天罰執行 終
最初に感じたのは違和感。
その違和感を目覚める脳と再び動き始めた体が、明確なものに変えていく。いまはあお向けで寝ており、そして腹の上に何かが乗っている。それが違和感の正体。
のりでくっつけられたかのようなまぶたを無理やり開き、ぼやける視界がハッキリし始めたところで顔を上げた。
目を覚ました
「……ねこ?」
上葉の言葉に反応し、黒ねこは顔をこちらに向け、「ナー」と特徴的な鳴き声を上げた。
その顔は普通のものとは違い、顔の中心に赤い渦巻の形をした瞳がひとつあるだけ。シルエットは普通のねこであるために、その異質さが際立っている。
「なんだお前……ついてきたのか」
見覚えがある。あの石で出来た駅前広場で見かけた。とそこまで考えたところで、上葉は跳ね起きた。それを察知してねこが事前に上葉から降りる。
見覚えのある空間。ここは紛れもない上葉の家の寝室。寝ているのはベッド。だが服装は変わっており、エイボンが着ていたのと同じ甚平である。
ひとまずここは、石で出来ていないことを確認できた。自分はあの場所から帰ってきたのだと安堵する。
ひとまずベッドから出ると、リビングから話し声が聞こえてきた。耳をすますと男女ふたりが話しているのがわかった。誰なのか判断しようとすると、上葉の肩に黒ねこが乗ってきた。まるで早く行けと催促するかのように、上葉をそのグルグルの目で見ている。
確かに直接見に行った方が早いと、上葉はリビングへと向かった。
「――おう、起きたか。つーかそれねこ? ねこなのか?」
「よかったー上葉くん。眠ってるように見えて、魂だけこの世からなくなってたりしたらどうしようかと思っちゃったよ」
リビングに居たのは、見覚えのある顔がふたつ。
「なあ、時子がいるのはわかる。だが百歩譲ってすらなぜお前もいる」
リビングテーブルのイスには、紫苑が上葉に買ってこさせた女性向け雑誌を、真剣に読んでいる
その背後にはまるで美容師のように立ちながら、剣の赤腕を超高速で触っている
「俺だってメンドクセーけどよ、エイボンさんにお前が目覚ますまで見張ってろって」
上葉と紙面をチラチラと交互に見ながら剣は語る。時子に腕を触られていることは、たいして気にしていない様子であった。
「時子……お前いつからそうやって触ってる」
「知らねぇ!」
「久々に顔を合わせてから、隙あらば触ってきてるぜ。つーか見てないで助けて」
もう何も感じなくなった無情の奥底から剣は必死に訴えかけているが、上葉の知ったことではない。それよりもひとつ引っかかる言葉があった。
「久々?」
上葉が漏らした疑問に、時子と剣は「そういえば知らないだろうな」と言いたげに、お互いに顔を見合わせる。
「俺と蜂須賀の、父親同士が知り合いでな。まあ蜂須賀とは会食で少し話した程度だ。だからいま本性を味わってる」
すべてを諦めた剣の表情で上葉は察した。それほどに追い込まれるまで触られているのだと。
だが重要なのはそこではない。
いま父親と聞いて、少し反応してしまった。それはどうやら時子に見られていたようで、時子は少し、顔を下に背けた。
「……聞いたよ、お父さんのこと」
赤腕を撫でまわす時子の手が止まる。きっといまのいままで、そうやって自分の好きなことに集中して、考えないようにしていたのだろう。だがそんな現実からの逃避行は長くは続かない。剣も時子の父親を知っていたからか、黙ってやりたいようにやらせていたようだ。
「上葉くんは……悪くないよ。全然悪くない……」
声をかすれさせながら、時子は言葉を喉から絞りだす。人がひとり死んだのである。事故にしろ事件にしろ、どこかに必ず悪が見いだされる。それがわかっているからこそ時子はどうしようも出来ない。上葉が悪くない。ならば悪いのは自分の父親なのか。これは誰かが悪いで片付く、そんな単純な話ではない。
己の信じる正しさと正しさがぶつかりあって起こった結果。人間風情は、絶対的な善悪など決められない。
