天罰執行 9

黒い天使を、たったひとりの、その一本の腕が動きを封じている。

下駄に甚平というその男の恰好からは想像も及ばないほどの力で、猛り狂う獣をねじ伏せている。

「あーらら。だいぶ深い位置にまで沈んじまったな、上葉」

ため息交じりにそう呟くと、黒い天使が膝をついた。必死に抵抗しようとしているが腕を動かすことさえままならない。和装の男と黒い天使の力の差は歴然。先ほどまでの光景が嘘かのように、黒い天使が崩れ落ちていく。

折りたたまれるように両膝をついた黒い天使越しに、剣が和装の男の顔が目に入り、その名を呼んだ。

「エ……エイボンさん……」

「よぉ剣。天使相手に軽傷とはまぁ、強運だな。それがお前さんの実力でもあるが」

エイボンと呼ばれた男は完全に黒い天使を押さえつけた。そして黒い天使の口の在りかしかわからない、のっぺらぼうな顔を覗き込むと、耳元で話しかけた。

「すぐ終わるからな、我慢しろよ上葉」

そう言ったエイボンの空いているもう片方の手にはいつのまにか、どこからともなく取り出された年季の入ったやかんが握られていた。

それを黒い天使の頭に、まるでジョウロで花に水をやるように、やかんの中身を浴びせた。

透き通った混じりけのない、ただの水が頭にかかった瞬間、黒い天使は絶叫した。

苦しみでのたうち回ろうとするが満足に体を動かすことが出来ず、逃げ場がなくなった衝撃が体を伝って地面へ流れ、その力の大きさで地面がひび割れる。

そのひびは剣の足元までに達し、思わず跳ねて逃げる。わずかながらに体を動かせるまでには回復したが、ダメージは大きく治すスピードさえも遅くなってしまっている。

一定の距離まで離れた時、黒い天使を中心に黒い水たまりが広がっていってることに剣は気づいた。

「洗い流してる……?」

その言葉の通り、黒い水に覆われた顔から人間の皮膚が見えた。

黒い水たまりが広がっていくにつれて、黒い天使の叫び声も弱々しくなっていっている。

とめどなくやかんから溢れる水は、確実に黒い天使を人間に戻している。

時間にしてわずかだが、ようやく黒い天使の体から黒い水が洗い落とされ、青木上葉の姿が露になった。

エイボンは水をかけるのを止め、やかんから手を離す。地面へと落下したやかんは空中で、まるで見えないクローゼットにでもしまわれたかのように消えた。

そして意識を失っている上葉を片手で支え、ゆっくりと地面へと寝かせる。

脅威は去ったことがわかった剣はホッと一息つく。だが同時に視界の端で、足元の黒い水が生きているかのように蠢いているのが見えた。

斜面を滑るかのように、倒れている紫苑の元へと。

「――エイボンさん!」

危険を察知した剣は叫ぶが、エイボンは落ち着いた様子で慌てふためく剣を手を突き出して制す。

「大丈夫だ。抜かりはない」

そして突き出した手で真下を指さす。剣が視線を落とすとそこにはいつの間にか急須のティーセット一式が置かれていた。

「は?」

突如として現れた青銅色のティーセットにあっけにとられていると、エイボンは音を立てないように静かに急須の蓋を取った。

すると未だ目を覚まさない紫苑に向かって小川のように流れていた黒い水がピタリと止まり、次の瞬間にはまるで逆再生の映像かのように急須の中へと吸い込まれていく。

明らかに急須の大きさからして溢れ出る要領だがしかし、急須が黒い水でいっぱいになることはなかった。

すべての黒い水が急須の中に消えたのを確認すると、静かに蓋で閉じられる。

そして雑に腕で急須のティーセット一式を押しのけると、またしても先ほどのやかんのようにどこかに消えた。

これでどうやら完全に脅威はなくなったようだ。


「さて……とりあえず聞きたいことは山ほどあるだろうから、場所を変えるか」

エイボンの提案に頷くと、剣は痛みに呻きを上げながらゆっくりと立ち上がる。

満身創痍の剣には手を貸さずに、エイボンは意識を失ったままの上葉を軽々と肩に担ぎあげ、さっさと出口へと歩いて行ってしまう。

そのまま倉庫の外へと出ていくかと剣は思ったが、ピタリとその足は止まる。エイボンがしゃがんだその場所には玄河紫苑が倒れたままである。

「ソイツも連れていくのか?」

冷徹に疑問の言葉を投げかける。無論剣はその女を連れていくことに抵抗を感じている。目が覚めたらまたこの二人に、に襲われるかもしれない。先に仕掛けたのは剣だが。

紫苑も軽々と担ぎ上げたエイボンは振り返る。その顔には少しだけ笑みが浮かんでいる。

「ちゃんと教えた通りに恐怖しているようだな。だがビビリすぎだよ。この子たちのことはあとでちゃんと教えてやる。無知こそいらん恐怖の始まりだ」

「だけど――!」

剣は一歩進もうとしたが、体は動かなかった。ついつい忘れてしまうが、いまだに剣は紫苑にかけられた言葉の呪詛から解放されていない。言葉だけで相手を意のままにしてしまうその女はやはり危険だと、剣は恐怖する。

