お誘い

「いいお天気ですね」

 頭上から透明で澄んだ声がふってきたのは、公園の土手、芝生が生い茂った斜面で昼寝をしているときだった。

 ただ目を閉じていただけなのだが、晴天の正午、降り注ぐ春の陽射しに、いつのまにか眠っていたのだろう。まどろむ意識のなか、片目だけを開けると、まぶしい光が視界を白くおおった。どれだけの時間、眠っていたのかわからないが、おそらく一時間ほどだろうか。太陽が、穏やかな空のなかで、さきほどとほぼ変わらない位置にある。その陽光のなかに、細長い人影のシルエットがあった。目が光に慣れ、意識が覚醒しはじめて、視界がクリアになっていく。

 そこにいたのは、ひとりの女性だった。

 腰を少しかがめて、こちらの顔をのぞきこんでいる。ゆるやかな微風にふかれる長い黒髪を、首のうしろ、うなじのあたりに手をやり押さえている。陽光をあびた美しい黒髪が風になびくたび、つややかな光沢がそのなかに流れていった。

 僕は上半身だけを起こし、そうだね、とこたえようとしたら、不意にあくびがもれた。くすくすと上品な笑い声があった。女性が微笑をうかべたまま、こちらに近づき、となりに腰をおろした。

 白いニットセーターにピンク色の薄いカーディガン。濃紺の細いジーンズ。目尻にたまった涙を指でぬぐいながら、ちらりとその横顔に目をやると、まだ若そうに見えた。おそらく大学生くらいだろうか。すくなくとも、三十二の僕よりはひと回り下だろう。

「おはようございます」彼女はいった。

「おはよう」僕はこたえた。「なにかようですか?」

「休憩中、申し訳ありません。ひとつ、たずねたいことがありまして」

 なんだい、と口を開こうとしたとき、僕らがいる土手の向こう、グラウンドから大きな声があがった。

 目をやると、白球が勢いよく空に伸びていた。大きな放物線を描いたボールは外野のあいだに落ち、バウンドして転がるボールをセンターが拾ったとき、二塁にいたランナーはホームに帰っていた。センターからの返球をショートが捕ったとき、タイムリーを打ったバッターは二塁にスライディングをしていた。スコアボードに点数が加わる。二回で三対ゼロ。しかもノーアウトランナー二塁。まだピンチは続いている。マウンドにいったキャッチャーが、帽子を脱いで汗をぬぐうピッチャーに対し、グローブで口元を隠しながら声をかけていた。

 女性がその光景を指さし、たずねてきた。

「彼らは、なにをしておられるのですか?」

「なにって、野球だけど」

「やきゅう?」

 心底ふしぎそうに彼女は首をかしげた。

「もしかして、野球のこと、知らない?」

「はい」

 素直にうなずく女性のことを、僕は珍獣を観察する目で見ていたのだろう。こちらの視線に気づいた女性の顔が、ほほえみから苦笑に変化した。

「わたくし、ここにきたばかりでなにも知らないもので、あの子供たちがなにをおこなっているのか教えていだだけませんか」

 僕はもう一度、彼女の顔を見返した。

 世界的にはマイナースポーツとはいえ、野球はこの国ではメジャースポーツのトップのひとつだ。興味はなくても、その存在をまったく知らない人間と会うのははじめてだった。

 グラウンドでは、ピッチャーが投げた低めのストレートをバッターが引っ掛け、セカンドゴロに倒れていた。そのあいだ、ランナーが三塁に進んでいる。ワンアウト三塁。

「野球というのは」僕はいった。「九人対九人でおこなう点取りゲームです。攻撃と守備を交互にくりかえし、それを九回までやって、より多くの点をとったほうが勝利する球技です。もっとも、これは小学生なので七回までですが」

「なるほど。点をとるには、どうすればよいのですか」

「それは」いいかけ、僕はグラウンドに顔を向けた。「彼らのプレーを観戦しながら説明しますよ。じっさい、やってるところを見ながらのほうがわかりやすいでしょうし」

「たしかにそうですね」彼女はほほえんだ。「それでは、よろしくお願いいたします」

 ピッチャーがボールを投げた。一瞬、反応しかけた左バッターはしかし、バットを振らず見送った。ボール。

「バット、あの木の棒のようなものをもっているのがバッター。攻撃側の人間です。ひとりずつ打席にたち、ピッチャーが投げたボールを打って塁にでます」

「ピッチャー?」

「いまボールを投げようとしている選手です」

 首をふったピッチャーが三度目のサインにうなずき、投げた。低めのストレートがワンバウンドした。キャッチャーがはじき、三塁ランナーが走ろうとしたが、すぐに捕球したキャッチャーの動きを見て足を止め、塁に戻った。

