばな、と肩を落として
かがんでぬかるんだ地面の中へ手を入れ、それを拾いあげてまじまじと見る。
「……勇。今度じゃねぇ、今からお前さんの家にいくぞ」
「構いませんが、漁師の方は?」
「だから行くんだよ」
エイボンは拾い上げたものを勇に見せる。それは枯れ葉であった。ただし、葉の一部が焦げてなくなっている。
「これがなにか?」
エイボンはその問いに答える代わりに、街を見下ろしている。
その視線の先にある場所は、街の西側。そこには勇の家がある。
「空に、最近なにかあったみたいだな」
「……ええ。一度、終わった。空がいったい?」
エイボンは焦げた枯れ葉を顔に近づけ、葉越しに街を見る。
「お前さんが気づかないのも無理はない。肉眼ではわからんだろうよ、このズレは」
その黒い瞳に映る街並みは、焦げているように見える。まるで街が燃えたかのように。
「水と……火か」
嫌な予感がエイボンを駆け巡る。そして最も嫌なことは、この予感は数百年生きた感覚から出るもの。外れることはまずない。
エイボンの瞳には、瀧上空は映らない。まるで世界にモザイクをかけられているかのように、その姿がブレる。
「まったく。どうしてうちの一家の若いもんは、厄介ごとを連れ込むのかね」
「やぁべぇなぁ……。どうしよっかなぁ……」
裏海の街の西側。祭華村家の広い屋敷。その中の瀧上空の自室。
無論空の自室なのだから、空が居る。だが今日はいつもと違い、もうひとり居た。
勉強机のイスに腰掛け、後ろを振り返る。そこには布団でグルグル巻きにされた女がいた。
肉にまかれた野菜のように真ん中から顔だけ出し、開いた口からダラダラとよだれが垂れ続け床に水たまりができん勢いである。
空は足でぞうきんを動かし、定期的によだれを拭いているが、注意を払わなければならない。
なにせ足を近づけた瞬間、まるで動物のように噛みつこうと牙をむいてくるからである。
昨晩深夜に彼女と共に帰宅したのはいいが、その後どうするかまったく考えていなかったし、何をしようかまったく思いつかない。
空の頭の中では、彼女は言わばこの世に未練が残った幽霊のようなものであり、その未練を解消すればよいといった風なことを考えたが、そもそも未練など知らない。
彼女と共にいた時間はたったの数時間。それで人を理解できるほど、空は優れた才能を持ち合わせてはいない。
ふと時計を見ると朝の六時。そろそろ朝飯を作らなければいけない時間だが、家の中で彼女から目を離すのは流石に危険すぎる。
それに昨夜から一睡もしないで、これからどうするか考えながら見張っていたので流石に眠い。
「しょーがねー……背負うか」
昨晩から寝たら彼女に噛まれると警戒していたが、それは杞憂のように思えてきた。昨晩ゆっくりと、だが止まらず動く彼女をなんとか押さえつけ、ひとまず布団で巻いたが、そこから動きはにぶかった。
もっと青虫のように動いて噛みついてくると思ったが、そのようなことはまったくなかった。少し揺れ動くだけで大きく動くことはなく、とてもおとなしいと言うのが正しいかもしれない。
それほど注意深くならなくとも、噛みつかれることはまずないと空は踏んだ。
兎にも角にも、ひとまず彼女を布団から解放し、服を着せようと試みる。なにせ彼女をジャケット一枚羽織らせたままグルグルに巻いたので、布団から出せばほぼ裸の彼女が現れる。
由愛の服を勝手に借りるわけにもいかず、第一サイズが合わない、仕方なく空の服を着せようとタンスからTシャツとズボンを取り出した。
「下着は……いや、どうせ見える場所ではないし本人も気にしないからいいか」
折りたたまれた服を脇に置き、布団のロールケーキに手をかける。
縄代わりに使っていた電源コードなどの様々なケーブルをほどき、意を決して布団から彼女を解放した。
ハラッと布団は元の形状へと戻っていき、まるでふろしき包みを開けたかのように、布団の中からジャケット一枚だけを羽織った裸の女性が現れる。
布団がほどける途中から彼女はすでに動き出しており、すぐに噛みつこうと空に腕を伸ばしてきている。
それを利用して空はまず彼女からジャケットを剥ぎ取り、伸ばしてくる腕に向かって服を着せようとしたが、なかなかどうして上手くはいかない。
なにせ彼女は常に動き回っているため、子どもよりタチが悪い。