「時子、俺は」
上葉が何とか言葉を作り出そうとしたが、それを時子は遮る。
「いいんだって。それよりほら、上葉くんにはもっと気にかけるべきことがあるでしょ?」
時子の言う通り、上葉は先ほどから気になっていることがある。いまはこの話題から逃げようという提案に上葉は乗った。
「
紫苑の姿が先ほどから見えないのは、どうやらどこかに出かけているからではないらしい。いったいどこにいるかなど、上葉はここ以外に思い当たる節はない。
その上葉の疑問への答えだと言わんばかりに、剣は一枚の紙を手渡した。それは上葉がいつも大学の講義のノート書きに使っていた紙であった。手渡された一見白紙に見えるその紙には、たった一言『ごめん』とだけ書かれていた。
「もっと書いた方がいいって言ったんだけどよ、それだけ残して行っちまった」
剣の言葉に、上葉は紙から顔を上げた。つまりこれは、紫苑が書置きを残して出ていったということで、まず間違いなかった。
「なんで……」
「距離を、置きたいんだとよ。顔を合わせるのも嫌がっちまうくらい、自分を責めちまってるのさ」
剣が話す言葉足らずの書置きの補足説明を聞いても、上葉には分からなかった。いったい何が、どれが、彼女が苦に感じてしまうようなことが、思いつかない。
考えても埒が明かない。上葉は紙を投げ出すと紫苑を追うべく、玄関へと向かった。テーブルに着地した紙を追うように、上葉の肩に乗っていた黒ねこも降りた。
「行ってももう遅い」
剣が制止するが、上葉は聞く耳を持たずコートを羽織る。
「――お前は、丸三日寝てたんだぞ」
その言葉に、上葉が止まった。後ろは振り返らず、少しだけ開いた玄関の隙間から入る冷たい風を、肌で感じている。
「
現代の技術を持ってすれば、三日もあれば日本を横断出来てしまう。誰にだってわかる事実。だが上葉はそんな現実から目を背き、扉を開けて外へと飛び出した。
「逃げたなアイツ」
ハァッとため息をつくと剣はイスにかけてある自分のコートを手に取ると、上葉を追いかけるべく玄関へと向かった。
「悪いな蜂須賀。お目付け役なもんだから、留守番頼んだ」
うん、と時子は頷いて了承したが、すぐに剣を呼び止めた。
「和道くんその、お父さんのお葬式に行けなくて、ごめん……」
剣はコートを羽織り、手袋で赤腕を隠し、身支度を整えながら話す。
「気にするな。あの日はお前の兄も……。いや、それ以前にそこまで親しい間柄でもないだろ」
軽く笑みを浮かべながら、剣は気遣う。時子もそうだね、と頷きながら、笑みを返す。
「久々に会えてよかった」
「うん。私も、会えてよかった」
そうお互いに言葉を交わすと、剣は玄関の戸を閉めた。バタンという音を最後に、家の中が静寂に包まれる。
だがそれをかき消すように、テーブルの上で黒ねこが鳴きながら伸びをし、卓上で丸くなった。
「ふたりっきりになっちゃったね。というかキミはねこ? ねこなのか?」
そう話しかけながら、触ろうとそーっと手を伸ばすが、感づかれてか黒ねこは時子の手から逃れ、上葉の部屋へと飛んでいってしまった。だがすぐにリビングへと戻って来る。その黒ねこの口元には、布で包まれた平べったい何かを咥えている。
そして軽々とテーブルの上に乗ると、時子の前に咥えていたものを置いた。
「? くれるの? ナニコレ」
時子が布を取ると、包まれていたのはガラスの破片だった。
「割れたガラス? 普通に危なくね?」
手を切らないように注意しながらまじまじとガラスの破片を見るが、特に変わったような部分はない。ただのガラスの破片である。
「……まあ、危ないし……後で捨てておくか」
そのまま時子はガラスの破片をパーカーのポケットにしまった。そして片手に残った布に視線を向け、目の前で広げてみる。
「……以外と、きわどいの履いてるね」