「ん? ああなんだ、お前“縛られてんのか”。こればっかしはどうしようもできねぇからなぁ」

エイボンはやれやれと肩を落とすと剣の後ろへと二人を担いだまま歩いて行った。

「お前が先歩け。とりあえずすぐそこの海浜公園にでも行くぞ」

剣の後ろに陣取ると顎で出口を指し示した。

剣は渋々歩き出す。わずかながらにだが痛みはだいぶ引いている。これなら問題なく目的地まで不自由なく歩いて行けるだろう。

忘れずに投げ捨てたリュックを拾い上げ、無造作に中から包装されたブリトーを取り出し、リュックを背負った。

雑に包装を剥がし、ブリトーを頬張る。どうやら口の中も切れているらしくアボカドディップが染みる。だが何か食べてないと気が紛れない。

横目でチラリと後ろからついてくるエイボンと、その両肩に担がれている二人の後頭部を眺める。最早ふたりのその黒髪を見ただけで、先ほどのことを思い返してしまう。

だから食べることで気を紛らわす。幸いにもこの赤い腕をつけてからはカロリーの消費が激しい。

冷たい風が体を撫でて去っていく。いまは夏だというのに、吐く息は白い。そういえばいまは上に何も着ていない。着ようにも服は破り捨ててしまった。

口の中の食べ物を飲み込むと剣は深いため息をつき、ポツリと呟いた。

「厄日だな……」




何事もなく海浜公園に到着した四人は、休憩所のベンチに上葉と紫苑を寝かせた。

剣はその横に腰掛け、エイボンがどこからともなく取り出した包帯や薬で治療を受けていた。

上葉も怪我を負っていたハズだがどこにもそれらしき外傷は見当たらない、無傷である。恐らく黒い水に全身が覆われた際に完治したのだろう。まったくもって人間離れしていると剣は思う。

「気になるか? お前さんも今では大概だが、この子はもっと上の存在だ。だからお前さんは無理ができないぞ、と」

ペシっとエイボンに包帯の上から腕の傷を叩かれ思わず痛みの声が漏れる。いまのは傷の痛みではない。この男の叩く力が阿呆の如く常識の範疇を超えているのである。エイボンも人間離れであることは剣は知っていたが、その実力はまだ垣間見ていない。

「アンタもその大概に入ってると思いますけどね」

治療を終え、エイボンはまたもやどこからともなく、今度はTシャツを取り出し剣に手渡す。いつの間にか包帯やら薬が入っていた木箱は消えている。

エイボンは剣の上葉の間に腰掛けると、いつの間にか口に咥えていた煙管に火を付ける。

「さ、て、と。色々とお前さんに話す前に」

そう言い剣の赤い腕に手を近づける、その中指を親指に引っ掛ける構えは、DEKOPIN。

さっきのあの威力でデコピンが? と剣が思った矢先、その体が吹き飛ばされていた。

風の轟音と共に宙を舞い、生垣のクッションに叩きつけられる。剣が想定していた何倍もの力のデコピンをエイボンは繰り出した。

「まずはうちの可愛いかわええ甥っ子をいじめた罰だ。あとできちんと続曹ゾクソウにもやるとも。あちらさんには効かんが、まあ一応公平にな」

剣はうめき声を漏らしながら、デコピンを食らった腕を庇いつつ草木をかき分け這い出てくる。

「甥っ子って……ソイツが?」

「やっぱし言ってないか。まああのシャッチョサンが教えるわけねぇがな。あんにゃろいったい何企んでやがる」

休憩所まで戻ってきた剣は元の位置に座り、上葉を見る。エイボンの甥、ということはエイボンも天使のような怪物に変身できるのだろうか。それならば黒い天使の対処法を知っていても何ら不思議ではない。

「言っとくが俺は“御使ミツカイ”じゃねぇぞ。そもそもこの子は養子だ。俺の姉のな。だから血の繋がりはない」

エイボンは口からハートの形の煙を吐き出し、煙で遊びながら話を進める。

「この子は“外から来た子”だ。初めて上葉を見た時は、黒いブヨブヨした塊だった」

「それよりいまのハートどうやった!?」

脱線しようとする剣を無視し、ポイント切り替えなど行わずにそのまま続ける。

「どっから連れてきたかは想像できたがな。兄弟はみんな反対してたよ“お前みたいなイノシシ女には無理だ”って。みんなぶん殴られて黙らされたけど。でも母さんだけは違ってな」

「イノシシなの? ソイツの母親」

「違う、そういうことじゃない。で、母さんは人間としての育て方を教えた。それに従い姉は子に自分と同じ名前を与えたり、様々な人間としての要素を与えた。そしたら日が経つに連れてどんどん黒い色素が消え、人間の赤子の姿になった」