「あれがピッチャー。ボールをとめたのはキャッチャー。ふたりはバッテリーとも呼ばれてますね。そしてバッターがいるところをホームベースといいます」

 彼女が内野をぐるりと見回した。「それと同じものが、あと三つありますね」

「バッターから見て右側が一塁ベース。そこから反時計回りに二塁、三塁と進み、ホームに帰ってきたら点がはいります」

「なるほど。つまり、いま三塁ベースに人がいるので、彼がホームに帰ったら点がはいるのですか」

 うなずいた。「三対ゼロなので、あのランナーがホームベースを踏んだら加点され、四対ゼロになりますね」

 ピッチャーが三球目を投げた。バッターがフルスイングしたが、勢いよく空振りした。タイミングが合っていない。ストレート待ちのところ、変化球、おそらくスライダーでも投げられたのだろう。ツーボールワンストライク。

「バットに当たりませんね」彼女はいった。

「野球というスポーツは、ピッチャーが有利になっているんです。どんなに優れたバッターでも三割、十回の対戦で三回しか打てない」

 くすりと彼女は笑った。「攻撃しているのに、有利ではないのですね」

 四球目。ストレートが高めに抜けた。スリーボール。

「バッターのかたが振らないときがありますね」

「ストライクゾーンというものがあるんです」僕はこたえた。「そこにボールがくればストライク。空振りしてもストライクとなりますね。スリーストライクとなるとアウト。アウトカウントが三つになると攻守が交代します。そして、ゾーンから外れたらボールとなり、ボールカウントが四つになると」

「なると?」

 指さし、こたえた。「フォアボールとなり一塁に出塁となります。あんなふうに」

 五球目は変化球がワンバウンドした。バットを地面においたバッターが一塁に進む。ワンアウト一、三塁。守備側のベンチの最前列にいる監督が、腕を組みながら首をかしげている。交代のタイミングを伺っているのかもしれない。ネクストで素振りをしていたバッターが右打席にはいった。

「ピンチですね」

 身を乗り出しながら彼女はいった。少年野球を楽しんでいるのか、声色が大きくなっていた。

 大きく息を吐いたピッチャーが、意を決したようにおもいきり腕をふった。遠目からでもわかるほどスピンの効いたストレートだ。しかしコースが甘かったのか、コンパクトなスイングで打ち返された。速いゴロがピッチャーの足元を抜けていった。センター前ヒットとなる追加点のタイムリー。だれもがそう確信した打球はしかし、セカンドのグローブに阻まれた。

 ファインプレーに女性が歓声をあげた。

 抜けそうな打球を間一髪で捕球したセカンドは、すぐに二塁のカバーにはいっていたショートにグラブトスし、ボールを受けとったショートは二塁ベースを踏みながらファーストに投げた。タイミングはぎりぎりだった。しかし、バッターが一塁ベースを走り抜けるよりさきに、ボールはファーストのミットにおさまっていた。ダブルプレー。ピッチャーが嬉しそうに声をあげ、自分のグローブを叩いた。

「ゲッツーですね」僕はいった。

「ゲッツー?」

「いまのように、ひとつのプレーでふたつのアウトをとることを併殺、ゲッツーといいます」

「なるほど。あ、みなさまがベンチに帰っていきます」

「いまのゲッツーでスリーアウトになりましたから。チェンジ、攻守交代のため、ベンチで準備しているんです」

 それぞれのベンチに戻った少年たちのなかに、ひとり、チームメイトから次々と声をかけられる選手がいた。そのたび、彼は嬉しそうに笑みをうかべている。その光景を指さし、彼女はたずねてきた。