子どもならば大はしゃぎする子でもある程度言うことは聞くと思うが、いやわからない、これよりもっと酷いかもしれないが、それを知らない空にとってはまるで子どもの世話をしているように思える。
なかなか腕が袖に入らない。服の中を覗いてどうなってるか確認するごとに噛みつかれそうになり、遅々として進まない。
「うーん、まさにそうはさせんと問屋が風吹かす」
四苦八苦している拍子に完全に彼女が服から抜けてしまい、また振り出しに戻ってしまう。そんな苦労は梅雨知らず、彼女は常に空に噛みつこうと迫る。
「仕方ない。危ないけど、それほどチャチャチャッとやらなきゃ大丈夫だろ」
空は服を持って構える。その構えから醸し出されるものは、絶対に服を着せるという意気込み。
「ハイバンザーイ!」
そしてその構えから服を着せる技が放たれる。とその時、空の部屋の戸が、特に音も立てることなく、静かに横にスライドしていった。
「ねぇおにい。おじいちゃんが朝っぱらから出かけるって書き置きが……」
戸が開いて姿を見せたのは由愛であった。由愛が部屋の中を見ると同時に、振り向いた空と目が合った。
その手にはペンで『散歩してくる』と大きく書かれたチラシの裏を持ち、すでに中学の制服に着替えて、朝の身支度は終わらせていた。
そして由愛がまず目にしたのは、白であった。正確に言えば真っ白ではないのだが、死人である彼女の肌は青白く、知らぬものにはそれが美しく見えるであろう。
だが問題はそこではなく、白の面積であった。大量に脳に送り込まれる白の情報によって、脳回路がうまく認識しなかった。しかし薄紅色を認識したとたんに、由愛は彼女が空の目の前で、一糸まとわぬ姿でいるということがわかるのに、それほど時間はかからなかった。
時間にしてわずか一瞬だったが、まるで世界が凍り付いたかのように、動きが止まっていた。若干一名噛みつこうとゆっくり動いていたが。
秋の朝はやはり冷えてくるものだ。
朝起きるたびに世界に氷河期が訪れたと誇大妄想が始まるが、それもすぐに終わる夢の延長でしかない。
しかしどうやら最近は妄想が現実になり始めているようだ。ニュースなどでは度々異常気象についての話題になり、世界中の異常な寒波についての専門家の話や、憶測などが飛び交っている。それがどうしたものか、ここではいち早く氷河期が始まったみたいだ。ペンギンもシロクマも思わず住処から世界中に旅立ち始めるほど、氷河期は一部地域限定で先行体験できるようだ。あーペンギンかわいいよなー。と空の思考速度は、神の領域に到達。
とにかくここは何か言おうと空は無意識に考える。アイスブレイクに必要なのはコミュニケーションである。思ったことを口に、深く考える必要などないのだ。思ったことを口にしなければ、気持ちは相手に伝わらない。
「下着を借りようかと思ったが。そんなに小さいとサイズ合わないな」
一瞬にして由愛の姿が消えた。
速い。まさに目にも止まらぬ速さで由愛は消えた。恐ろしさを覚えるほどの速さで由愛は廊下を駆ける。ドスドスと廊下を踏み抜くばかりの轟音が遠ざかっていき、そしてまたその音が近づいてきている。
「そんなにドスコイドスコイ歩いたら家が倒壊するぞー」
兄として由愛にもっと静かにしなさいと注意するが、まったく注意になっていない。もはや空はどうすればよいかわからず。またどうすればよいかすら考えていなかった。まさに脳が死んでいる。脳死である。
そして再び空の目の前に由愛が現れる。
その両手には木刀が握りしめられ、中段の構えで相対する。
その目から暖かさは消え失せ、凍てつく殺意を瞳に宿らせている。鋭い目つきで、空を見据える。
「はははドスコイ剣士。構えは良いが、ドスコーイって言いながら剣振っちゃダメだぞ」
空の口はもう脳と繋がっていない。おそらくはるか異次元のどこかと繋がり、そこから音が漏れている。
「――構えな」
「え?」
「丸腰をいたぶる趣味はない。それくらいは待ってやるよ。ついでに遺言を考えな」
「構えろって言われてもな。男が女に振るえる武器はこれ一本ぐらい――」
「必ッ!殺ッ!」
「必ず殺す一撃ッ!?」
木と肉塊がぶつかり合う鈍い音が、裏海に響き渡った。
とりあえず空と由愛ふたりで協力し、彼女に服を着せることには成功した。
そしてなぜか家の中にあった縄で、空は自分と彼女を背中合わせで由愛に縛り付けさせ、そのままの状態で空は調理場で朝食を作り上げた。
