インザゲーム
電車が走っていた。
ビルの二階にあるカフェ。その窓際の席から見える一本のまっすぐな線路の上を、轟音を立てて二両編成の路面電車が過ぎていった。ちらりと見えた車内の席は八割ほどが埋まっている。警報機のサイレンが止んで、踏切が上がり、通行人と自転車が動いたあと、停止していた車の列がゆっくりと進みはじめた。春の穏やかな陽射しのなか、ながめる視線の先に、戻りつつある人々のにぎわいがたしかにあった。
ここ数年、世界はウイルスによって支配されていた。そう感じるほど驚異的な速度で感染する新型のウイルスが蔓延し、その致死性に恐怖し、まるで終末のような雰囲気が街を、そして世界を覆い尽くしていた。しかし、パンドラの箱のように、最後の最後には希望が残っていた。
世界中の研究者がその叡智を集めて完成させたワクチンはすぐに効果を発揮し、四年という歳月を経て、ついにウイルスから打ち勝つことができたのだ。すべての人々に安堵が訪れた瞬間であった。
街の喧騒が二階からでも聞こえてくる。眼下に広がる街路樹のなかに、踏切を渡った学生のグループの姿があった。マスクをしていない彼らの顔は笑みであふれていた。午後三時の穏やかな春の時間がゆっくりとながれている。快晴の空のした、街ゆくすべての人に平和の陽射しが降り注いでいる。
「ごめんなさい、遅れました」
声がかけられたのは、そんなときだった。
視線をそちらに向けると、テーブルのそばにひとりの女性が立っていた。
年齢は二十歳ほどだろうか。まだ若い。白のシャツに明るいベージュのロングスカート。清潔な店内に溶け込むような淡いシンプルな服装と、ベリーショートの黒髪がコントラストとなって、長身をさらに際立たせている。薄い水色のマスクをしていて表情は読み取れないが、綺麗に切り揃えられた前髪の奥にある大きな瞳のなかに、かすかな暗い色が落ちていた。
「大丈夫だよ」できるだけ優しい声でいった。「僕もいまきたところだから。それより、座ったら?」
「あ、はい。失礼します」
ぺこりと小さくお辞儀をしたあと、対面の椅子に優雅な動作で腰を下ろしたのを確認してから、僕はテーブルの奥にあるタブレット端末に指を伸ばした。メニューにあるアイスコーヒーをタップしたあと、彼女のほうに眼を向ける。
「あ、カフェオレでお願いします」
うなずき、タブレットの画面を操作してふたり分の飲み物を注文した。
彼女が肩にさげたショルダーバッグからノートパソコンを取りだし、テーブルの上に置く。やや厚みのある八インチのそれは、ゲームに特化したモバイルPCだった。僕も、テーブルに置いてある自分のノートパソコンをひらき、デスクトップ画面のアイコンをクリックする。わずかなロードのあと、画面が切り替わり、ピクセルアートで描かれた原始時代のマップが表示された。藁葺屋根の竪穴住居がいくつもある草原。ところどころ芝生が剥げ、焦げ茶色の地面が剥き出しになっているこの広場が、ゲームのロビー画面だった。
ドット絵のキャラクターがまばらに存在し、それぞれが動いているなか、僕が操作している、黒髪に腰みのを着けた男のキャラクターに近づいてくるプレイヤーがいた。
明るい茶色の長髪で、チュニックのような服の毛皮をまとったその女性キャラは、僕の前までくると、右手を上げる動作をしてみせた。このゲームに最初から登録されてある挨拶のジェスチャーだ。それから、画面の下にあるチャット欄に文字が表示された。
rina : こんにちは
僕はキーボードを叩いた。
kuro : こんにちは
打ちこんだ文字を見て、無意識に笑みが漏れていた。
「どうかされました?」
正面から、素朴な疑問をふくんだ響きの声がかかる。かぶりをふって僕は答えた。
「いや、なんでもないよ。ただおかしかっただけさ。こうやって向かい合っているのに、ゲームのなかで挨拶をするのが」
一瞬、虚をつかれたように眼を見開いた彼女はしかし、次の瞬間にはマスク越しに鈴のような声で小さく笑っていた。
「たしかにそうですね」
僕らがこのゲームのなかで出会ったのが、二ヶ月ほどまえのことだ。原始時代を舞台にしたこのオンラインゲームは自由度が高く、狩りや農業、酪農のほか、クラフトでつくった家具や服を売買したり、家を建ててフレンドと一緒に生活できたりと、プレイヤーの数だけ選択肢のあるスローライフ系のゲームだった。
そこで、あるアイテムを入手するために、ロビー画面でパーティーを募集していたのが彼女だった。マンモスの牙を使ったアクセサリーを作るため、一緒に狩りをしてくれる仲間を探していたのだ。このゲームの戦闘はプレイヤーの技量よりもレベルの高さが求められ、やりこんでいる人間ならソロでの討伐も可能だが、彼女のレベルはまだ一桁代の7であり、はじめたばかりの初心者だったのだ。
声をかけ、フレンド登録を終えたあと、さらにふたりのプレイヤーをくわえた四人で狩りに行った。成果は上々だった。その日をきっかけに彼女と仲良くなり、一ヶ月後、こうして週に一度このカフェで会うようになっていたのだ。
僕はキーボードを叩いた。
kuro : それで今日はどうするの?
