星と月
とりたててなにもなく、だからといってまったくヒマなわけでもなく、つまりはいつもとおなじ、ほどほどに忙しい一日だった。
夜の九時すぎ。住宅街をとぼとぼと歩き、立ちならぶ立派な家の窓から漏れる光と、子供の明るい声、テレビの音、なにげない日常のなか、すれちがうサラリーマンの表情は、僕と同じように疲れた顔をしていた。夜だというのに蒸し暑く、ただ歩いているだけなのに、じんわりと汗がにじんでくる。夏の夜、星がきらめく空のした、街灯の光のまわりでは、無数の小さな虫たちが激しく飛びまわっていた。
住宅街をぬけ、大通りの交差点のまえにあるコンビニまできたところで、店のわきにある喫煙コーナー、円柱型の灰皿が設置されてある場所にひとりの女性が突っ立っているのを見つけた。
この蒸し暑いなか、黒のライダースーツを着ている。くわえている短いタバコの火が、夜の闇のなか、彼女の顔をぼんやりとうつしだしていた。
コンビニのなかに入り、冷たい缶コーヒーと売れ残りの弁当を買って店をでたら、女性はまだタバコを吸っていた。いや、さきほどより長いタバコをくわえている。新しいものに火をつけたのかもしれない。
なにげなくそちらに目をやっていると、不意に彼女の顔がこちらに向けられた。目が合った。茶色のショートカットが、コンビニの窓ガラスからあふれ漏れる光に照らされ、暗闇のなかでよりあざやかに明るく見える。女性のくちびるが弧を描いた。新しいおもちゃを発見した子供の笑みがそこにあった。
嫌な予感がした。そしてそれは的中した。くわえタバコのまま、彼女が手まねきをしてきたのだ。笑顔のなかに断れない圧力があった。しかたなく、しぶしぶそれにしたがった。
近づいていくと、タバコの不快な匂いが鼻についた。それが多少、顔に出ていたのかもしれない。女性が苦笑いをうかべた。
「なにかようですか?」僕はたずねた。
女性が、おそらく火をつけたばかりであろうまだ長いタバコを円柱型の灰皿にもみ消し、ほほえんだ。
「べつにようってわけじゃないけど」彼女はいった。「あなたがずっと私のことを見てたから、なにかいいたいことがあるんじゃないかと思ってね」
予想していなかった言葉に、とっさに返答がでてこなかった。
女性は、ライダースーツのうえから羽織っている濃紺のジャケットから四角の箱をとりだし、それを軽く指で叩いたあと、すこしだけでてきたタバコを口でくわえ、そのまま引き抜いた。安物のライターで細長いタバコの先端に火をつける。流れるような動作だった。まるでそうプログラミングされたロボットのような、よどみない動きだった。
ライターの火がついた一瞬、彼女の顔、口のまわりが明るく照らされた。年齢は僕より少しうえ、二十代後半といったところか。三十には届いていないと思うが、よくわからない。そもそも、職場以外で女性と話す機会は最近、ほとんどなかったのだ。
彼女がゆっくり紫煙を吐いたところで、ようやく僕も口をひらいた。
「すみません。見かけない方がいたので、つい」
「ふうん」こちらを値踏みするような視線を送ったあと、おかしそうな笑みをうかべた。「三十点かな。あなたの美しさに目を奪われていました、とこたえてたら、今夜ひと晩、付き合ってあげてもよかったのに」
突拍子のない言葉におどろき、女性の顔を見返すと、そこにはいたずらが成功した子供の笑みに似た顔があった。どう反応したらいいかわからず、憮然と立ちつくしていると、指のあいだにタバコをはさんだ彼女が、ごめん、からかいすぎた、と笑った。
「ねえ、きみは」そこで言葉をきって、僕が着ている薄汚れた半袖の作業着に目をやった。開いた口をべつのかたちに変えて言葉を続けてくる。「きみ、会社帰りなの?」
うなずいた。
「へえ。こんな時間まで働いているんだ。会社はこのちかく?」
「歩いて二十分ほどのところにある工場ですよ」
「それじゃあ、疲れてるとこ引きとめて、わるかったかな」
「いえ、大丈夫です。家に帰っても、やることありませんから」
じっさい、そのとおりだった。ひとり暮らしのアパートに帰っても、晩ごはんのコンビニ弁当を食べたあとは、風呂に入って寝るだけなのだ。それなら、コンビニのまえで女性と会話をしていたほうが、よっぽど有意義な時間だろう。