今はその朝食を三人そろって食べていた。彼女を空と縛ったまま。
「で、おにいは裸のその人と、みんなが寝静まったころに裸のまま帰宅し、ひとつ屋根の下で裸で一夜を明かしたんですか、そうですか」
なぜか裸の部分を強調しながら、由愛はバクバクと朝食を食べ進めている。
「だいたいそんな感じ」
ペチペチと空の顔を彼女の手が襲う。空に噛みつこうともがいているのだろうか、うっとうしそうに空は朝食を食べている。
「ねぇ……その人大丈夫なの? さっきケガしてるように見えたけど」
先ほど服を着せるのを協力した時、由愛は彼女の体を見ていた。その欠損した肉体を。だがどうやらケガしていると思っているらしい。
いろいろと面倒くさそうなので、ひとまず空は相手の思うように相槌を打ってごまかすことにした。
「大丈夫なんじゃね。ゾンビだし」
「ゾンビって……確かにそう見えるけどさぁ」
ゾンビというのは失礼ではないかと言いたげに、由愛は声を漏らすが、誰からどう見ても彼女はゾンビのように見える。だが由愛はそんなことは信じようとはしない。重い病気を持っているとでも考えていそうである。
「ところでじいさん……」
話している途中で、ゾンビのように掴みかかる手が、空の箸からきゅうりの漬物を強奪した。
「あ、コラ」
空の背後からボリッと咀嚼音が聞こえたが、それ以降音はしない。
食べたのかどうか頭だけ後ろを向けるが、かろうじて彼女の後頭部しか見えず、どうなったのかわからない。
しかし空の対面に座る由愛には見えていた。いくら頭だけ後ろを向けたとはいえ、少しくらい体も動く。その時体が横を向いたので、由愛には見えたのだった。
まるで皿のように、彼女の胸の上にきゅうりの漬物が乗っているのを。
「食べてる?」
「……いや、口から落ちたよ」
「野菜は食わないのか」
私は何も見ていないと暗示をかけながら、由愛は箸を再び動かす。
そういえば聞いたことがある。
おっぱいという言葉は、乙な杯が転じて生まれた言葉だと。それは江戸時代に胸を盃に見立てて酒を、いやもうこのこと考えるのやめようと、由愛は途端にむなしくなり、頭から消し去った。
またもや獲物を求めて、彼女は空の顔に手をやっている。そして空は今度はしゃけの切れ端を箸で掴んで彼女に渡した。
すると先ほどとは違い、クチャクチャと咀嚼音が鳴り響いている。
「お、魚は食べるんだな」
「ねぇ、なんかやめなよ。倫理的に」
はたから見ているとまるで動物にエサをやっているようにしか見えず、由愛はあまり見ていて気持ちのいいものではないと思った。
「しょーがねーだろー、赤ちゃんゾンビなんだから。ってうおお、魚の脂を顔につけんな」
まるでもっと欲しいと催促するかのように、彼女はまた空の顔を手で襲う。
由愛はため息をつき、こっちが何か言っても聞く耳持ってないなと諦め、見ないように紛らわすために、TVの電源をつけた。
「だーかーらーメシ終わってから」
「天気予報くらい見たっていいじゃん!」
由愛は声を荒げて空の小言を遮る。
空は仕方ないと肩をすくめて、「天気なら山の方見りゃわかる」とだけ言い残し、残りのしゃけをすべて彼女に与え、黙々と食べ進めていく。
天気予報にはまだ時間が早く、その前のコーナーで昨晩起きた事件などが流れていた。地方の番組だというのに、まるで全国放送のように事件が多く、そのすべてが裏海で起きている。そこには昨日の人体自然発火現象が流れており、由愛は一瞬身構えたが、それほど多くは語られずにすぐに次の話題に移った。
「人体自然発火ねー。不思議なことがあるもんだ」
「……おにい。私、昨日それ見ちゃった」
「へー」
普段の空ならもっと詳しく聞こうとするが、今日はなぜか食いついてこない。由愛は少し不思議に思ったが、まあ今日はもういろいろありすぎてるし、とそこまで深く考えず、TVに視線を戻す。
ニュースでは速報が流れ、また雨生ヶ池の近くで変死体が見つかったことが流れている。それもふたりも。
この街物騒すぎるなぁ、などと考えながら見ていると、前の事件に関連性があると見られると、女性の顔写真が映し出される。
「ん?」
由愛はその顔を見た瞬間、箸が止まった。なぜだかどこかで見たことがあるように思えるが、表示される沙原彩愛という名前に心当たりはなかった。
だがどこかで見たのは間違いない。そう記憶が訴えている。いったいいつどこで。いや、いつどこでという言葉に違和感を覚える。なんとも言えないが、いまここでと言い換えた方が正しい気がしてならない。