「あの四番の子、みなさまから褒められていますね。さきほどの素晴らしいプレーのおかげでしょうか」

「おそらく」とうなずいた。「シフトを敷いていたとはいえ、あれはナイスプレーだった」

「シフト?」

「守備のフォーメーションのことです。ランナーの有無やバッターの特徴、ゲームの展開によって、内野や外野の守備位置を変更することです」

 彼女が首をかしげた。そういえば、ポジションの説明をしていないことに気がついた。

 ちょうど、三塁ベンチの選手たちがそれぞれの守備についたところだった。僕はひとりづつ指をさしながら解説した。

「一塁ベースにいるのがファースト。そこから反時計回りにセカンド、ショート、サード。この四人が内野手。いちばん向こうにいるのがセンター。その右がライト、左がレフト。この三人が外野手と呼ばれてます。この七人の守備位置を、状況によって変更するのが守備シフトです」

「なるほど」感心したように彼女はうなずいた。「ただ投げたり打ったりするだけではなく、戦術的な要素もふくまれているのですね。非常に興味深いです」

 苦笑がもれた。目を輝かせて少年野球を観戦している女性と会うのははじめての経験だった。

「ところで」

 ピッチャーが投球練習をしているあいだ、彼女がこちらに顔を向けたずねてきた。

「あなたは、とても野球にお詳しいご様子ですが、もしかして専門のかたですか?」

 すぐには返答できなかった。

 専門のかた。プロフェッショナル。たしかにそうだ。いや、そうだった。ドラフト一位の甲子園優勝投手。入団時には背番号十八をあたえられた。監督からは球団のエースになるよう期待されてもいた。努力すれば、そうなれると信じていた。

 しかし、現実は非情だった

「ええ、まあ」とこたえ、そっと右ひじに手をやった。

 長袖で隠れているひじの内側には、十センチほどの縫い傷がいまだに残っている。プロ一年目の九月の終わり。シーズンの順位がほぼ確定した時期に、一軍初登板の機会がやってきた。緊張のなか、二回まではパーフェクトピッチングだった。しかし三回。先頭バッターに一球もストライクがはいらず、フォアボール。続く八番バッターに投げたところで、ぶちっ、となにかが千切れた音が大きく響いた。それは体のなか、おもいきりふった右腕からだった。激痛が走った。全身から冷や汗がふきだしてきた。右ひじ靭帯損傷。その瞬間、僕の野球人生は終わりを告げた。

 手術をし、リハビリを頑張ればもとに戻る確率は高いと、医師から説明を受けた。しかしそれは成功すればのケースで、低確率で失敗するときもある。僕はその稀なケースだった。失った球威とコントロールは二度と戻ってこなかった。それでも十年間、プロの生活を続けられたのは、ドラフト一位という肩書のおかげだろう。

 引退後は地元に帰り、知り合いの工場で働かせてもらっていた。野球とは縁を切ったつもりだった。しかし休日になればこうして、少年たちが野球に興じているところを見に行ってしまっている。心のなかで、くすぶるなにかがあるのかもしれない。

 乾いた金属音が響いた。

 となりから、あっ、と声があがった。

 空高く上がった打球はぐんぐんと伸び、大きな放物線を描いてフェンスの向こう、スタンドに消えていった。拍手と歓声がわきあがった。ピッチャーがうなだれていた。ホームランを打ったのはさきほどファインプレーをしたあのセカンドだった。彼は自軍のベンチにガッツポーズを向けながら、かけ足でダイヤモンドを一週していた。

「あ、あれはなんですか」

 興奮した様子で女性がたずねてきた。

「ホームランです。打球がフェンスを超え、スタンドにはいることですね。無条件で点がはいります」

「すごいですね。あの細いバットであそこまで遠くに飛ばすなんて」

 女性は感心したようにふぅと息を吐き、大きくうなずいたあと、拳をにぎった。

「わたくし、決めました」

「なにをです?」

「この素晴らしい球技を、わたくしの星に伝え、ひろめようと思います。いえ、もっとたくさんの星にも教えてさしあげましょう。きっと理解していただけるはずです。さしあたって、わたくしと一緒にきていただけませんか?」

 この女性はなにをいっているのだろうか。頭のなかにいくつもの疑問符がうかんだとき、聞き捨てならない単語があった。

「星?」

「そうです」

 にっこりと女性はほほえみ、真上の空を指さしてこたえた。

「わたくしは、ここから二十光年ほど離れたナヤトヤハク星からやってまいりました宇宙人なのです」

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ショートショート集 ヤタ @yatawa

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