「工場につとめてるの?」
「ええ、まあ」
うなずいたあと、顔をあげた。
夏の夜空には雲ひとつなく、澄んだ闇のなかで、いくつも小さなきらめきが輝いている。
女性に顔を戻し、僕はいった。
「星を造ってるんです」
「星?」彼女がぽかんと口を開けた。
そのせいで、ちょうどくわえていたタバコが落ち、あわてながらもそれをうまくキャッチした女性は、人さし指と中指ではさんだタバコの、フィルターのうしろの部分を親指で軽くノックして灰を落としたあと、ふたたび口にくわえた。
「はじめて聞いた。星って、人工物だったんだ」
「あまり知られてませんが、実はそうなんです。そのなかでも、うちの会社は全世界で六割のシェアを占めているんです」
「へえ。それって、凄いことなの?」
「いちおう、この業界のトップの売り上げを誇ってます。といっても、僕はただの作業員ですけど」
「ふうん」彼女がにやりとした笑みをうかべた。「でもさ、そんなに星を造ってたら、夜空が星に占領されないかしら」
「それは大丈夫です。打ち上げた星はメンテナンスができなくて、いくら防錆剤を使ってもすぐに錆びはじめ、輝きを失っていくんです。そうしたら新品の星と交換することになっているので、空が星に埋め尽くされることはない。もっとも、そのサイクルが短いせいで、いつも残業するはめになってるわけですけど」
「なるほどね」
僕の言葉を信じたのかどうか判断できない態度のまま、彼女は労うようなほほえみを向けてきた。
「大変なんだ。おつかれさま」
その微笑があまりに美しく、なぜか妙な気恥ずかしさを感じ、おもわず視線をそらしたら、すぐそばの駐車場に大型のバイクがあることに気づいた。
海外のアクション映画で大男が乗りまわしているような、重量感のある黒光りする外装に、夜の闇のなかでもぎらつく光るメッキ加工されたエンジンまわり。前後二本のタイヤは太く、前輪の両サイドから斜め上にまっすぐ伸びたシャフトの真ん中には大きなヘッドライトがひとつ、エンジンから後輪にかけて伸びた歪曲したマフラーは鈍く虹色に焼きついていた。
位置関係から、このバイクが彼女のものであることは間違いないだろうが、細身の女性が運転するには、いささか不釣り合いにも思えた。
「そういえば」僕はいった。「あなたはどうしてここに?」
彼女はこたえた。「旅の途中なの」
「ひとりで?」
「そう。自由気ままなひとり旅」
「目的地はどこなんですか?」
「月」
月? ジョークかと思ったが、夜空を見上げる彼女の横顔は真剣そのものだった。
満月と半月のあいだのような楕円のかたちをした月が、そのクレーターのあとがくっきりわかるほど、夜の空にはっきり輝いている。まわりにある無数の星々がかすむほどに、暗闇のなかで圧倒的にその存在を主張していた。
「あそこまでいくのに、時間がかかるでしょう。だから、こうして休憩してたの」
「へえ、大変そうですね」
「星を造るのと同じくらいにはね」
こちらに顔を向け、彼女は微笑した。
それから短くなったタバコを灰皿にもみ消し、「さてと」と両手をあげて大きく伸びをしながら、バイクに近づき、長い脚をひるがえしてシートに跨った。
「それじゃあ、これで」
「あ、ちょっと待って」
僕は手にもったビニール袋から缶コーヒーをとりだし、彼女に軽く投げた。空中で放物線を描いた缶を片手でキャッチした彼女は、不思議そうに缶コーヒーに目をおとしたあと、こちらに顔を向けてきた。
「疲れたら飲んでください」僕はいった。
彼女がいたずらっ子のような笑みをうかべた。「ありがと。また会うときがあったら、こんどはひと晩、付き合ってあげる」
缶コーヒーをジャケットのポケットにしまい、ハンドルにかけたフルフェイスのヘルメットをかぶり、彼女はグローブをはめた右手を軽く振った。
そうして僕らは別れた。
それから十分ほど夜の街を歩いてアパートまでたどりついたとき、ふと空を見上げると、月に向かって移動する小さな輝きが見えた。いそいでスマートフォンをとりだし、カメラモードにしてそれを拡大すると、夏の夜の空、無数の星がきらめくなかを走り抜けるバイクに跨った女性の姿があった。
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