エイボンの説明に剣はただ頷いている。

「じゃあソイツ宇宙人なのか。通りでたくさんゲロを吐くわけだ」

「宇宙人か……お前が想像している宇宙人の定義だと違うな。上葉の産みの親と言える存在は、人間だったよ。昔はな」

「あ? じゃあ人間から黒い塊が生まれたのか? 悪魔降誕の儀式みたいに」

「いいや悪魔じゃない。上葉は“天使”なんだ。正真正銘、本物のな。まあお前さんに色々と教えるにはまだ基礎を見てないか。そうだな、少しだけ人間を超えた存在だと思っておけばいい。後々それで説明なしで察せる」

聞かされた話を頭の中で反芻しながら、腕を組みながら唸る剣を眺め、エイボンは思わず笑い声を漏らしてしまう。

「どうした急に」

「ああ、昔のことをちょっと思い出してな。俺も最初は訳も分からずに、流れに任せて色々やってたからな。それが600年前、15世紀くらいか。お前ら昔の俺たちソックリだよ」

「は?」

突如としてエイボンの口から出てきた数字の大きさに、剣は思わず驚嘆の声を漏らす。つまりはいまエイボンは自分は600年も昔から生きていると言ったのである。上葉のことだけでも何も理解できていないのに、剣の脳内をいじめるように続々と理解できない情報を次々とエイボンは話しだす。

エイボンの話に対する基礎知識を持っていないのに、まるで“そういうものだ”と言わんばかりに理解より先に事実を突きつける。

そんな感じに困惑する剣を差し置いて、エイボンは楽しげに笑っている。

「要するにだ。俺はこう見えても、棺桶に両足突っ込むのを六回以上繰り返してるジジイってことだよ」

「エイボンさんも……人間じゃないのか」

剣のその呟きには上葉や紫苑に対したものと同じ畏怖が、込められていた。いまの話で剣は、エイボンも上葉や紫苑と同列の、あるいはそれ以上のものだと認識は出来たのだとエイボンは察した。

「俺が……怖いか?」

その問いに剣は首を横に振る。

「いいや、アンタは右も左もわからない俺に、“戦い方”というものを教えてくれた。だから恩義を感じている。恐怖はもうしない」

剣の意思は固い。それは剣がネクストコープの社長である、天宝院テンポウイン続曹ゾクソウの提案を受け入れ、赤腕を選んだ時から確固たるものを持っている。

今更過ぎたな、とエイボンは煙を吐き出す。

「できたらで、いいんだけどさ」

エイボンは眠る上葉の頭を撫でる。数百年も生きてしまえば、時間の感覚が鈍ってしまう。エイボンにとって小さかった上葉に叔父として接してきたことがつい昨日のことのように思い出せる。だからこそ剣に懇願した。

「あんまり、この子たちのことを怖がらないでやってくれ。誰しも彼しも“人間”ってのはいつ生まれるかも、何に生まれるかも選べない。でも誰になるかは選べる。だから、その言葉に耳を貸してやってくれ」

エイボンが語るその声に、剣は何が言いたいか理解はできなかったが、その想いというものは理解できた。

だから頷いた。

剣は反省した。自分は知ろうとしていなかった。物事を見た目だけで独断し、恐怖しかしておらず、恐怖を理解しようとはしていなかった。

長年の経験なのか、エイボンにはすべて見透かされているようである。

剣がエイボンから教わったこと、それは。

何事にも恐怖を抱け。恐怖を抱かないものは死ぬ。恐怖を抱いたものは震える。そしてその震えを止めるために知ろうとする。火はあらゆるものを燃やし尽くす。だが火が燃えるには条件がある。水や砂で火を覆いつくせば火は消えるものだ。

知らないから何もできない者と、知っているから行動できる者の差は大きい。

剣は上葉に対して、知ったつもりでいた。思い返せば本人からは何も聞いていない。何も知らないままでは、この火は消せない。

「そういえばエイボンさん。もしかしてソイツ、上葉にも戦い方を教えたのか? 俺と同じ構えをしていた」

「ああ、戦法は俺が仕込んだ。他の武器への対処とかは弟たちが教えたけどな」

剣はどうやら、上葉を知ろうしてくれている。

いい恐怖だ。とエイボンは微笑む。

だがいつか、剣も、上葉も、知ることになるのだろう。

恐怖を知っても、海から浜辺に打ち上げられた雑魚風情には、どうすることも出来ないことが存在することを。

エイボンは眼前に位置するベンチに横たわる紫苑を見つめる。

「……かわいそうに」

人間誰しも夢を見る。いつ生まれるか選べなくても、何に生まれるか選べなくても、どんな自分になるかを夢見るものである。

だが世の中には、そんなことですら選ぶことが出来ない人間がいる。

エイボンが紫苑を見るその瞳は、その夜空が映しだされているような黒い瞳には星々が輝きを放っている。

彼女の未来は、冷たい暗黒に覆われている。

まるですべてが閉ざされた、この星の果てのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る