探すにしても、行く当てなど見当もつかないのが本音である。一通り街中を全速力で駆け巡ったが、途中で現実が身に沁み込んでいき、失速していった。
とりあえず上葉は駅前の広場に設置されている石のベンチに腰掛け、色々と考えていた。
「やっぱここにいたか」
聞き覚えのある声に顔を上げると、手袋で赤腕を隠した剣が立っていた。
「この街でみんなが集まる場所って言ったら、ここぐらいしかねぇだろ」
確かに、と同意しながら剣は上葉の横に腰掛けた。
そのまま沈黙の時間が訪れる。ふたりの目の前には多くの人が行きかっている。元気に走り回る幼児を見守る親。待ち合わせをしている学生たち。仲よくどこに向かうか話し合うカップル。
上葉はあの石の街を思い出していた。あの無人の街は印象に深く残り、ここがいつもは人で賑わうことを忘れていた。だがいまは、そんなことはかなりどうでもいいと上葉は思った。自然と深いため息がでる。
「なんかお前、露骨にテンション低いな。死んだ魚の目より目が死んでるぞ」
「……ん、そうか?……」
剣に生返事をし、また深いため息をつく。上葉の話す声のトーンはどんどん下がっていってる。その様子を見ていた剣は、ひとつのことに合点がいった。
「なるほどな。確かに、女に絶賛麻薬中毒だ」
ついに上葉は返事すらもしなくなり、剣もそれ以上何かを話すことなく、黙って変わりゆく広場の光景を見続けている。
「……なあ、交換条件てのはどうだ」
ふたりの周りだけの沈黙を破り、剣は口を開いた。
「俺は、これから神速を探しだす。そのついでに玄河を、お前にとってはそれがメインで探すってのは、どうだ? どうせお前もヒマだろ。ふたりなら二倍ではかどる」
その言葉にようやく上葉は動いた。剣の表情に視線を向け、沈んだ面持ちと浮かんだ面持ちが、上と下から目線がぶつかる。
しばらくして上葉は下を向いた。だがすぐにフッと鼻で笑うと、顔を上げた。その顔色に、さきほどの暗さは見られない。
「――しょうがねぇ、ついでだ。手伝ってやるよ、お前の、神速探し」
契約成立の合意として、ふたりは黙って拳をぶつけた。
裏海の街中にひっそりと佇む、レトロな喫茶店。
相も変わらず鳴らないチャイムベル。店内に音楽はかかっておらず、響き渡るのはサイフォンコーヒーの音。そしていま現在、店内唯一の客である金髪の女性が奏でる、コーヒー片手に読書を楽しむ、ページをめくる音がBGMの代わりである。
そこへ新しい音が加わる。ゆっくりトントントンと、上から階段を降りる音が近づいてくる。
「……おはよう……ございます」
低い、地獄の底から目覚めたと言わんばかりの覇気のない声が、店の奥から現れた。
ボサボサに自由気ままに伸び放題の髪を掻き、さらにボサボサにしながら紫苑は、カウンター内で作業を進める店長の目の前に座った。
「おはようって、アンタもうお昼だよ。お腹すいた?」
「はい……」
すぐさま紫苑の目の前に、まだ暖かい三枚重ねのパンケーキが置かれた。それもハートの形をした。まるで紫苑が目覚めることを見越していたと言わんばかりに。そして流れるようにメイプルシロップと牛乳が皿の横に置かれる。
「あとこれ。賞味期限切れそうだからデザートに食べちゃって」
そしてフィニッシュにプリンが隣に添えられる。
店長はすぐに作業を再開し、再び静寂の音楽が奏でられ始める。紫苑は蚊の鳴くような声で「いただきます」と言うとシロップをかけ、ナイフとフォークでパンケーキを食べ始める。
「……なんだか、お母さんにお世話されてるみたい」
「そうかい? 私はペットの世話してるみたいだよ。雨ふってるのに傘も差さずに、ワンワン泣きながら歩いてるの拾ったから、なおさらね」
紫苑はどうせ前髪で表情はわかりづらいというのに、その出来事は思い出すのも恥ずかしいと顔を伏せる。
「それでアンタ、これからどうするんだい。さっき時子から連絡があってね。上葉、起きたってさ」