「ごちそうさまでした」
いつの間にか空は朝食を食べ終え、静かに手を合わせていた。そして縛り付けていた縄をほどくと、背中の彼女を自身の横に座らせた。
「あ」
その時、彼女と由愛は目が合った。彼女が由愛のことを見ているかどうかは曖昧だが、彼女は由愛の方を向きながら、しゃけを両手で持って、まるでハムスターのように頬張っている。その顔を見た瞬間、反射的に由愛は視線を画面へと戻した。そしてまた彼女を見る。
紛れもない同じ顔がふたつ、そこにはあった。
由愛は手から箸を落とし、箸が畳に着地すると同時に、彼女を指さした。
「ゾンビだぁぁぁぁぁ!あぁぁ!?」
「だから言っただろ、ゾンビだって」
由愛の背後から空の声がし、振り返ると部屋に入って来るところであった。食卓にはもう空の皿はなく、今の合間に片づけたのだとわかった。
空は彼女がしゃけを食べ終わるのを見計らうと、再び噛みつこうと伸ばしてくる手を、濡れたおしぼりで拭いた。
そして彼女を立ち上がらせると、そのまま手を引いて部屋から出ていこうとする。
「ちょっと待って!どこ行く気!?」
「ちょっくら街行ってくる」
「ゾンビと街に!? ダメに決まっていることをなぜやる!?」
「あー確かにテレビに顔出てるからまずいかー。帽子でも被れば大丈夫だろ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
部屋から出ていく空を、慌てて追いかけようと由愛は止めようと立ち上がるが、逆に止められてしまう。
「茶碗にご飯が残っている」
部屋の外から腕だけ入れて、由愛の茶碗を指さす。由愛は急いで座ると残っているご飯を口の中へと放りこみ、口の中に食べ物を含んだまま手を合わせ、かろうじてごちそうさまでした、と聞こえる声を出し、空を追いかける。
空の部屋へと向かったが、もうそこにはいなかった。ならばと玄関に急いだら、もう玄関の戸を開けて準備を終わらせていた。
更に彼女に帽子を被せ終わっており、ついでに変に思われないためにか、ジャケットを着せて暖かくしているように見せている。
「おう由愛。お前の履かなくなったくつ、サイズピッタリのあったから借りてくわ。ついでにじいさん見かけたら連絡するよ」
外に出ていく気まんまんのセリフを吐き、由愛に軽く手を振る。
彼女にくつを履かせるのは苦労しなかったようで、空は流れるように外へと行こうとする。まるで何も問題はないかのように。
当然由愛はそれを止めるようとする。
「ちょっと待っておにい! ホントに行く気!?」
外に行くことに問題がありすぎる。なにせゾンビを街中に連れていくことなど、ゾンビを街中に放つのとイコールなのだから。
「大丈夫大丈夫。ぶっちゃけゾンビっぽいってだけだし」
「ぽいじゃなくてゾンビでしょ!」
空は大げさだと言わんばかりに軽く由愛の言葉を流す。空の足取りは軽く、まるでこれからデートだと浮足立っているように見える。
「悪いな由愛。罪ってのはいずれ返ってくるもんだ。ということで僕は行かなければならない」
「いや意味がわからないよ!」
空は彼女の顔がよく見えないように再度深く被るように直し、何もよくはないが、よし、と言って門をくぐってしまった。
「ぐああああ!ゾンビが街に放たれたぁ……!」
由愛は頭を抱え込みながら、人は困った時に本当に頭を抱えるんだなと、ひとり納得していた。思考がうまく動いていない。もう深く考えたくない。
「いやよくねーだろ!絶対学校終わったら街がゾンビで溢れかえってるってぇ……!」
自分の知らぬところでゾンビが繁殖していることは、お決まりのパターンである。悩んでも答えは見つからない。ただあのバカおにいを止めなければならないことだけはわかる。ならば私が救世主になるしかないのか、などと悩むが、すぐに現実的じゃないと由愛は正気に戻る。
「いや、でも……いやしかしぃ……」
玄関で唸っていると、門に人影が見えた。それもふたつ。
奇跡的に忘れ物でも取りに来たか、と顔を上げるが、それは空と彼女ではなかった。
そのふたりは、男と男。それも老人と若者。
「なんじゃ由愛。なにを玄関で唸っとる?」
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