rina : レベル上げをしたくて。効率のいい場所、知りませんか?
kuro : それなら、大型の恐竜を狙うのがいい。ブラキオサウルスあたりが妥当だと思う
このゲームにおいて、四足歩行で大型サイズの生物は攻撃力が高いものの動きが遅く、集団戦であれば初心者でも対応できるレベルだった。
kuro : ふたりでも大丈夫だと思うけど、安全にいくならパーティーを組んだほうがいいね
rina : tomaさんとpeterさんに声をかけてみますか?
kuro : この時間にいるかな
いつも組むそのふたりはログインする時間が僕らと違い、すれ違うことが多いのだ。
rina : 一応、連絡してみますね
kuro : 僕は掲示板でメンバーの募集をしておくよ
rina : お願いします
彼女のキャラがぺこりとお辞儀をした。それからそれぞれの作業に取り掛かった。
同じテーブルで向かい合っているのに、ほとんど会話もせず、ゲーム内のチャットだけでやりとりをしている。とてもいびつな関係に見えるが、それが普通なのかもしれない。飲み物を運んできたウエイトレスが愛想笑いをうかべ、ごゆっくりどうぞ、といって去っていった。
それから、二時間ほどプレイを続けた。
結局、tomaとpeterのふたりはいなくて、別のプレイヤーと一緒に組んで三人でクエストをはじめた。その人はやりこんでいるらしく、戦闘ではとても頼りになった。目標のレベルに達して彼女も喜んでいた。ひととおり終えたあと、あちらのほうからフレンド登録の要請が届いたので、僕らはすぐにイエスの返事をおくり、メッセージのやりとりを終えて別れた。
ログアウトした。
窓からながめる空は薄暗く、太陽がかたむき、遠くのビルのあいだに隠れようとしている。地平線から見えるあざやかな夕焼けのオレンジ色が、モニターをずっと見続けていた眼に沁みた。
ノートパソコンを閉じると、すでに帰り支度をすませていた彼女が立ち上がった。
「きょうも楽しかったです」
「僕もだよ」
マスクの下で、彼女はほほえんでいたようだった。
「それでは、また」
「ああ」と僕はいった。「おやすみ」
「おやすみなさい」彼女はこたえた。「いってらっしゃい」
奇妙なやりとりのあと、スカートの裾をひるがえして彼女はカフェを出ていった。
その背中を見送り、僕はため息をついて、目の前の空中に半透明のディスプレイを出現させ、ログアウトの赤いボタンを押した。
瞬間、意識がブラックアウトした。
かぶっていたヘルメット型のヘッドマウントディスプレイを脱いで、テーブルの上に置いた。頭の奥に小さな違和感がある。いつもどおりだ。眼前にある32インチのモニターのデジタル時計は午前七時二十五分を表示している。出社の時間だった。パソコンの電源を落として椅子から立ち上がり、殺風景な部屋の壁にかけてあるスーツの上着を着る。
ちらりと鏡をのぞくと、長時間ヘッドマウントディスプレイをかぶっていたせいか、髪型がおかしなことになっていた。急いで洗面所にいき、くしで整える。洗面台の鏡にうつる自分の顔をながめながら、ふとしたことが頭をよぎった。
地球の反対側にいる彼女はいまごろどんな夢を見ているのか、と。
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