店長の言葉に思わず紫苑は顔を上げそうになったが、我慢して顔を下に向けたまま、一口サイズに切ったパンケーキを口に運ぶ。
「アンタねぇ、ちゃんと上葉がどう思ってるのか本人から聞いたんだろ?」
紫苑は黙って頷いた。
「じゃあアンタはちゃんと、自分の想いを自分の口から言った?」
その言葉に今度は首を横に振る。
「アタシが……会いたくないんです」
紫苑はナイフとフォークを置くと、カウンターに両手をしがみつけた。このまま力を込めていれば食器を割ってしまうと思ったから。
彼のように、私があのとき彼を漆黒に変え、壊してしまったように。
離れなければ。また彼を漆黒に変えるのは嫌だった。でも、本当は。
「会いたくてもが、抜けてるけどね」
店長はすべてを見透かしているように、紫苑の本心を代弁した。その証拠に紫苑は否定できなかった。それは否定したくないから。まるで言ったら本当になってしまいそうな恐怖に襲われる。
「まごついてると、傷心の男を他の誰かに取られちゃうかもよ」
「……どこにいるんですか、そんな人」
紫苑の問いに店長はカウンターに頬杖をついて、んーと小さく唸りながら考えると、おもむろに自分を指さす。
「じゃあ私が」
「それはダメ!」
紫苑は自分でも驚くほどに大声を出してしまい、とっさに口を手で塞いだ。だが店長はまるで分っていたかのように、特に驚きもせずニヤニヤと笑みを浮かべている。
「騒がしくしてごめんなさいねー」
店長は店内唯一の客に向かって謝罪を述べる。だが女性はお気になさらずにと言いたげに、片手を上げて合図を送る。
紫苑も「すいません」と萎縮しきった小さな声で謝る。心なしか体まで縮こまっているように見える。
「……いいんじゃない?」
突然の店長の言葉に、紫苑は顔を上げた。その言葉は、いままで紫苑は店長が上葉に会いに行けと、言っているのだと思っていた。だがそれはまったくの真逆。紫苑の想いを肯定する言葉。会いたくなかったら会わなくていいという意味。
「別に誰もすぐに答えを出せって急かしてるわけでもないし、考える時間が欲しいんでしょ? でもその間は上葉と顔をあわせづらい。それでもいいでしょ」
その言葉に紫苑は安堵を覚えた。これはまるで上葉と過ごしていた時と同じ気持ち。この時紫苑は知った。上葉以外にも、自分の気持ちを尊重してくれる人がいるのだと。それはなんだかうれしいことだと。
「でも問題はその間どこにいるかだね。ここなんてすぐ上葉来ちゃうし」
確かにと紫苑は慌てた。話を聞く限り上葉はここの常連客。しばらく会わない方針でいま心が決まったのに、バッタリ鉢合わせでもしてしまったら意味がない。
しかし他に行く当てがない。悩んでいると、不意に店内に小さくパタンと、本を閉じる音が響いた。
「――じゃあお嬢さん。私と来るかい?」
その声の主は消去法でただひとり。そちらの方を向くと金髪の女性は席を立ち、紫苑の隣に並び立つと、カウンターに寄りかかった。
「私がこれから行くところは、この街の近く。でも君の恋人には決して見つからない場所でもある。そこが嫌なら、また別の場所に行けばいい」
そう言いながら女性はサングラスに手をかける。黒いレンズの向こうには、太陽のように輝く黄金の瞳が、紫苑の黒い瞳を見つめている。
「私はゾーイ・キャロル。で、乗る? 乗らない? さっさと決めな、お姫さま」
突然の出来事に紫苑は思考がうまく働かず、とりあえずスプーンでプリンをすくい上げ、口の中へ入れた。
何かが始まるときは、ふたつ始まる。
新しい出会いには、新しい別れが始まる。
何かが始まるときは、ふたつ始まる。
誰かを探すということは、誰かが身を隠しているということ。
何かが始まるときは、ふたつ始まる。
ひとつの終わりが始まれば、
別のどこかで、
ひとつの始まりが始まる。
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